Migraine


延々と立ち並ぶ、半分廃墟と化したビルの群れ。
表記された住所はそこを示していた。

老朽化し、補修も行われていない外壁。
掃除も行われていない、管理されているのかすら怪しいマンション。
その402号室。

人が住んでいるとは思えないそこ。
しかし確かに、綾波レイの表札があった。

だが実際に見てもまだ信じられない。
それほどの場所だった。

恐る恐るインターフォンを押す。

……鳴らない。

カチカチと何度押しても音が鳴る様子は無い。
壊れているのだろうか。

――ただ、表札が残っているだけじゃないのか?

そんな気分をますます強くする。
唯一、他の部屋と違い大量の手紙が玄関のポストにつめられているのが、誰かがそこに住所を定めていることをあらわしている。
だが、それは裏を返せばそこには住んでいない、ということではないのか。

ドンドンと扉を叩きながら、呼びかけてみる。

「ごめんくださーい」
「綾波さん、いますか?碇ですけど」

その声にも反応は無い。
なんとなくノブに手をかける。
……鍵すらかかっていなかった。
建付けの悪い扉が不機嫌そうな音を立てて開く。

「綾波さん、いるの?」
「届け物があるんだけど、入るよ?」

少々申し訳なく思いながらも玄関へ入った。
そして、中の様子に立ち尽くす。

コンクリートの打ちっぱなしの部屋に、安物のベッドがひとつ。
脱ぎ散らされた壱中の学生服は確かに誰か住んでいることを示している。
小さめの棚、その横には血のついた包帯が打ち捨てられて。

誰かが住んでいる、それは分かる。
だがなんだ、この違和感。
まるで生活感というものを感じさせない部屋。

真っ白なシーツと枕カバーには、べっとりと真っ赤な血の跡。
それがそのまま放置されている異常さ。
背筋に悪寒が走る。
生理的嫌悪感を感じても仕方が無い光景。

――見たくない。

そう思う。それなのに。
目が、放せない。


白の地に、赤が流れ、広がる。

強烈な頭痛とともに、幻のような光景が、魂を揺らした。


視界が、暗転する。

頭の芯が捩れる。

かすかな血のにおい。

消えたヒト。

光の墓標。

闇の帳。

真紅の円環。

輪廻の終わり。

世界の終わり。

終わらない自分。


永遠の、孤独。

僕の心は、絶望に、凍りつく。

第四話:寄り添う、ココロ

シンジ


ほとんど水のようなぬるま湯で、シャワーを浴びる。
全身を流れるその感触が、好きだった。
私が心地よさを感じる数少ない物のひとつ。

体を拭き、風呂場を出る。
今日の予定。この後ネルフにて零号機の起動実験。

着替えようと部屋に向かい、異変に気がつく。
ベッドの脇に座り込んだ、人影。

ここにいるはずが無い人。
碇シンジさん。

「なぜ、あなたがここにいるの?」

思わず問いかける。
だが、その背中越しの質問に、彼女は何の反応も示さない。

「聞いているの?」

そういって肩を掴む。
ここは私の部屋。私の場所。

しかしその行為にも、彼女は反応しない。
おかしい。そのまま思い切り引っ張ると、彼女の上体が崩れ、顔がこちらを向いた。

その顔は、恐怖に固まり、震え。
紅と黒の瞳は、開き切り、何も映してはいない。
恐慌状態。正気を失っている。

何も映さない瞳。私も映さない瞳。

――嫌。

心のどこかが、そう囁く。
取るべき対処。意識の覚醒。相応の刺激を与える。

そう考えた次の瞬間に、破裂音が響く。
彼女の頬に赤く手形がついていた。

「あ、う」

うめき声。反応した。
だが、まだその瞳は朦朧としている。
逆の手でもう一発。
きれいに高音が響く。

碇さんの目が大きく見開かれ、ようやく、その瞳に私が映った。
だがすぐにそこは涙で満たされて。

彼女は泣きじゃくりながら私に抱きついた。

こうして抱きつかれるのは二度目。
この前は病院。あの時も碇さんは泣いていた。
あの時はその涙の意味を訊ねた。
あの時この人は、わからない、と応えた。

今の彼女の涙。
恐慌状態からの回復。恐怖による涙。
それとも、安堵感から流れた涙か。

抱擁。恐怖からの逃避、安堵感の獲得。
あの時も、そうだったのだろうか。

彼女が落ち着くのを待ち、呼びかける。

「碇さん、大丈夫?」

その言葉に、ようやく彼女はまともな反応を返してきた。

「あ、ごめんなさい。もう、落ち着いた、から」
「そう」

そういうが、まだ、抱きつかれたままだった。
これでは動けない。

「なら、どいて。着替えるから」
「え、あ、ご、ごめんなさい」

そういうと彼女は慌てて飛び退く。その顔がなぜか赤い。

だが疑問に思う間もなく、離れようとしていたはずの彼女の手が伸ばされ、私の腕を掴む。
その相反する動作により、私達は二人してひっくり返った。
彼女が下敷きになり痛くは無かったが、少々苛立つ。

「なにをするのよ」
「うっ、ご、ごめん」

だがそういう彼女の顔は、また蒼白になっていた。
まだ、回復しきっていなかったらしい。
私に触れていれば、安心できるのだろうか。
とりあえず、掴まれたまま姿勢を直す。

だが困った。それでは着替えが進まない。
とりあえずこちらを掴んでいる彼女の手首を持ち、強引に肩口まで移動して、そのまま着替えを進める。
下着を穿く。
このままでは服が着れないので、同じようにしてその手を太股に移動する。

「えと、あの?」
「邪魔だから」

彼女が目を白黒させているが気にしない。ブラジャーをささっと着ける。
また邪魔になると移動させる。そうして何度か彼女の体勢を変えさせて、着替えが完了した。

「いいわよ、もう」

そういって彼女の手を取ろうと左手を伸ばすと、その腕をしっかりと抱きしめられた。
強く押し付けられた胸からの鼓動は早く、いまだに小さく震えている。

「本当に、ごめん」
「怖くて、怖くて、怖くて、どうしようもなくて」
「……気にしないわ」

彼女は初号機のパイロットだ。
特別な人。重要な人。
その彼女の状態を安定させられるなら、これは必要なこと。
それだけのことのはず。
それだけのことの、はずだった。

でも、そうしろと命令を受けてはいない。
なのに何故自分はそうしなければならないと思うのか。
なぜ、こうして彼女に掴まれる事が、不快ではないのか。安心できるのか。

――わからない。

以前碇さんが答えた言葉。
同じ言葉が、自分の中から返ってきた。



「ネルフ、あなたも行くんでしょう?」
「あ、うん」

何時までもこうしては居られない。
彼女とのやり取りのおかげで予定していた時間はとっくに過ぎていた。

左腕に縋り付かれた体勢のまま、玄関を開けマンションを出る。
いつもと同じ、ネルフへの道。
ただ彼女が居る、それだけ。

街を抜け、本部への入り口へ。
ゲートでセキュリティカードを通し、中へ入る。
いつもと同じ……いや、ゲートが開かない。
もう一度カードを通す。やはりエラーになる。

「あ、ご、ごめん」

横から声がかかる。碇さんだ。

「これ、新しいセキュリティカード、本当はこれを届けに行ったんだけど」
「そう」

彼女から受け取ると、改めてカードを通す。
表示とともに今度こそ奥の扉が開いた。

そのままメインゲートを通ろうとして、動けない。
みると、彼女がゲートの入り口でせき止められていた。
私の腕を掴んだまま。
そのせいで、こちらも動けないのだ。

「碇さん、放して。一人ずつしか通れないわ」
「ごめんなさい、でも……」

そういって怯えた表情をする彼女。

「向こうで待っているから」

一言言って何とか引き離すと、私はメインゲートをくぐった。
後ろでは彼女がどたばたと動く音が聞こえる。
そして、私の通ったゲートが閉じる前に隣のゲートから彼女が出てきた。
そのままこちらに駆け寄り、思い切り抱きつかれる。

結局彼女が落ち着くまで、そこから動けそうになかった。

しかし、普段の彼女はこのような怯えた様子など見せたことは無い。
それがこれほどの長時間、精神が安定しない。
一体何があったのか。

「なにがあったの?あなたらしくないわ」
「……わからない。あの部屋で、突然、何か見て、何か見えて」
「それが怖くて、誰も居なくて、一人で、戻らなくて」

明らかにまたぶり返した様子の彼女を、慌てて抱きしめ返す。
やはり普通じゃない。だが、どうすればいいのか分からない。

と、携帯端末から呼び出し音が鳴る。赤木博士だ。

「レイ、どうしたの?あなたが遅れるなんて」

そうだ、赤木博士なら対処できるはず。

「碇さんの様子がおかしくて、移動できずにいました」
「おかしい?どんな感じ?今どこにいるの?」
「私の部屋に彼女がいて、それからずっとしがみついて離れません。今は地上ゲートを入ったところです」
「そう、今行くから、少し待っていて」
「わかりました」

そういうと通信が切られる。
待っていて、ということはしばらくこのまま。

私は携帯端末を戻すと、今度は包むようにそっと、彼女を抱きしめた。



医療班を連れて、地上ゲート入り口へと向かう。
レイの部屋で様子がおかしくなったというシンジさん。
あの部屋の情景になにかトラウマに触る物でもあったのか。
殺風景なあの状況を思い浮かべる。
有得ないとはいえない。

そんなことを考えながらたどり着いたそこ。
レイの胸に縋るように抱きつく碇シンジとそれを抱きとめているレイ。
少々予想外の光景だった。

「……レイ、シンジさん、何してるの?」
「こうしていると、彼女が落ち着くので」

レイが冷静に答えてきた。
対するシンジさんは慌てて顔を上げるが、その顔は真っ赤になっている。
だが……その目もまた充血し、涙のあとが顔に残る。

「とりあえずシンジさん、レイから離れられる?」
「あの、えっと……怖くて」

よく分からないが、レイから離れることができないらしい。
そんな彼女を、背中から抱きしめる。

「私じゃだめかしら?」

そういってレイとの間に手を入れ、抱きしめる。

彼女の手が緩み、レイが開放される。

「赤木さん、僕、僕……」
「ほらほら、また泣かないの」

あやすように彼女の背をさすった。
これはかなりの重症だ。
控えていた医療班に目配せする。
抱かれている彼女の後ろから回り込み、無針注射で安定剤を注入する。
しばらくすると、彼女がぐったりと寄りかかってきた。

「それじゃあ、後は任せるから、状況は逐一報告して」
「了解しました」

そういって彼女を運んでいく。
対応としては褒められたものでもないが、これから行う実験はレイがいればよく、更にいえば非常に重要なものだった。彼女のためにあまり遅延はできない。

実験に戻るため、今度はレイとともに移動する。
移動中、珍しくレイが質問してきた。

「碇さん、大丈夫ですか?」

質問の内容も珍しい、レイが他人の心配とは。

「大丈夫よ、ちょっと眠って、落ち着けば」
「そうですか」

そういう彼女は、普段どおりの無表情に見える。
だが、ほんの一瞬、ほんの少しだけ、表情に微妙な変化があった。
よほどよく知らないと分からない、この変化は……安堵感だろうか?

今まで彼女は碇司令にしか心を開いていなかった。
他の人間は、ただの他人、興味の外にあったはずだ。
司令にしろ刷り込みによる依存関係を成立させているに過ぎないというのに。

「珍しいわね、気になるの?」
「……わかりません」

彼女自身に把握できない感情。
碇シンジは新たな感情をレイの中に生まれさせている。
起伏の少なかった彼女の精神。
エヴァに乗る上でその変化がどう影響するのか。

――今日の再起動実験、慎重を期したほうがいいわね。

そんなことを考え、実験棟へ入った。



「起動電圧、臨界点を突破」
「パルスおよびハーモニクス正常」
「オールナーブリンク良好」
「第三次接続、開始」
「絶対境界線まで0.2、0.1、突破!」
「零号機、起動しました」

エヴァンゲリオン零号機再起動実験。
実際のところ、危惧された問題は何も起こらず、あっけないほどあっさりと起動に成功した。

ふと、前回の起動実験を思い出す。
絶対境界線を越える寸前、突如としての暴走。
室内で強制排出されたプラグが壁面と衝突し、レイは大怪我を負った。
そのときの原因と思われるのが、激しく乱れた心理グラフ。
普段ほとんど乱れることのない彼女の精神が、何故そうなったのかはわからなかった。
この一ヶ月あまりでの彼女の心理面での変化が、また心理グラフの変動を発生させるのではないかと疑っていたのだが。

『引き続き、連動試験に入ります』

そう通達する声が聞こえる。
起動は出来たが、予定通り動くかどうかは別問題だ。
これから細部の調整を行い、ようやく稼動可能状態となる。
エヴァが二機、これで戦える。

そう考えた矢先、連絡が入る。

「碇、未確認飛行物体が接近中だ」

冬月副司令が内容を報告する。
未確認飛行物体、おそらくは。

「第五の使徒だな」
「テスト中断、総員第一種戦闘態勢」

副司令の言葉に答え碇司令が即座に判断を下した。
しかしこのタイミング。
まだ零号機はようやく動けるようになっただけだ、調整が足りなさ過ぎる。
そして、もう一つの問題。

「初号機は?」
「380秒で準備できます、が……パイロットが」
「覚醒まで最低でもあと三十分はかかります」

先ほど強制的に眠らせたばかりだ。
今強引に覚醒させてもまともに動けないだろう。

「……パーソナルパターンをレイに書き換え、出撃だ」
「了解しました。書き換え作業を含め12分で終わらせて見せます」

慎重を期するなら一時間以上はほしいところだが、それならばわざわざ書き換えるまでもない。
時間との戦いだった。
技術部の威信にかけて、終わらせてみせる。

「レイ」
「使徒が来ている。初号機で出撃だ」

今起動実験を成功させたばかりのレイも精神的に疲労しているだろう。
機体は何とかそろったが、人的資源が不足していた。
そもそも、決戦兵器が二台、パイロットが二名。しかもどちらも14歳の少女。
こちらの手札はそれだけだった。
だが相手は時間を選んではくれない。
こちらの事情など関係なく攻めてくるのだ。
それに対抗するには、あまりにも心もとない。

だがそれが、今の人類の最後の要だった。



「初号機、起動します」

ジャスト12分。さすがはリツコだ。
通常の工程をどう書き換えればここまで短縮できるのか、というほどの早業。
それが出来るからこその彼女の地位。

そして、ここからは私の番だ。

「目標観測結果、出ます。パターン青、使徒です!」

日向君がそう報告するが、あんなでたらめな物が使徒以外のものであったほうがよほど驚く。

正三角形を張り合わせた青色の正八面体。
巨大な幾何学物体が宙に浮いて第三新東京市中央へと向かっていた。

――あれも人と99.89%一緒だとか?

冗談じゃない。
個体差程度の変異であんなものが作り出せるとは到底思えなかった。

今のところ目標は移動する以外の反応を見せていない。
まずは一当てしてみるか。

「エヴァ初号機、発進!」

レイと初号機の組み合わせはそれほど相性が良いわけではない。

シンクロ率23%。

シンジちゃんとは比べるべくもない低い数字だが、動かないわけではなかった。
たとえ倒せないまでも、時間を稼ぐ。
その間にシンジちゃんを復帰させ、零号機を稼動状態に持っていければ。

前回の使徒は1km近い射程の武器を持っていた。
安全を期するため、今回の射出場所は目標予想到達地点の3km後方。
同等の武器を持っているとしても最悪先制攻撃は避けられる。
こちらの攻撃が効かなくとも、どうせ牽制だ。

超高速で地上へ向かうリニアカタパルト。
その表示が半ばまで差し掛かったとき、異変が起こった。

「目標内部に高エネルギー反応!」
「なんですってえ!」

この状況で攻撃準備の態勢。なにか、やばい。

「円周部を加速、収束していきます」
「まさか!」

リツコの叫び。
円周加速して収束する兵器、私にも思い当たる。

――加粒子兵器!

「いけない!レイ、避けて!」

思わず叫んだ時には、すでに初号機は地上に到達した後だった。
同時に強烈な光の奔流が正八面体の頂点から発射された。

いかなる方法で捉えていたのか。
初号機との射線上にある兵装ビル群をもろともせず、その光は一瞬で初号機に到達する。
最終ロックを解除する間もない。

打ち抜かれた兵装ビルに大穴が空き、あっという間に蒸発していく。
初号機に突き刺さった高エネルギーの塊が、その特殊装甲に穴を穿つ。

『きゃあああああああああああああああ!』

発令所に響くレイの悲鳴。

あまりの高温にエヴァの体温が上昇し、プラグ内のLCLが湯立つ。
その現実の熱と、シンクロによる感覚は、想像を絶するものだろう。

「もどして!早く!」

当然やっているであろう作業だが、叫ばずにはいられなかった。

――何が、現場指揮よ!

それくらいしか出来なかった。
自分には、何も出来なかったのだ。

作戦の初動での頓挫。
初号機の損傷。
そしてなにより、パイロットの生命の危険。

今後の行く末に暗雲が立ち込める、第一次迎撃作戦の失敗であった。