Migraine


「退院まで大体二週間ほど」

担当医からはそう聞かされた。

爆発に巻き込まれたためいたるところに痣や傷がある。
とはいうものの、骨折したわけでもないため動き回るのに支障はなかった。
だが退院までは自分の病棟から出てはいけないといわれた。
さらに病棟は特別な区画らしく、人通りがまばらな上にそれほど大きいわけでもなく。
売店すら存在しない。

つまりは。

退屈だった。

第弐話:絆

恐怖


退屈といっても、傷の手当てや検査、そして連日のように心理検査が行われており、まったく何もしていないわけではない。
しかしそれらの検査が終われば病室に一人。
娯楽といえるものは鞄に入っていたSDATを聞くことくらいしかなかった。
それにしてもテープはもう全部聞き終わり、今は惰性で流しているに過ぎない。


ベッドに座り、少し思い返してみた。
ここ数日でわかったこと。
とりあえず、自分は女の子だ、ということ。
自分の意識は男の子のそれのようだということ。

……性同一性障害?

そう考えても見たが、嫌悪するならまだしも、自分の裸すら恥ずかしいというのはおかしいと思う。
それじゃあさらに自分大好きなナルシストの属性も加えてみたり。

……想像しただけで吐き気がしたのでこれもないんだろう。考えるんじゃなかった。

頭を打ったときに変なスイッチが入っちゃった。とでもしておくしか、今のところ納得できる理由を作れなさそうだった。


現状では男女の意識の差で困るようなことはそれほど多くないのだが、少々困った状況というのはやはりあるわけで。

その一つが着替え。

幸か不幸か、性別というものを思慮にいれずにいた場合、女性的な行動をとっているようだとわかった。
着替えのときも、何も考えずにただ着替えればきちんと下着もつけ、女の子らしい服装に着替えられる、とわかった。

わかったのだが……

認識してしまうと意識してしまうわけで、ものすごく恥ずかしい気分になりながら着替えたことは一度や二度ではない……というか、そちらのほうがはるかに多かった。
しかし恥ずかしいからとブラをつけずにいたりすると、なんとも気持ち悪い感覚になり、結局それを我慢するよりつけてしまうほうを選択した。

同様の状況がもう一つ。トイレである。

何気なく用を足そうとトイレに入ったときはいい。そういう時は大抵女子トイレに入っているからだ。
用を足し終えたあたりで気がついて赤くなるのはまあ仕方ない。

しかし、その、検査などで我慢して、明確な意思でもって『トイレにいく!』と勢い込んでトイレまで行くと……男子トイレの入り口で躓くという、なんとも情けないやら切羽詰った状況に陥るわけだ。

一度そのまま男子トイレに飛び込んだときは悲惨だった。
男子の小便器の前で気がついて激しく狼狽し。
とりあえず個室に入って済ませたはよいが……。
この人の少ない病棟で、よりにもよってこのタイミングで誰かが入ってくる音。

つまりは……

出るに出られなくなった。


このような女の子としては非常に厳しい体験の後、間違っても女子トイレに入りなおすことにしてはいたが、男の子の意識で女子トイレに入ることは、いまだに恥ずかしさが消えない。

そんなこんなではじめの数日はかなりどたばたしていたなあ……と思い返す。
でももうある意味慣れてしまった。
確かに恥ずかしいが、それだけだ。
初めの頃のようにどぎまぎしてしばらく動けなくなるほどパニックに陥る、なんてことはもうない。

怪我の治療も一段落して、精神的にも落ち着いてきた。
だから暇になったと感じたんだと、そう思う。

シクリと何かが軋んだ。

頭の奥で尖ったものが動いている。

少し寒気がする。

部屋を見回した。

広い割にベッドが一つしかない、殺風景な病室。

ぞくりと、背筋が冷たくなる。

おかしい。

おもわず両手で肩を抱いた。

寒気は一向に収まらない。

頭の痛みはズキズキと続いている。

寒い。

体が震える。

怖い。

なんで?

そんな対象が、ここにあるはずない。

こわいものなんて、なにもない。

なにも、ない?

なにもない。

ほかに、なにもない。

じぶんのほかに、なにも。

ない。

「いやあああああああああああああ!」

……
自分の叫び声に驚き、正気に戻る。

そして自分の状態に気が付く。
荒い息を吐き、汗だくになっていた。

「……着替えよう」

棚から下着を取り出しながら、考える。
今のは、なんだろう。

恐怖……そう、あれは恐怖だ。
何もないこと、それが怖かった。

冷静に考えれば何もないわけじゃない。
ベッド、洗面台、この棚だってある。
それでも何もないと感じたのはなぜだろう。

……

広すぎるんだ、この部屋は。
一人で過ごすには、広すぎる。

じゃあ、狭い部屋なら……違う。
そうじゃない。

一人なのが、寂しいんだ。

一人なのが……怖いんだ。


気が付くと、僕は病室を出ていた。
着替えはいつのまにか終わっていた。



廊下で窓の外を眺める。
病室に戻る気にはなれなかった。

後ろで音がした。

自分の隣の病室の扉が開く。
髭を生やした男性が出てきた。

――あ、こないだの。

前にあった状況を思い出し、少し赤くなる。

――あれ?そういえばこの人、あの時、何しに来たんだろう。

お見舞いだったのかな?
だったらあんなことになっちゃって、ちょっと悪いことしちゃったかな?

そう思い、声をかけた。

「あの、すいません」

……

目線が合う。

――あ、まただ。

頭に軽い鈍痛が走り、不思議な感情がよぎる。

憧れ、恐怖、喜び、哀しみ。
湧き上がる感覚の整理がつかない。

軽く頭を抑え、停止していると、上から声がかかった。

「……どうした?」

慌てて姿勢を直して、顔を見上げる。

「あ、す、すいません。あの、此間は、僕のお見舞いに?」

サングラス越しに、軽く視線がさまよったように見えた。

「……気にするな」
「いえ、気を使わせちゃって、すいませんでした……」
「気にするなといっている」

男性は表情を変えずにそういった。

「それに、せっかく来て貰ったのに、あなたが誰だかわからないんです」

少し沈んでそう言う。
来てくれたからには知り合いなのだろうけれど。
何も思い出せない。不思議な感情以外は。

「お名前を、教えてもらえますか?」

僅かな動揺。
男性の表情は変わっていない。
だが、感じた。

「……碇、ゲンドウだ」

――碇。

――僕も碇。

――と、言うことは……。

「もしかして……お、とう、さん?」

……。

無言の肯定。

今度は自分のほうが激しく動揺していた。

「ご、ごめんなさい。お、お父さん。僕本当に何もわからなくて」
「気にするな。記憶がないのだろう」
「でも!」
「気にするなといっている。」

少し強めの声に、何もいえなくなった。

しばしの静寂。

と、お父さんは病室のほうに振り返った。

「レイ、何をしている?」

言われて、気が付く。
いつのまにか、そこには一人の少女が立っていた。

蒼い髪の少女。
ほぼ、同じ年くらいだろうか。
右目の眼帯といたるところに巻かれた包帯が痛々しい。

そして、紅い左目。

自分の右目と同じ、紅。

それが、お父さんを見上げていた。

「……彼女は?」

間にいるお父さんに、思わず聞いていた。

「ファーストチルドレン、綾波レイ。エヴァのパイロットだ」

パイロット。
彼女も。
僕と、同じ。エヴァンゲリオンの。

「……用がないのなら、私は帰るぞ」
「えっ」

お父さんはいきなりそう言うと、振り向きもせず歩き始めた。

「あ、え、あの、ありがとうございました」

その背中に深深とお辞儀をする。
頭を上げたときには、もう角を曲がり、その背中は見えなくなっていた。



姿勢を直し、病室のほうを見た。
彼女はまだそこにいた。

彼女に向き直る。

彼女の顔がこちらを向き、彼女が僕を見た。

目と目が合う。



ふらついた。
強烈な鈍痛が僕を襲った。
思わず頭を両手で抑える。

驚き、悲しみ、そして。

――この感情は……

圧倒的な、嬉しさ。

もう一度、彼女を見る。

無表情にこちらを見ている彼女。

その姿に、また悲しみと、喜びが巻き起こり……。

気が付いたときには、彼女を抱きしめていた。



いきなり抱きつかれた。

碇司令と話していた人。

碇司令をお父さんと呼んだ人。

お父さん。父親。男性の肉親への呼称。

ならばこの人は碇司令の子供。

なぜ抱きつくの?

抱きつく。抱擁。親愛の証。

親愛。好意や親しみを感じること。

親しみ。近しい存在。

私はあなたを知らない。

他人。

ならばなぜ?

わからない。



「なぜ、抱きついているの?」

綾波さんが、疑問を口にした。

――何故だろう。

「……わからない」
「そう」
「……でも」
「嬉しいんだ。安心するんだ」
「なぜ?」
「わからないけど。でもそうなんだ」
「そう」

そっけない彼女の返答。
それはそうだ、僕の回答は意味がとおっていない。

「あなた、誰?」

彼女のもう一つの質問。

「僕は、碇シンジ」
「私は綾波レイ」
「うん、さっき聞いた。僕もエヴァのパイロットなんだ」
「そう……」

抱きしめられたまま、彼女は動かない。
僕も抱きしめたまま、動かなかった。

彼女がここに存在すると、確かに感じたくて。
離せば、消えてしまうんじゃないかと思えて。

………
……


一分か、二分か、もっとだろうか、そうして抱きしめていたが。

「……いつまでそうしているの?」

その問いに、やっと抱擁は途切れた。

「……ごめんね、いきなり」

そう言って離れ、彼女の顔を見た。
かすかな疑問の表情。

「……何故、あなたは泣いているの?」
「え?」

言われて、気が付く。
――何で、泣いているのだろう?
わからない。

涙を拭き、笑い掛けながら素直に答える。

「わからないんだ」
「そう」

涙は、止まらなかった。



やっと気分が落ち着いてきた。
感情を強引に押さえ込もうと頭を振ったり、目を瞑ってみたり、小突いてみたり、顰め面をしてみたり。
明らかな挙動不審の僕を、綾波さんは黙って見ていた。

「……もう、戻るわ」

僕が落ち着いたのを確認して、一言そう言って部屋に戻っていく。
その後ろから一緒についていく。

彼女が振り向いた。

「何故ついてくるの?」

彼女が自分の病室に戻る。ならば僕も自分の病室に戻るのが正しいのだろう。
でも病室に戻りたくはなかった。
彼女から離れたくなかった。

「……しばらく、隣にいていいかな?」
「なぜ?」

――ひとりは寂しいから。
「二人のほうが、楽しいでしょ?」

――ひとりは怖いから。
「一人でいても退屈だしさ」

――君もひとりだから。
「同じエヴァのパイロットだし」

――君しか知らないから。
「いろいろ話を聞いてみたいしさ」

――だからひとりにしないで。

「……そう。構わないわ」

――もう、ひとりにシナイカラ。