Migraine


第弐話:絆

家族


綾波さんは僕が彼女の病室にいることを拒否しなかった。
明確に許可してくれたわけでもなかったが。

ベッドの脇の椅子に座る。
彼女はベッドの上で体を起こしていた。

いろいろ話を聞きたい、といったものの、いざ病室で二人きりになると何を話していいのかわからなかった。
何か聞こうにもわからないことが多すぎた。
彼女も何も聞いてこない。

仕方なく、数少ない接点から話をすすめることにした。

「綾波さんは、なぜエヴァのパイロットになったの?」

知り合って間もない彼女との唯一といってもいい接点。
しかしその答えは、意味を成しているとは思えなかった。

「私は、そのように生まれてきたから」
「どういう意味?」
「エヴァに乗ること、それが私が生まれてきた意味」
「だから私はエヴァのパイロット。そのように生まれたから」

意味を訊ねても、いまいち要領を得ない答え。
だが、パイロットであることが彼女のすべてであるらしかった。
でもそれは人としていいのだろうか?
少し考え込む。そこに。

「あなたはなぜエヴァのパイロットなの?」

同じ質問を返された。

「僕は……」

ほとんどない記憶を探る。
だがわからない。
わかるのは、無我夢中で叫んでいたこと。それだけだった。

「ごめん、わからない」
「なぜ?」
「本当は何か理由があるのかもしれないけど。何も覚えていない。記憶がないんだ」
「こっちについてからもあやふやで、気がついたらエヴァに乗っていたんだ」
「そう……。でもあなたは乗れるのね」

え……?
そういわれて、気がついた。
なぜ、僕が乗る必要があったのか。
別にわざわざ僕なんて乗せる必要はないはずだ。
特にあの時、怪我をしてふらふらだった僕を、なぜ乗せたのか。

「エヴァは特別なもの。選ばれた子供にしか乗ることはできない」
「じゃあ、僕は特別なの?」
「そうよ」

「だって、碇司令の子供でしょう?」

いきなり話が飛んだ気がする。やけに世俗臭がする。

「碇司令って」
「碇司令。碇ゲンドウ。ネルフの総司令。あなたの父親」
「それって偉い人の子供だから特別ってこと?ただのエコ贔屓じゃ……」
「あの人は特別だから」
「何か意味があるの?」
「……」

そのまま彼女は押し黙ってしまった。
沈黙が続く。
もう何か話してくれそうになく、僕も押し黙ったまま。
何も話さず。それでも。
連れ戻されるまで、僕は彼女の病室で座っていた。



翌日も、彼女の病室を訪ねる。
やはり今日も拒否はされなかった。

今日聞きたかったこと。昨日聞けなかったこと。
――お父さんのこと。

「おはよう、綾波さん」
「おはよう、碇さん」

ちょっと驚く。昨日の様子から、返事は期待していなかったのだが。
だけど彼女はすぐに無関心の表情に戻る。
挨拶されたから答えただけ、ということらしかった。

彼女の隣に座る。
また、昨日と同じ沈黙の空間。

でも今日は、それを打ち破ってみた。

「ねえ、綾波さん?」
「なに?」

こちらの疑問形に対して律儀に答えてくれる。
そっけないけど、やはり良い子だと思う。

意を決して、質問をぶつけた。

「僕のお父さんって、どんな人?」

……ちょっと曖昧すぎただろうか?すぐに答えが返ってこない。
少し質問の形を変える。

「それじゃあ、綾波さんは僕のお父さんをどう思ってるの?」
「……あの人は」
「あの人は特別な人」

昨日のどこかずれた会話に戻った。
お父さん自身が特別な人というより、綾波さんにとって特別な人、ということだろうか。
彼女の思考は今一掴めていない。

「あの人は、私を見てくれる」
「あの人は、私を知っている」
「あの人は、私に命令する」
「だからそれに私は従う」
「それがあの人との絆」

……えーと。
なにかこう、主従関係というか、もっと危険なものを感じたのだが。

「そ、それでいいの?」
「ええ、大切な絆だもの」

絆があれば、それでいいのだろうか。
そう考えてみて、気が付いた。

そんな絆すら、自分は持っていない。

――絆か……

「あなたにもあるでしょう?」

――え?

どうやら、思わずつぶやいていたようだけど。その答えに戸惑う。

「あの人はあなたの父親。それは絆でしょう?」

ああそうか。そういう考えもあるか。
でも、そうじゃない。

「それは、絆じゃないんだ」
「なぜ?」

そう、絆じゃない。だって。

「お父さんは僕を知っていたかもしれない」
「でも僕は何も知らない、何もわからないんだ」
「あの人がお父さんだったのかさえ、わからないんだ」
「人の絆は、片方だけじゃ作れないから……だから、これは絆じゃない……」

病室に、静寂が戻る。
二人とももうしゃべらない。
どのくらいそうしていただろうか。
検査の呼び出し。

僕の立ち上がる音が静寂を破る。

綾波さんのほうを見る。彼女もこちらを見ていた。

眼帯に覆われた右目。
彼女の左目だけがこちらを見ている。

――あ。

自分の左目を手で覆う。
視界がぼやける。
僕の右目だけが彼女を見ている。

「こうすると、僕たち同じだね」
「そうなの?」
「うん、同じ紅い目」

同じ、ただの肉体的特長。絆ともいえない、繋がり。
そんなものであっても、彼女に近づいた気がして、嬉しかった。
なぜか彼女がほのかに輝いて見えた。



それから退院するまでの一週間ほどの間。
僕は毎日彼女の病室を訪ねた。
何かしゃべっているわけではない。
挨拶をして、返事が返って。
ただ僕がいて、彼女がいて。
それだけの日々。

三日目あたりから、諦められたのだろうか、食事も彼女のところに一緒に来るようになった。
静かな二人だけの食事。
会話も何もない、ただいるだけの二人。
たまに見つめ合う紅の瞳。
ただ無為に消費される時間。

そんな日々も終わる。
退院だった。


最後に彼女の病室を訪ねる。
挨拶だけでもしていこうと思った。

だけど、検査か何かだろうか。
彼女はいなくて。

お別れも言えず、病院を後にした。



病院の入り口には女性が迎えにきてくれていた。
たしか、葛城さんだっただろうか。
朦朧とした中での紹介だったが、今の僕の引き出しはそもそもすっからかんだ。
まさしく片手で数えられるほどしか知っている名前などない。

「シンジちゃーん。元気にしてた?」
「葛城さんでしたよね。まあ、おかげさまで」
「頭の包帯はまだ全部取れてないですけど、ほかはまあ、きれいさっぱり」
「まー、女の子だしねえ。傷が残っちゃったりしたら大変よお」
「ははは……」

軽く、左手首をさする。
ここもまだ包帯をしたままだった。
その下だけ異常に白い肌。色は戻るだろうか。

「とりあえずネルフ本部へいくわよ。今後のことについて説明があるわ」
「はい、葛城さん」
「あー、それと」
「はい?」
「わたしのことは、ミサトって呼んでね?」
「は、はい……ミサトさん」
「よろしい。あ、プライベートではシンちゃんって呼んじゃうから」
「はあ、いいですけど」

女の子なのにシンジというのはやはり珍しいのだそうだ。
あまり気にしていなかったが、それなりに違和感があるものらしい。

そんな話をしながらミサトさんの車に乗り込む。

――あれ?なにかよくない予感が……。

思う間もなくエンジンがものすごい音を立て、想像を絶する速度で走り出す。

――来るときは頭打っててよかったなあ……。

恐怖と加速度で真っ白になりそうな頭で、そんなことを思った。




「エヴァンゲリオン初号機専属パイロットとしての契約書だ。サインした時点で契約は有効となる、よく読んでおいてくれ」

そういって男性から書類を渡される。
今までなんとなく自分はパイロットになったのだと思っていたけれど、実際にはこの契約をしないと正規パイロットではないらしい。

労働形態に給与、福利厚生、守秘義務などの項目が並ぶ。

「これにサインしなかった場合、どうなるんですか?」

一応聞いてみた。

その場合、僕は保護観察つきで第2新東京市に送還されるらしい。

第2新東京市。僕の育ったはずの町。
普通なら何か思うのだろう。郷愁だとか、そのようなもの。
だが今の僕にとっては、この第3新東京市以上に現実味のない町。
還される、といわれても、帰るべき場所がわからない。
少し寂しい。

それ以上悩む気もない。
元々パイロットになった気でいたのだ。
さらっとサインをする。
契約完了。
とりあえずこれで身元は保証されるらしい。

軽く息を吐いて気がつく。

――そうか、自分も不安だったんだな。

あまり感じていなかったのだが、意識しないようにしていただけなのかもしれない。
でも、これで、自分はエヴァンゲリオンのパイロットだ。
記憶を失ってはじめての、確固たる自己。
いや、もしかしたらエヴァに乗った、そのときからの唯一の自己。
それが保証されて、安心したのだ。

だがそのしばしの安息は、次の書類で打ち砕かれた。

「一人、暮らし?」

個人用の一室があてがわれていることを示すその書類。

「そうだ、君の住居は第6ブロックに確保してある。何か問題はあるか?」
「えと、てっきりお父さんと一緒なのかと」
「碇司令は普段は司令室付の寝室で寝泊りしている。海外出張も多い方だから定居をもたれていないのだ」
「そうなんですか……」

何とはなしに、同居するものだと思っていた。
ちょっと強面で、無口な人だったけど。
家族だというのだから、一緒に住むのだと思い込んでいたのだ。

「いいの?シンジちゃん」
「ええ、もう部屋もあるらしいです、し、命令で、すか、ら……」

――そうだ、もう契約したんだし、従わないと。

そう考えた。

――あれ?急にミサトさんの背、高くなったような。

そんなはずないか。

――じゃあ、僕が低くなったのかな。

ああ、なんだ。

――僕が座っちゃったからだ。

立たないと。
そう思ったとき、最後の意識の糸が、ぷつんと途切れた。



気がつくと、どこかの通路にいた。

――なぜこんなところに?

いつの間にか、ミサトさんに支えられて歩いているようだった。
休憩室らしき場所で、椅子に座らされる。
徐々に意識が覚醒してきた。

「……あの」
「あ!よかった、大丈夫、私がわかる!?、頭痛くない?どっかおかしいところは?」
「あの、えと、ミサトさん?」

いきなりものすごい勢いで質問された。
何かあったっけ……?

ミサトさんが言うには、僕は住居の話の途中、突然糸が切れたようにへたり込んで、そのまま反応しなくなったらしい。
彼女はほっとしながらも、相談のために赤木さんに電話をかけていた。

「ああ、リツコ?あのさー」
『ミサト!こっちはほとんど寝ないで働いてるのよ、どうでもいい用事なら覚悟しなさいよ!』

……ここまで聞こえてくる。すごい迫力だ……。

「っ……。わかってるって。実はシンジちゃんのことなんだけど」

ミサトさんが状況を説明し始めた。
深刻そうな声。それはそうか。
突然意識を失うなどというのはどう考えても異常事態だ。
やはり僕はどこかおかしいのだろうか。

――そういえば、あの時、何を考えていたっけ?

ミサトさんの言うように僕の住居の話しをしていて……
そうだ。
一人暮らし。

ひとり。僕はひとりで、やっていけるのだろうか?
先ほどのような衝撃はない。だが、じわじわと恐怖が押し寄せてくる。
そのせいで、電話がいつの間にか小声になっているのも、ミサトさんがこちらを伺うようにしていたのも気がつかなかった。

――ひとりは、嫌だな。

「シンちゃん」
その思考は、ミサトさんの呼びかけで中断された。

「大丈夫?」
「あ、はい」
「シンちゃんの住む場所、決まったから」
「え、それってさっき……」
「私のところで引き取ることにしたの、上の許可も取ったわ。大丈夫」

寝耳に水、とでも言うのか。
だがその一言で。
僕の中の恐怖は、消え去っていた。

「ありがとう、ございます」
泣きそうになるのを堪えて、笑う。
「……どういたしまして!」
ミサトさんが、笑い返した。



安全運転を念入りに頼む。
その懇願と、覚悟が効いたのか、先に乗ったときほどの恐怖はなかった。
……それでも0じゃないのだけれど。

ミサトさんが寄り道したいといった場所。
そこに着いたとき、ちょうど太陽は山に落ち始め、世界はオレンジ色に染まっていた。

都市を囲む山の一角。
そこからの展望は、第3新東京市のすべてを視界に入れることができた。
更地の目立つ、少し寂しげな町。

うなるような警笛が響いた。

「うわ、すごい……」

ビルが、生えてくる。
まさしくそう形容するのがふさわしい光景に思わず声が漏れる。
この距離からだとのんびりとみえる速度で伸びていくビルの群れ。
しかし数分の後、それらは摩天楼とも言える威容を作り出した。

「これが、使徒迎撃専用要塞都市。第3新東京市。私たちの町よ」

「そして、あなたが守った町」

――僕が、守れた町。

ミサトさんの言葉を聞きつつ、目が離せない。
日はさらに沈み、世界は赤に包まれる。

赤は嫌いだった。でも……

この景色は、美しいと思えた。



この景色は、有得ないと思えた。

コンビニに立ち寄ってつまみと食べ物を買っている時点で、なんとなく嫌な予感はしていたのだが。

「お邪魔します」といった僕に「ただいま」と言い直させて、「お帰りなさい」といってくれたミサトさんの心遣いもすごく嬉しくて、涙が出そうになったけれど。

リビングルームに入って、別の意味で涙が出そうになった。

ゴミ、ごみ、空き缶。空き瓶。
ゴミ袋が所狭しと積み上げられ、あまつさえテーブルの上までも空き缶の山が占領している。

この惨状を、「ちょっち散らかってて〜」で済ませるミサトさんを見て……。

いつもの偏頭痛と一緒に、別の種類の頭痛が襲ってきた。



「新たなる同居人を祝して、カンパーイ!」
「乾杯」
ビールの缶を片手に、ミサトさんがそういうのに、僕も答える。

机の上を何とか片付けて、少し遅めの夕食。
……コンビニ弁当だけど。

「ぷっはー!やっぱ人生、このときのために生きてるって感じよねー!」

そんなことを言いながらぐびぐびとビールを飲み干すミサトさん。
もう次の缶に手をかけている。
ビールを水か何かと勘違いしているのではないだろうか?
その光景に唖然としてしまった。

「?どうしたのシンちゃん?食べないの?」
「あ、いえ、ちょっとびっくりしちゃって」

ゴミに囲まれて、コンビニ弁当。
まともとは言いがたい。

――でも。

「やっぱり、いいですね」
「ん?」
「こうやって、人と一緒に食べるのは」

そういって、コンビニ弁当をつつく。
やっぱりちょっと味が濃い。

「ミサトさん、本当にありがとうございました」
「な〜によ、あらたまっちゃって」
「あのままひとりだったら、僕、どうなっていたか……」

そう、もしひとりだったら。
寂しくて。
悲しくて。
怖くて。

「僕には、何もないから……」

記憶もない。
絆もない。
空っぽだから。

簡単に、ぺしゃんこに。

「壊れ、ちゃう、か、ら……」

声が擦れているけれど。
精一杯の笑顔で。もう一度。

「本当に、ありがとうございました」

テーブルの向こうから、ミサトさんが肩を抱いてくれた。
乗り出して近づいた彼女の口から流れ出る言葉。

「もう、私がいるから。一人じゃないでしょう」
「何もないなんて、言わないで」

空っぽだった其処に注がれた、その言葉が。
その中に、確かな形をもった。
今のミサトさんのように、心を支えてくれた。



いつもの病室。

いつもの天井。

いつもの静寂。


でも、あの人がいない。


いつもそこにいた人。

同じ紅い瞳を持つ人。

ただいなくなっただけ。

何も変わらない。


なのに、この気持ちは、何?