Migraine


退院してから一週間。
ようやく普通の生活というものに慣れてきた。
朝起きて、学校に通って、ネルフの訓練に行き、家に帰る。
ちょっと普通の人とは違うかもしれないが、これが僕の今の生活。

「おはよう、碇さん」
「あ、おはよう」

そう声をかけてくれたのは洞木さんだった。
皆からは委員長と呼ばれている彼女は、とてもまじめな人だ。

「おはよう、碇さん、後委員長も」
「何、私はついで?」

横から声がかかる。相田君だ。
洞木さんの一言に笑いながら、僕も答えた。

「ははは、おはよう、相田君、鈴原君」
「おう、おはようさん」

鈴原君が最後に挨拶してくる。
僕はそのまま自分の席に荷物を置いて、お隣に。

「おはよう、綾波さん」
「おはよう、碇さん」

朝の挨拶、いつもの繰り返し。

学校ではようやく人だかりができることは無くなった。
転校生としての目新しさがなくなってきたということだろうか。
それは少し寂しいけれど、クラスの仲間として認められたと思うと、嬉しかった。

ただ、この間の戦いのあと、また何人かが疎開していった。
クラスは更に空席が目立つようになってしまっている。
入院している間にいなくなった子もいた。
自己紹介だけに終わってしまったことは、残念だった。

だけど……
疎開したなら、危ない目にあうことは無いはずだ。
ここでの戦いには巻き込まれない。
本当なら、他の皆だって逃げたほうがいい。

そう考えて気がつく。自分の心。
皆と一緒にいたいと思う、絆を求める心。
これは傲慢なのか。
守るべき人々を危険にさらして、それでも絆を求め、それゆえ守る。

――結局、自分のために戦ってるに過ぎないのか。

朝からそんな暗い気持ちになっていると、予鈴がなる。
そこで、思い出す。

今日は水泳の授業があることに。

第四話:寄り添う、ココロ

知ること、分ること



朝の時間の暗い思考はどこへやら。
すでに僕の脳細胞はそんなことに割く処理能力は有していない。

そう、水泳。
先週までは怪我と体力の問題で見学だった。
だが、この間の検診で泳いでもよいとお墨付きが出た。
無理をせずに、という条件付ではあるが。

セカンドインパクトの影響で常夏となってしまった日本。
いまでは体育といえば水泳、というほどに水泳の授業は定番だった。

他の女の子たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを、着替えもせずプールサイドで見ている、というのは、日陰に退避していようと炎天下では肉体的にも精神的にも暑苦しく、いっそ水に飛び込んだほうが体にいいのではないかと思ったこともある。

ついでに言えばそうやって水着姿の女の子たちを見ているとなぜか恥ずかしくなってしまうことがあり、少々目のやり場に困ることも多々あった。

……うん、あれは少々困っていた。だけど今は大いに困っていた。

自分が泳ぐということは、自分も水着になるということで。
それは自分が着替えるということで。
そうなると更衣室に入るわけで。

つまり今僕は。お着替え中の女の子達。その中の一人だった。

まあもちろん皆素っ裸になって着替えているわけではなく、器用にタオルを巻いて隠しながら脱いでいるのだけども。
あまりそういうことに頓着せずに着替える子もいるわけで。
他の子のかわいらしい下着が見えたりするわけで。
というか綾波さんあなた一気に全部脱いで着替えるってそりゃ効率的かもしれないけれどそれは女の子としてあんまりじゃないのかしら頼むから早く着ちゃってください。
後そこの形がどうとか大きさがどうとか言っている子達もお願いしますきちんと着替えてください。

哀れ女の花園に放り込まれ、しかし自分も女の子。
誰にとがめられるわけでもなく、しかし自分は後ろめたく、生殺しの生き地獄か。
当然この場で更に着替え始める勇気など、これっぽっちもありはしなかった。

ここは着替えるための場所であるからして、待っていれば皆いなくなるはず。
授業に遅れる可能性は意識から排除し、更衣室の隅でひたすら耐える。
傍から見れば恥ずかしがり屋の女子生徒、その忍耐が功を奏したか、はたまた授業時間が迫ってきたか、ついに周りは自分一人。
一人は嫌と叫ぶいつもの心も今このときばかりは安堵感に覆い潰されていた。

するとそこに開始のチャイム。
遅刻確定のその音に、急げ急げと心が焦る。

とにかくあわてて着替えていると、ガチャリと扉が開かれて。

「碇さん、何してるのよ、早く出てきて……」

思わず振り向き……そこにいたのは洞木さんだ。
急いで着替えようと効率よく動いていたその状態は、図らずも綾波さんと同じ方法論。

見事に素っ裸で彼女と対面した僕の顔は、ポンッと音がしそうな勢いで真っ赤に染まる。
叫び声を上げそうな口を理性が強引に押さえ込む。
超高速でなり続ける心音は空気を求めて一層強く。

更衣室から出るとき、一瞬お花畑が見えたのは、幻視だったと思いたい。



そういう訳で授業の前に体力を使い果たした感のある状態で、僕はプールサイドにへたり込んでいた。
ずいぶん適当というか、準備運動の後は皆思い思いに泳いでいる。
年がら年中やっている授業で、基本的にもう適当なのだ。

目の前を綾波さんが音もなく、流れるように泳いでいく。

――きれいだ。

白い肌に蒼い髪の彼女が泳ぐその様は、水の妖精といった風情で実に美しかった。
そのゆったりと見えて意外な速さで進む姿は、なんとも気持ちよさそう。

プールサイドの照り返しはかなり酷い物だ。
せっかくあんな思いをして着替えたのだから泳がなければもったいない。
そう考え、つられるようにプールに入る。

冷たい水の感覚が、足先から徐々に体へと進んでいく。
日差しで熱を持った肌が急速に冷やされる。

――んー、気持ちいい……

暑い最中のこの冷たさは、心地よかった。
いろいろと面倒なのに水泳の授業が多いのもわかる気がする。

そんなことを考えているうちに、プールの底に足がつく。
そのまま動こうとして。

足を滑らせた。

――え?

水深1.2M。
プールは中央に向かって深くなっており、そちらへ緩やかな下り坂となっていた。
その深さはひっくり返った僕が全身を水没させるのに十分で。
滑った弾みに少し中央へと寄ってしまう。
焦って水底を蹴って水面へ出ようとするが、何とか出たのは鼻の頭まで。
気がつけば水深1.5M。かなり中央によってしまったそこは、既に僕の身長を超えていた。

手足を必死にばたつかせ、水面に上がろうとして、事ようやく事態に気がつく。
泳ぎ方がわからない。体がまともに動かない。どうすればいいのか何も知らない。

自分はカナヅチだったらしい。

解ると同時に体を恐怖が支配する。
筋肉が強張り、動かすことすらできなくなる。

――怖い怖い怖いおちつけおちつけおちつけ

そう、そうだ、エヴァの中だって水の中。
落ち着けばきっと大丈夫。

だが世界はそう甘くは無い。
LCLを飲み込むときのごとく、ごぽりと肺から空気が流れ出ると。
僕の意識は闇に包まれた。



胸が、苦しい。
頭が痛い。

気がついて、目を開けたそこは、知らない天井。
僕はベッドに寝かされていた。
保健室のようだった。

身動ぎして、辺りを見回す。
白いカーテン。
蒼い髪、赤い瞳。

綾波さんがいた。

「僕、どうしてここに?」
「あなた、溺れたのよ。覚えていないの?」

そう答える彼女。
そうだ、僕はプールで溺れて。
綾波さんが助けてくれたのだろうか。

「ありがとう、助けてくれたの?」
「最後に引き上げたのは先生よ。私は頼まれたから」
「何を?誰に?」
「洞木さんに。付き添いを」

最後に、先生が助けた。
じゃあ最初に助けたのは、やっぱり彼女なのだろうか。
わざわざ頼まれているのだし、そうなのだろう。
そうでなければ……と、考えて、唐突に思い出した。

彼女は誰とも話さず、何時も一人でいる。
そういえば、初めは彼女に挨拶しただけで妙な空気になった。

「ねえ、綾波さん」
「何?」
「どうしていつも、一人でいるの?」

いつか聞こうと思って、だけどいつもうやむやになってしまっていたこと。
周りには誰もおらず、二人きり。
思いもかけない絶好のタイミングだった。

「必要ないから」

だが彼女の言葉は、僕の心を抉った。

「何が必要ないの?おしゃべりが?一緒にいることが?それとも、絆がいらないの?」

思わず声を上げ、まくし立てる。
彼女から返ってきたのは冷静な声。

「私はエヴァに乗るために生まれてきたわ。そのために、それは必要じゃないわ」
「なんで、そんなことをいうの?」
「何故?解らない」
「関係ないじゃない。あなたがエヴァに乗る理由と、皆と仲良くすることに、何の関係があるの?」
「関係が無いなら、私には必要ないわ」
「っ!」

その言葉はやはり衝撃だった。
いや、うすうす分かってはいたのだ。
彼女にとっては、エヴァに乗ること、それ以外は意味を持っていなかった。
だけど、こうやって直接確認すると、やはりそれは酷く悲しかった。

「そんなの、そんなの寂しすぎるよ」
「そうなの?わからないわ」

わからない。寂しいのが、分からない。
彼女はもしかして、知らないのではないか。
記憶が無い自分より、もっと知らないのではないか。

何も言うべき言葉が見つからなくて。
玉響ほどの静寂に、彼女が席を立つ。

「もう大丈夫なら、行くわ」
「え、あ……」

保健室を出て行こうとする彼女を、あわてて追いかけようとベッドを降りる。
呼び止めようとした僕に、彼女の声がかかった。

「服、着たら?」
「え?」

そういわれて気がつく。
シーツの下にあった体は、裸だった。

「濡れてたから。着替えは置いてあるわ。それじゃ」
「え?え?」

そう言って去る彼女を、僕は呼び止めることはできず。
少しして、赤くなりながら着替えなおしたのだった。



その日の夕食。
久々に早引けできたという赤木さんが、家に一緒に食べに来ていた。

ここ最近の訓練は、直接初号機に乗り込んでのシンクロテスト。
いろいろとシステムの改良をしたということで、実験を兼ねているらしい。
だけどその割には以前ほど初号機がしっくりと来ない。
シンクロ率も上がっていないようだった。
なのになぜか少し上機嫌のように見えた赤木さん。

綾波さんとは保健室の後、なかなか話す機会が無かった。
訓練のときもタイミングがばらばらで、彼女と直接会うことは無かった。
かろうじて初号機のモニタから見えた彼女。
珍しくお父さん、碇司令と話していたその顔は、楽しそうで。

――やっぱり、ああいう顔もできるんだ。

などと、少し嬉しく、少し寂しく、思った。

がたんと、机の上に鍋が置かれた。
今日の夕食の当番は、ミサトさんだ。
といっても、ずっと僕は病院だったり、ミサトさんの帰りが遅かったりで、実は彼女の手料理を食べるのは初めてである。
自信満々といった風に持ってこられたそれを、それぞれの皿に盛りかける。

……なぜかミサトさんはカップ麺に注ぐ様に指示してきた。

「元々カレー味のじゃこの味は出ないのよねー」

そんなことを言っているが、おいしいのだろうか?
ネギチャーシューと書いてある気がするのだけれど。

ともかくも、ミサトさん特製カレーもよそい終り、いよいよお食事タイム。
まあ特製といってはいるけれど、レトルトカレーを買っていたのは見ている。
あまり味に期待はしないでおこう。

そんなことを思いつつも一口すくって口に入れた。
それが口の中に落ちたその瞬間、していなかったはずの期待は恐ろしい方向に裏切られた。

なんと表現すべきだろう。この味は。
そう、苦いも辛いも甘いも通り越した、これは。

――……つらい味?

何とかその、ものすごい味の物体を飲み込んで。
だが体中から発生した危険物への警鐘に、僕はトイレへと飛び込んでいた。


追伸。トイレに入るときに近くで何かが卒倒する音が聞こえたけど、何だっただろうか。

追伸2。当番表の食事欄は破り取りました。



そんなこんなで危うく大惨事になりそうなお食事会も何とか終わった。
見ると赤木さんは何の手も加えられていなさそうなものだけを器用により分けて食べている。
その上で何かの薬を飲んでいる用意周到っぷり。
すばらしきかな長年の付き合いというところだが、だったら教えておいてほしかった。
後でお薬もらっておこう。

その恐怖の毒物を調合した張本人は我々より更に危険度を上げたようなミサト特製カレーチャーシューラーメンをぐいぐいと旨そうに飲みきっていた。
有得ない。あれをあのように食切るとは。
彼女の胃袋はおそらく使徒のそれより強力に違いない。

僕自身はというとあれ以来何も受け付けなくなってしまい、もう食べるのは諦めた。
食べられる気分になったら自分で何か作ろう。そう考える。

「シンジちゃん、やっぱり考え直したら?がさつな同居人に人生を台無しにされる前に」

冗談とも本気ともつかぬ赤木さんの口調。まあ顔は笑っているのだけど。

「でも、他に誰かいるんですか?」
「私はほとんど帰れないから無理だけど、なんだったら私の部下の……そうね、マヤ辺りに頼んでもいいわよ?」
「うーん、それは魅力的ですねえ」
「ちょ、ちょっとなにいってんのよ」

そんな僕達にあわててミサトさんが口を挟んでくる。
まあはじめからそんなつもりは……少しは、いやそれなりには有る様な……。

「でもまあ、感謝してますし、それにもう慣れましたから」
「ほらほら、人間の環境適応能力をなめてはいけないわあ。あ、もう一本お願い」
「……不憫ね」

ビールをせがむミサトさんをみて、本気で哀れに思われた。

「それにいまさら手続き面倒よ。シンちゃん、ホンチャンのセキュリティカードもらったばかりだし」

その声に応えたのは、あっ、という思わず漏れたような声。
珍しく赤木さんが罰の悪そうな顔をしている。

「忘れるところだったわ、シンジちゃん、頼みがあるんだけど」
「なんですか?」
「綾波レイの更新カード。渡しそびれたままになっちゃってて」
「本部へ行く前に彼女のところへ届けてもらえないかしら?」

綾波さん。
今日の出来事を思い、彼女の写真を見つめる。

「どうしたのお?レイの写真をジーっとみちゃったりしてえ」
「え?」

何だろう、このニヤニヤ笑いは。

「あ、まさか、レイのことを愛しちゃったとか?」
「え?ええ!?」
「だ、だめよ、あなた達女同士なのよ!」
「いや、だから」
「それに中学生でそんな趣味に走るなんて……」
「ミ、ミサトさん、やめてくださいっ!」

なぜか顔を赤くしながら必死になって彼女を制止する。
だけど彼女のニヤニヤ笑いはもう大笑いに変わり。

「あははは、からかい甲斐があるわねえ。赤くなっちゃってまあ」
「ミサトと同じね」
「ぐふっ」

赤木さんの一言につんのめりながらも笑っている。
そんな様子は楽しかったけど、でも。
綾波レイ、彼女のことを考えると、笑顔が途切れた。

「……僕はただ、彼女のこと、まだ理解できてなくて」

そう、保健室で交わしたあの会話。
彼女の考え方は、僕には分からなかった。
理解したとしても、受け入れたくは無かった。

「いい子よ、とても」

ふと、赤木さんがそんなことを言った。

「あなたのお父さんに似て、とても不器用だけど」

不器用。
綾波さんが。
僕のお父さんも。

――何が?

「生きることが、かしらね」

彼女のその一言は、僕の心に重く響いた。