Migraine


一夜明けて。

本日の朝食の当番は僕だ。
料理くらいはできる気もするのだけれど、記憶がないので正確なことはわからない。
とはいえ、今日に限ってはあまり悩む必要もない。
……食材もないからだ。

昨日の夕食に引き続いてのコンビニ品の食事。
ミサトさんは「このカップシチューが結構いけるのよねー」などといいながら食べているが、こんな食事を毎日していたのだろうか。
どう考えても味覚がおかしくなるし、体もおかしくなりそうだった。
とりあえず料理ができるくらいに食材を買ってこよう。

今日はネルフで朝から説明があるらしい。
ミサトさんと一緒に玄関を出る。
ふと、昨日のことを思い出してドアのほうに向き直る。

「行ってきます」

当然返事はないけれど。
ミサトさんが隣で、同じ言葉を言っていた。

第参話:戦う意味

心、体、二つ


軽くふらつきながら本部の入り口へ向かう。
昨日のことでわかっているとはいえ、ミサトさんの運転は恐怖である。
あのスピードでカーブを曲がれると言うのが信じられない。
今のところぶつかったりはしていないのだからテクニックはあるのだろうけれども……。

入り口に比較的近い会議室のような場所に案内される。
まずは昨日もらった書類のような就労条件の説明。
あの時は流し読みしかせずにいたので、覚えのない内容が多い。
……えーと、特別報酬が一千万円とか聞こえたような気がしたんですが。
しかも事後報酬?もう振り込まれている?

……いつの間にか結構な資産持ちになっていたらしい。
後何回か出撃したら老後の心配なんて要らなくなるんじゃないだろうか。

現実味のない現実に思考をめぐらしつつ、説明を聞く。
この後、各施設を実際に回って案内した後、午前中は基本事項の座学となるらしい。
あわせて、専用の携帯端末が支給された。今後の連絡はこれに届くという。
更に午後からはシンクロテストなるものが行われる。
初号機との接続訓練、らしい。
パイロットとして初めてのまともな訓練といえそうだった。

案内のために移動を始めて、気がついた。
――なんでミサトさんも一緒に来ているんだろう?

そう、考えてみれば朝からずっとミサトさんは一緒に行動している。
付き添いなのかとも思っていたのだが……。

「……リツコに、いかされた……」

……いまだに不案内な作戦部長殿に業を煮やして、一緒に覚えて来いと命令されたらしい。
座学まで含めて。
子供と一緒に案内を受けなおすというのは確かにばつが悪いだろう。

「リツコー、おぼえてなさいよー!」

自分の責任は棚に上げて吼えているミサトさんを横目に。
もしかしなくても狙ってやっているのかも、と思い、苦笑した。



午後のシンクロテスト。
開始前の控え室で、僕は硬直していた。

全身タイツのようなパイロットスーツ。
プラグスーツというらしいそれを着て、スイッチを入れると、体にぴっちりと密着した。
華奢な体のラインが見事に浮き出ているその姿は、男の子の意識をフリーズさせるのに十分な威力だったらしい。

この格好で職員の皆様の前に出ていかなければならないと思うと、更なる恥ずかしさがこみ上げて。完全に身動きが取れなくなった。

と、なかなか出てこない僕に痺れを切らしたか、スピーカーから赤木さんの声がした。

<<なにをしているの。早く出てきなさい>>

こちらの窮状をわかっていないであろうその声に泣きたくなる。

「あの、その、ええと……ものすごく、恥ずかしいんですけど、この格好」

声のするほうに向かって、何とか訴えてみる。
要所要所にプロテクターらしきものがあるとはいえ、布地の部分は体のラインをこれ以上ないというほど完璧に反映しているわけで。
いっそ裸のほうが精神衛生上ましなくらいのその格好で人前に出て行く勇気は、男の子の意識を差し引いても持ち合わせていなかった。

少しくらいはわかってくれたのだろうか、しばしの沈黙の後。

<<……わかったわ。次回はコートか何かを用意するから、とにかく今回は早く出てきてちょうだい>>
<<あなたがいないとテスト自体がはじめられないわ、わかって>>

……つまりは、死刑宣告。
次回は何とかなるとしても、困窮しているのは今このときである。
そういわれたからといってすぐに出て行けるものでもなかった。

どうにも気持ちの整理がつかず、扉の前でもじもじとしていた、その時。

扉が勝手に開き、小柄な女性職員が入ってきた。

――見られた。思いっきり。

顔が一気に紅く染まるが、事態は当然其処で終わるわけもなく。

<<マヤ、連れてきなさい>>

赤木さんの怒気混じりの高圧的な一言が、追い討ちをかけた。

「シンジちゃん、御免ね」

かわいらしくそういった女性が固まっていた僕をあっさりとホールドする。
そのまま引っ張り出された。

「いやああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

残響音を残しながら引きずられ、僕はテストプラグに放り込まれた。



テストプラグ内。
いまだ興奮冷めやらぬ僕に、赤木さんが話しかけてくる。

『心拍が高いわよ、落ち着きなさい』

無理です。
そう言いたくなるのを堪え、深呼吸。
LCLの中でやる意味があるのかは不明だが。

『このテストはエヴァとのシンクロ率の測定と向上を目的としています』
『とりあえずエヴァとひとつになることをイメージして』

ひとつになる、といわれても、具体的なイメージがわかない。

――そういえば、前はどうだっただろう。

前回の戦闘。あの時は何もわからないまま乗っていた。
あの時、自分はどんな感じだったか?

確か、そう、あれは。

――エヴァが、自分のようだった。

エヴァから見える視界、エヴァの感じる空気、足から伝わる感触。
エヴァの中にいる自分を感じる自分。
あれが、そうか。あの一体感。

「……やってみます」

イメージが固まり、精神を集中する。
テストが開始された。



「……落ち着いたようね、マヤ、始めてちょうだい」
「了解。シミュレーション開始。A10神経接続開始します」

第一回シンクロテスト。
エヴァとパイロットのシンクロ率を測定するためのテストだ。
一回目は、特に初期値のサンプルとしても重要なものとなる。
このテストを重ねてエヴァとの同調を高めることで、エヴァを動かせるようになる。
通常ならば、だ。

だが、この子はまったくの経験なしに、初戦で120%を超える値を出している。
初めて出会ったエヴァを完全に理解する。有得ない。有得ないはずだった。

「シンクロ率、141.4%」

物事にはそのように在るための原因が存在する。
因果性と呼ばれるそれ。
彼女がサードチルドレンである理由。碇ユイの娘。
それは確かにひとつの要因ではあったが、それだけでは説明がつかない数字だ。

直前の怪我。記憶喪失。心理的要因。
パイロットに想定されうる原因をどう組み合わせても、100%を上回る状況は発生しえなかった。
いや、正確には100%を超えて”存在できる”原因は存在しなかった。

99.999999999%と100%。0.000000001%の間には巨大な溝が存在する。
それを踏み越えることはつまり、自我の喪失を意味するはずだった。
自分とエヴァの境界が消え、エヴァと同化し、存在はこの世にとどまれない。
エヴァという存在の巨大さの前に、押しつぶされてしまう。

その世界に足を踏み入れてなお自我を失わずにいる彼女。
それが可能となる状況は。想定できないわけではない。
だが、どれも馬鹿げた妄想のようなものでしかない。

警報が鳴る。
シンクロ率の異常な上昇。

「シンクロ率200%突破、更に上昇!」
「そんな、シミュレータが接続停止を拒否しています!」
「阻害因子を確認して」
「確認します。これは……初号機とのモニタ回線から介入を確認しました!」

背筋に冷たいものが流れた。
シミュレーションのための初号機との回線。
誤差を補正するための一方方向のラインのはずだった。
そこからの介入。
これではシミュレータを使用している意味がないではないか。

「シンクロ率300%突破!このままでは自我境界が!」
「回線を物理切断。シミュレータを強制停止して!」

炸薬音が響き、プラグブロックごと電源供給が停止する。
万が一のための緊急停止装置が役に立った。

――万が一?たかだか0.01%?

その言葉に自嘲する。
本来それどころでない低確率の事象が易々と発生しているのだ。

テストプラグの緊急脱出ハッチが開き、LCLがこぼれ出る。
最終シンクロ率、356.9%を記録。
その世界からすら、彼女は帰還した。



誰かが手を伸ばしている。
だから僕はその手をつかんだ。

誰かが心を求めた。
だから僕は心を与えた。

与えた心。
与えられた体。

この心は僕。
この体は僕。

その心は誰?
その体は誰?

これが僕なら、君は誰なの?

その問いかけに答えようとする僕の答えは、しかし聞かれず。

世界は闇に落ち、僕は僕に戻った。



テストプラグのハッチが開き、僕は正気に戻った。
外は暗闇に包まれていた。
しかし恐怖を感じる間もなく電源が復帰する。

プラグからではなく、なぜか外部スピーカーから赤木さんの声がした。

<<大丈夫?異常はない?>>

「ええと、少し頭痛はしますけど、大丈夫です」

あの偏頭痛の残滓を感じた。

「なにかあったんですか?」
<<……ちょっとした実験のミスよ、ごめんなさい>>

ブロックの電源が落ちていたようだから、ブレーカーでも落ちたのだろうか。
まあ何事もなかったようだ、と安心する。

「この後はどうすればいいんでしょうか?」

<<すぐに救助班が行くから、そこで待っていて>>
<<この状態じゃ実験はしばらく無理だから、検査だけ受けて、今日は帰っていいわ>>

それはつまり、かなり大規模な事故が起こったということだろうか。
また少し心配になって訊ねる。

<<心配しなくていいわ、設備の点検をしなくちゃならないから>>

そういうものなのか、と納得する。
追求したところで自分に何かできるわけでもない。
実際何が起きたのか気にならないわけでもないのだが。

そんな問答をしているうちにホバーが横付けされ、回収された。
だが彼らの切迫した表情が、また僕を不安にした。

……ホバーから降りたとき、自分がどういう格好でいるのか気がついたり、救助班が全員男性だったりしたのは無かったことにしておこう。



――ちょっとしたミス、か。ひどい嘘ね。

一歩間違っていればあの子はこの世に存在していなかったかもしれないのだ。
心配させずにテストを中断するための言い訳。
シンクロテスト自体は別ブロックを使えば行えないわけではない。
だが、この状況を知っている人間ならばもう一度やろうとは思わないはずだ。

異常なシンクロ率が記録されることを考えなかったわけではない。
だがこれほどとは。
しかも初号機が自ら積極的に介入してきた。

――あの子がお気に入りというわけ?

科学的とはいえないその考えも、否定しきれない。
確かに人はエヴァンゲリオンを作った。
だがその力も、能力も、いまだ正確に判明してはいない。
よくわかってもいないものを、強引に動かしているに過ぎないのだ。

しかし、それを使わなければ使徒は倒せない。
生き残るためならば、人はどんなものだろうと使うだろう。
それが、天使だろうと。悪魔だろうと。

――とりあえず、この子の場合……
――シンクロ率の”引き下げ”が急務ね……

これまで四苦八苦してきたことを思うとなんとも皮肉な話ではあるが。

先ほどのテストは最も浅いプラグ深度から、動かしてすらいない。
通常ならエヴァとの接触もぎりぎりの深度でああなった。
パイロットへの悪影響無くシンクロ率を下げるプロテクトの開発。
ただでさえ逼迫している技術部のリソースを考えると頭が痛いが、やらねばならない。
エヴァを起動可能な貴重なパイロットを失うわけには行かなかった。

また、確実に泊り込みになるだろう。慣れてはいるが、それが普通になってしまっているのはなんとも悲しいことだった。
お気に入りの猫型の重しをちょんっと弾く。

「……せめてペットくらい養える時間がほしいわね……」

ふと、親友の作戦部長を思い出しながら、そんなことを考えた。



サードチルドレンの検査に私自身も立ち会うことにした。
時間はまったく足りていないが、彼女自身から得られるものもあるだろう。
そう考えて、最後に面接時間を設けた。

「シンクロテスト中、何か感じたことはあった?」

初号機からの積極的な介入が、パイロットにどんな影響を与えているのか。
やはり他人に任せるより、自分で直接聞き出したかった。

「いまいちどう答えていいのかわからないんですけど」
「そうね、たとえば、何かが見えたとか、聞こえたとか」

自分で例を出しつつも、その曖昧さに苦笑する。
ひどいとは思うが、他に体験をしている人間はいないのだ。
どうしても抽象的にならざるをえない。

「……誰かが、いたような気がします」
「誰か?」
「なんとなく、ですけど……うーん、なんていうか」
「握手、したのかな?」

握手?
侵食されていると考えた場合、ずいぶんと軽いイメージだ。
ならば侵食以外の何かか?

「その後、僕はその人になってた」

それはつまり。
初号機そのものと接触していたということか!
可能性としては、碇ユイ。

「その人はどんな感じだった?そう、たとえば、お母さんとか」
「お母さん?……すいません、そういうイメージはわからなくて」
「あ、ごめんなさい、記憶喪失だったわね」
「いえ、実感がないので。……でも、何か違います」
「え?」

違う?

「もっと、無邪気な好奇心みたいな、そう、子供みたいでした」

予想外の答え。
あの中に宿っているのは碇ユイのはず。
それ以外の存在が、初号機にあるというのか。
後日、詳しく調べたほうがいい。

話の中で気になったもうひとつの疑問。

「そういえば、なぜそういうことがわかったの?あなたはその人になってたんでしょう?」

自分自身を客観的に評価し、他者としての自分を認識していた。
そう考えられる。それがどんな状態なのか。

「えと、すごく言いづらいんですけれども」
「感覚的なものでいいわ」
「……体は二つあって、心も二つあって」
「なのにどちらも僕で」
「考えたことはどちらの体にも伝わって」
「動いたことも二人ともわかっていて」
「同じなんだけど、同じじゃないんです」

感覚的でいいとは言ったが、まさしく感覚的な答え。
いまいち要領を得ないのは本人もそれを整理し切れていないか、語るための言葉が存在しないのか。
この件についても分析が必要のようだ。
今回の実験データとあわせてみれば、何かわかるかもしれない。

面接に取れた時間は多くは無かった。
そろそろ切り上げないと後のスケジュールに支障をきたしかねなかった。

「じゃあ、今日のところはこれでおしまい、帰っていいわよ」

私も帰りたいけれど、などとはさすがに言わない。
だが表情にでも出たのか、申し訳なさそうにしている。

――鋭いのか。それとも常に顔色を窺っているのか。

あまり迂闊な顔はできない、と考えてしまう。

「あ、そういえば、学校のこと、ミサトから聞いてる?」
「え、学校ですか?」

……気がついてよかったというべきか。
それとも気がつけてしまうことを嘆くべきか。

どちらにせよ、ミサトへの書類攻めの刑は確定した。

「ええ、明日から行ってもらう事になるわ」

彼女は本来中学生であり、学業は優先されるべきことだ。
しかしそれだけでなく、彼女の場合その心理面からも中学に通わせる必要があると考えている。
人との絆を渇望する心。対人関係を築くにあたって学校はうってつけだ。

だが、良好な関係を築くためには障害となる項目を、彼女はいくつも持っている。
その点も確認しておかなければならない。
……当然本来は保護者であるミサトの役割のはずだったのだが。

「わかるとは思うけれど、いくつか確認しておくわ」
「なんですか?」
「まず、あなたが記憶喪失であることはどう処理しようかしら?」
「隠すならこちらでそれなりに準備はするわよ」
「……」

即答など期待してはいない。
だから本来はミサトがもっと早くに……考えるだけ疲れる、もうやめよう。

しかし、案外早く答えが返ってきた。

「……あまり、隠し事はしたくありません」
「いいのね?サポートはしないわよ?」
「自分から言い出す気はありませんけど……そういうの、苦手ですから」

苦手、か。
実際のところは、自分を偽る余裕すらないというところか。

「それじゃもうひとつ。その右目、コンタクトでも用意しようかしら?」
「どういうことです?視力はかなり回復してますけれど」」
「そうじゃなくて、片目だけ紅いだなんて、目立つでしょう?」
「カラーコンタクトくらいは用意できるわ」

異質な外見はそれだけで集団から受け入れを拒まれる。
本音と建前を使い分け切れない子供ならばなおさら。

「……やっぱり、隠してるみたいで、そういうのはいらないです」
「本当にいいの?いじめの心配もあるわよ?」
「なんとかやってみます。それに」
「この瞳は、綾波さんとの絆ですから」

あの綾波レイと同一の色彩であるという、そのことを優先するというのか。
病院での二人の間にはほとんど会話記録は無い。
ただ病室に居座っていたというだけだ。
……いや、それだけの関係だとしても、あれだけの期間があれば絆となるのだろうか。

危険性を承知して、それでも隠さないと決めた彼女。
ならばひとつくらいは、気が楽になるようなことを。
口先だけのサービスだけれど。

「その綾波レイと、同じクラスになるわ。よかったわね」
「え、本当ですか?」

実際のところ、当然のことなのだ。
だが、その理由まで教える必要もないし、教えられることでもない。

だが、そうであっても。

嬉しそうに微笑むその姿に、心が緩んだ。