Migraine


第弐話:絆

支柱


「うーん……」

僕は今、非常に悩んでいる。
テーブルの上に置かれた一枚の紙。
生活分担表、などと書かれたそれを睨む。

「なーに悩んでんのよ。公平にじゃんけんで決めちゃいましょ」

ミサトさんが何かいっているが、無視して部屋を眺める。

……堆く詰まれたゴミの山、確認。
……大量のコンビニ弁当とレトルトパックの残骸、確認。
……畳まず放置された洗濯物、確認。

ミサトさんはいい人だろう、とは思っている。
だが、この惨状を見て、とてもじゃないが公平に決める気にはならなかった。

――公平に決めたら生活が成り立たないなあ……

こんなものを作ってくるのだから少しくらいはやろうという気はあるのかもしれない。
しかしこの危機的状況下において、確率頼りは御免被りたい。

はぁー、と長いため息をついてから、マジックペンを手に取った。

朝食、夕食、洗濯、掃除、ゴミ。

自分の料理の腕前は定かではないが、彼女のそれは推して知るべし。
たとえ自分が下手糞でも、上達すれば生きていける!
彼女がゴミを作るなら、僕が出してしまえばいいんだ!
後ろ向きな思考を無理やり前向きに方向転換しながら。

各項目にひとつずつ、チェックを入れる。

「ちょ、なにしてんの!?」
「……後は僕がやりますから、これだけお願いします……」

ミサトさんをジト目で睨みながら言った。
またため息が出そうになる。

「……あらそう?悪いわねえ」

ぜんぜん悪いと思ってなさそうな彼女の声に、ものすごい脱力感に見舞われた。


……後日この表は廃棄処分にされるが、それはまた別のお話。



届いた荷物を部屋へ運ぶ。
聞けば元々予定されていた住居に運び込まれていたものを、こちらに配送しなおしたのだという。
ジオフロントからセキュリティチェックを通し、もう一度運び出すことになったと愚痴る彼らを少々申し訳なく思う。

でも、向こうで生きていくことはできなかっただろう。
運び込みを手伝ってくれているミサトさんを見る。
彼女がいなければ、どうなっていただろうか。
そう思うと、ゾッとする。

まあそれほど大量の荷物があるわけでもない。
作業はすぐに終了した。

リビングルームのソファに座って一息つく。
病み上がりなのもあるが、元々体力はないほうなのだろう。思ったより疲れてしまった。

プシュッと音がする。見るとミサトさんがまた一杯やっていた。
あれだけ飲んであの体型というのも恐ろしい。

と、缶を片手に持ちつつこちらに来て、彼女が言った。

「シンちゃーん、疲れたでしょ、先にお風呂入っちゃいなさい」
「あ、どうもありがとうございます」
「堅苦しいこと言わないの、あなたの家でしょ、ここは」

そうだ、ここは僕の家。僕たちの家。

「遠慮なんてしなくてい〜の」
「私たち、もう家族でしょ?」

家族。ミサトさんと僕が。
新しい絆。

「……ちょっと、何しんみりしてんの?」

思わずまた、感動していたらしい。

「あ、すいません、じゃあ遠慮なく」
「うんうん。嫌なことはパーッと洗い流しちゃいなさい」
「風呂は命の洗濯よん」

明るくそんなことを言うミサトさんに、釣られて笑顔になる。
彼女の心遣いに感謝しつつ、僕は風呂場に向かった。



シンジちゃんがお風呂場に消えた。
ちょっと気が緩む。

――わざとらしくなかったかしら?

そんなことを考える。
さっきのリツコとの電話。
あの子についての追加の検査結果の情報。

………
……


『ミサト!こっちはほとんど寝ないで働いてるのよ、どうでもいい用事なら覚悟しなさいよ!』

――っ……。

明らかに不機嫌なリツコの大声。だが気にしている場合じゃない。

「わかってるって。実はシンジちゃんのことなんだけど」
『何かあったの?』

電話口の声色が変わる。
さすがに長年の付き合いか。察するのが早い。

「……ついさっきなんだけど、突然意識が途切れるようになっちゃって」
『状況を説明してくれる?』
「もちろん。彼女が管理部からエヴァのパイロット契約を受け取って、サイン」
「その後住居説明を受けた直後に座り込んで、そのまま反応が停止」
「以後こちらからの刺激に反応せず。受動的動作以外は何もしなくなったわ」
「この電話の30秒ほど前に意識回復、現状維持しているわ」

機械的な状況説明。
これに感情を混ぜる必要はないし、彼女も好まない。

『住居か。そういえば一人暮らしだったわね。迂闊だったわ』

迂闊。つまりこれを予期していたのか。
シンジちゃんのほうを窺う。こちらのことを意識してはいないようだ。

「……何か知ってるのね。吐きなさいよ」
『彼女の精神鑑定の結果、孤独になることに対して異常なまでの恐怖心を持っていると出ているわ』
「恐怖心?それであそこまでなっちゃうわけ?」
『ほとんど強迫観念のようなものよ』

自意識を失うほどの恐怖心。
生来のものなのか、それとも記憶を失ったのが原因か。
どちらにしても一人にするのは危険か。

『とりあえず、一人暮らしは危険ね。誰かに引き取ってもらうか、一緒に住まわせるかしないと』

リツコも同じ考え。
ならば、答えは簡単。

「わかった。私が引き取るわ」
『……本気なの?』
「こんなときに冗談言うわけないでしょ」
『私としては反対したいわね。あなたの生活環境に子供を入れるのは教育上好ましくないと考えるわ』
「ちょっと、それこそ冗談よね?」

……まあ少々散らかっているが。料理くらいなら私だって作ってあげられるし。

『それにあなたは作戦本部長よ』
「だからなによ」
『いえ。一緒に暮らしていて、いざ作戦のときに彼女に非情な命令を出せるのかしら?』
「仕事は仕事よ、割り切っているわ」
『彼女もそう割り切れるかしらね』
「……」

割り切るといった。
だが現実に、今、私は自分の感情を割り切れていなかった。
リツコの心配はわかる。
だけどそれでも、私は放っておく事はできなかった。

「とにかく彼女は私が引き取るから。事務処理よろしく頼むわ」
『本当にいいのね?』
「ええ、それと」
『何?』
「ほかに、彼女についての重要な情報は?」

………
……


「黒、白、赤、ねえ」

それらのみで構成されるようなものは避けること。
……といわれてもねえ。
彼女の恐怖の根源にある心象風景らしいが。
どんな光景かいまいち想像がつかない。

彼女の入っていった風呂場のほうを見る。

けなげで、いい子だと思う。
それなりに行動力もあるし、機転も利く。
あれで記憶喪失だというのだから驚きである。

――いや、そうでもないか。

先ほど抱いた両肩。
細くて、簡単に壊れてしまいそうで、ふるえていて。
あの明るさは、不安を隠すための鎧に過ぎないのだ。
ふとしたきっかけで穴の開く、紙のように薄い鎧。

私は彼女を壊さずにいられるだろうか。

「きゃああああああああああああああああああああ!」

――何!?

突然の悲鳴に、臨戦態勢で風呂場に向かった。

勢いよくガラス戸を開く。

そこにあったのは……怯えるように尻餅をついている彼女と、
湯船から顔を出している温泉ペンギンの姿だった。



「ぼくはおんなのこぼくはおんなのこぼくはおんなのこ」

時間は少し遡って。

ただいま必死に自己暗示中。
そもそもこんなことになったのは洗面台の鏡が大きすぎたからだ。
うん、きっとそうだ、そうに違いない。
そんな現実逃避の責任転嫁をしても鏡に裸の女の子が映っているという事実は変わらない。

強く目を瞑る。

――これは僕の体自分の体だから見ても大丈夫恥ずかしくなんてない

意を決して目を見開く。

……ドクンドクンドクン。心音が高まり、顔が真っ赤に染まる。
自己暗示、失敗。

――ああ……こんな状態で、その、体洗えるのかな……

ちなみに病院では玉砕している。
許可が下りるのが遅かったのもあるが、結局、体を拭いてもらうだけで風呂には入らなかった。いや、入れなかった、だろうか。

しかしこんなところで何時までももじもじとしている訳にも行かない。
いくらいっても裸では少々寒い。

――どうせ入らないわけにも行かないし。

半ば諦めの境地で風呂場の引き戸を開き、中に入る。

風呂蓋はしていなかったのか、熱気と湯気が心地よい。
少し、緊張が緩んだ。
しかしまだ、体を洗う覚悟はできていなかった。

――とりあえず、浸かっちゃおうか。

ろくに洗いもせずに一番風呂に入るのは気が引けるが、今は人生の一大事である。
とはいえとりあえずかがり湯だけでもしておこうと風呂桶に手を伸ばしたとき。

バシャリと水面が割れる音がした。
驚いて湯船のほうを見て、固まる。
鋭く尖った黄色の嘴。
黒を基調とした体に、燃えるような頭の毛。
黒く深い瞳は何も見ていないような、すべてを映しているような。

そんな何かが、こちらを振り向き。

「くぇ?」

一声鳴いた。

僕の悲鳴が、風呂場に共鳴した。



頭からお湯をかけられた。

「う、あつっ?」

まだ慣れていない肌が痛みともつかぬ熱さを伝える。

「おーい?聞こえてるー?」
「え、あ、はい?」
「何時までもそうしてると風邪引くわよん。ちゃちゃっとはいっちゃいなさい」

そういって出て行くミサトさん。

――うん、そうだ、風邪引いちゃうよね。

起き上がると、おもむろにスポンジを取り、体を洗う。

――なんか変なものがさっき前を通ったよね。

シャワーで泡を洗い流す。

――ミサトさんが何か言ってたような。

その後ゆっくり湯船へ沈む。

――ええと、温泉、ペンギン?

顔まで半分浸かってぶくぶくと。

――ペンペンだっけ。

しばらくして体を落ち着かせる。

――ペンギンて寒いところの生き物だよねえ。

足を伸ばしてゆったりと。

――でも温泉ペンギンだからお風呂なのかな。

少し熱めのお湯が肌を刺激する。

――びっくりしちゃったけど、悪いことしたかなあ。

体の隅々まで温かく。

――ミサトさん、駆けつけてくれたのかな。

心まで温かく。

――助かったけど、でも……

頭の先まで火照るほど。

――全部見られちゃった……。

燃え上がるほど全身湯立ち。

――あー、なんか真っ白だあ……。

………
……


その10分後。
すっかりのぼせきった僕はミサトさんにサルベージされた。らしい。



「うー、まだくらくらする……」

引っ越して早々湯当りとはなんとも情けない。
ペンペン騒動のおかげで気がついたら体は洗えていたけれど。
毎回あんなパニックを起こさないと体が洗えないのでは、正直身が持たない。

用意されていたベッドに転がりつつ、考える。

今日が普段の日常、とはいえないだろう。
そもそも一日に何回気を失っているか。
そう考えて苦笑する。
でも、普通の生活に一歩近づいた、そんな日だ。

少し思い返してみる。

今日は、何かすごくどたばたした気がする。
このあわただしさは、病院ではなかったことだ。
病院の前は、あまりにも世間離れした出来事だった。
その更に前には、何もなかった。
無くしてしまった。

知らない過去のことを考えるのは、怖かった。
そこにいたはずの自分、同じはずの自分。
もしかしたら、自分じゃない自分。

あるはずの過去に頼るのは、不安だった。
だから僕は、過去に縋らないことにした。見ないようにした。
代わりに、今に必死にしがみついた。

今の自分の中に、確かにあるもの。不確かなもの。
エヴァンゲリオンのパイロットである自分。
ミサトさんの家族である自分。
綾波さんと同じ目を持っている自分。
お父さんなはずの人と話した自分。

数えるほどしかなくて、強さもまちまちなそれら。
今の歪な僕の心を作っている。支えてくれている。
歪んでいるとしても、これが今の大切な心の形。

「シンジちゃん」
ノックの音とともにミサトさんの声がした。

「ひとつ言い忘れていたわ」
「あなたは人に誇れる、立派なことをしたのよ」

立派なこと。
夕焼けに染まる摩天楼。
そこに住む人たちを、僕は守れた。

ミサトさんが動くのが、見えた気がした。

「ミサトさん」

少し強めに呼びかける。

「僕は、みんなを、守ります」
「この町も、ミサトさんも、お父さんも」
「何時でも、何度でも、守ります」
「守るから、だから……」

――だから、いなくならないで。

つぶやくような最後の言葉は、聞こえただろうか。