Migraine


第七話:閑話

有耶無耶


「もう、この天井も見慣れたなあ」

どうして僕はこう、使徒がくるたびに病院送りになってしまうのか。
確かに使徒との戦いはとても危険なのはわかっている。
だけど入院を繰り返しているせいで、僕の日常生活はずたぼろである。

初めて見上げたとき、なぜか妙に懐かしく感じた病院の天井。
だけど入院のたびに見上げつづけたそれは、ある意味最も慣れ親しんだ天井になってしまった。
断言してもいい。
僕は自分の部屋の天井を眺めた時間よりも長く、この天井を見ているはずだ。

しかも今回は、今までよりもずっと長く、厳格な療養期間になっていた。
強引に早期退院を繰り返し、そのたびにぼろぼろになって送り返されてくる僕を見かねてか、病院側が要請してきたらしい。
動けるのに出られない、もどかしさと寂しさ。
もちろん、綾波さんや鈴原君たち、それにネルフの職員の人も見知った人が何人か、訪ねてきてくれる。
だけどもう、親しくなれていないクラスメイトは来てはくれなくなっていた。

それに、アスカと、お父さんも。

ラジオが、特例A-17の解除を伝えていた。



うん、おかしい。

今回は早期退院はできないんじゃなかったか。
それなのになぜ、今僕は車に乗っているんだろう。
運転しているのは加持さんだ。
そしてなぜか隣にはペンペンまで。

「ん、ラジオでもつけるかい?」

後部座席から訝しげに彼を眺めていると、視線を感じたのだろうか、そう返してきた。
正直なところ、僕はこの人がよくわかっていない。
加持リョウジさん。
アスカと一緒に日本に来たこの男の人が、普段何をしているのかよく知らない。
前のとき、初号機まで連れ出してくれたのもこの人だった。
昔ミサトさんの恋人だったとか。
今も猛烈にアタックをかけ続けているらしいが、これは本気なのか冗談なのか。
ほかの女性職員を口説いていたという話もちらほらと聞くし、実際目撃したこともあるのだけれど。
プレイボーイという言葉が似合う、いつも飄々とした態度の人。
さすがに僕を口説いたりする気は無いようだけれど、その代わりに。

「さあて、着きましたよ、お嬢さん」

そういってドアを開けてくれている彼。
なぜだかお嬢様扱いされているのだが、これも何かの冗談だろうか。
僕がそんな風なことに慣れているはずもなく、むず痒いやら恥ずかしいやら、どうにも緊張する。

ともかくも、そのままエスコートされてきた先は。
一軒のひなびた温泉旅館だった。



『ネルフ作戦部ご一行様』

そうかかれた立て札に、目が点になった。

「ミサトの発案でね、せっかく浅間山まできたんだし、ということだそうだ」
「なかなか普段遠出もできないから、突発的慰安旅行ってわけだ」

僕の療養中に、新たな使徒がこの浅間山の火口奥深くに現れたのだ。
詳しい事情は知らされていないけれど、アスカが溶岩の中で戦闘し、殲滅したということだ。
その作戦のためにネルフの人間が多数現地出張したわけだが、社員旅行など望むべくも無い組織において、温泉地に来たついでという前代未聞の珍事というべき突発旅行が、よりにもよって作戦部長自らの手により実行されたのである。

「それで、何で僕まで?」
「あれ?嫌なのかい?喜んでくれるかと思ったんだが」
「いいんですけどね……」

ネルフが、僕をあまり一人の状態に長く置かないよう配慮しているらしいことはさすがに気がついている。
そのことについては感謝しているのだ。
おかげで、孤独への恐怖心は徐々に和らいでいるのだから。
だけどこうも頻繁にネルフ権限で公私混同な退院を繰り返しているのは気が引ける。

「なあに、ここは第3新東京市からそう離れてるわけでもないし、たまには生き抜きも必要さ」
「でも、どちらにせよ僕は療養中だったんですけど」
「ならなおさら気にしなくて良いさ。湯治って言葉もあるだろう?」

本当にそれで良いのかといいたくなるような問答を続けている間についた先は、大宴会場と書かれた襖の前。
なにやらにぎやかな音がもれ出ているそこに手をかける。


迷惑にならないように静かに開けて。


気付かれないように静かに閉めた。


「……今は入らないほうが良いな。体に障るぞ」
「そうします……」

中は既に見事に出来上がった集団の無礼講の場と化していて。
日ごろの鬱憤を晴らすかのごとく繰り広げられている乱痴気騒ぎは、さながら台風のごとき。
大荒れの宴会についていけるほどに頑丈でない僕は、素直に加持さんの忠告に従うことにした。

……目の前に男性のお尻と、ついでにぶら下がったものの影まで見えたのは、幻覚に違いない。



「まあ、だれもこないだろうし、いいよね」

全員で騒いでいる宴会場以外の場所には、逆にだれもいないわけで。
あの空間に混ざるのは少々きついものがあるけれど、だからといって部屋で一人でいるのは寂しいだけでなく退屈だった。
そこで、せっかくだから温泉に入ることにしたのだ。

「ゆ」とかかれた伝統的な暖簾をくぐり、脱衣所へ。
先客はいない様子のそこで、裸になる。
タオル片手に風呂場へ向かおうとした自分の体が、こういう場所ならではの巨大な鏡に映った。

――もう、見慣れちゃったな。

記憶の無い、違和感だらけの混乱の中過ごした日々。
初めはとんでもなく恥ずかしかった、自分の体。
けれどもうあれから数ヶ月。
映ったそれを見て、やっぱり貧相だな、と感想が出てくるくらいには馴染んでいた。

何故自分の感性が男性的であったのか、今でもそれはわからない。
もともとそう感じていたものなのか、それとも記憶を失ったとき、何かが狂ったのか。
だけど別に自分が女であることが嫌なわけじゃなかった。男になりたいわけでもなかった。
ただ、どうすればいいかわからなかった。
そのことが恥ずかしくて仕方が無かった。

外への扉を開く。
硫黄の独特のにおいが鼻を突く。
そこは広々とした、見事な露天風呂になっていた。

もう夕暮れも終わり、少し寒気を感じて、篝湯もそこそこに湯船に踏み入る。
くすんだ色の湯のぬくもりが体を包んだ。
思わず息が漏れる。
外気と熱い湯の対比が心地よい。

――風呂は命の洗濯、か。

確かにそうなのかもしれない。
ミサトさんの言葉。
一人でいても安らげる数少ない空間。
ぬくもりの中。

こうしていると、いろいろな記憶がよみがえってくる。
そうはいっても、ここに来る以前のことじゃない。その後からのこと。
ミサトさんに助けられて。
エヴァで戦って。
それは僕が必死に生きてきた記憶。
何も無かった僕が、何かを手に入れようと足掻いてきた証明だった。

ずっと一緒にいさせてくれた綾波さん。
僕を引き取ってくれたミサトさん。

あのころの恐怖が、記憶とともに首をもたげる。

――でも、今はもう、大丈夫。

肩を抱き、湯船に沈みながらも、そう言い聞かせる。

――今はもう、一人じゃないから。

ネルフの人、学校の友達、そして同じチルドレンの仲間。
僕を知っている人たち、僕が知っている人たち。
大切な人たち。
大切な絆。
僕が僕である、証。

たとえここに誰もいなくても、もう僕は孤独じゃない。

――だからほら、大丈夫。

恐怖が心の奥深くに押しやられていく。
その代わりに安堵感と、火照った体の感覚が戻ってきた。

どうやら思っていた以上に長く浸かっていたらしい。
まだこうしていたい気もするけれど、また湯あたりするなどというのは笑えない。
熱湯に慣れた体には少し寒いが、意を決して立ち上がる。

洗い場に行こうと歩き出そうとしたそのとき、入り口の扉が開かれた。



私は普段より多少は上機嫌だったといえるだろう。
なんといっても使徒を単独で殲滅したのだ。
もっともすべて一人で、とは行かず、助けられたところもあったのだが。

溶岩の中、羽化した使徒との戦い。
不恰好な耐熱スーツと高温、高圧の悪条件の中、温度差を逆に利用した冷却材の膨張による攻撃でかろうじて撃退することに成功したのだ。

――それにしても、レイまであんなことやるとは思わなかったけど。

最後の瞬間。
使徒の死に際の突撃が、二号機を支えていた命綱を断ち切った。
灼熱の中から抜け出す手段を失い、諦観の中にいた私と弐号機を救ったのが、レイだった。
D型装備もつけず生身のまま零号機を潜行させて。

シンジとは比べるまでも無く、私と比較してもレイのシンクロ率は低い。
それでも、肌をマグマで焼かれる感覚はいかほどのものだったか。

『あなたがいなくなったら、碇さんは悲しむもの』

何故、とたずねたとき、返ってきた言葉。
レイにとって、シンジとはどのような存在なのか。
そもそも二人はどのような関係なのか。

思い返せば、普段無表情なレイが、シンジが関わっているときだけはありありとわかるほど感情を露にしていた。
怒り、悲しみ、あせり。
あの子にとってシンジが大切なものなのは確かだろう。
私だって、あんな子を戦わせたくはないし、守りたいとも思う。
だけど、何かが違う。
レイがシンジを守ろうとする理由は、私とは異なっていると感じていた。

――何考えてるんだろ。

今は楽しむべきひと時だ。
少なくとも使徒を倒したのはこの私なのだし、そう何度もあるとは思えない遠出の機会なのだ。
思い切り騒いで、食べて、飲んで、どっぷりたっぷり温まって、気持ちよく眠る。
心配事など、後回し。

気がつけば豪快に脱ぎ散らかして、もう入浴準備は万端といったところ。
この宿の温泉はなかなかすばらしいという話だ。
期待を胸に、露天風呂へとつながる扉を開く。

後回しにした、本当の心配事の相手が、そこにいたとも知らずに。



アスカと会うのは久々だった。
最後に会ったのは、ジオフロントの湖畔のベンチ。
彼女を傷つけて、僕が投げ出して。
もうずいぶんと長く会っていなかったのだと、思い知る。

彼女は僕の病室を訪ねてきてはくれなかった。
きっと嫌われてしまったのだと、そう思っていた。

だから、謝らなければならないと思っていた。
謝って、許してもらって、また、仲良く。

――だけど、何を謝ればいいのか?

僕はまだ、アスカが怒った理由をわかっていなかった。

「……あんた、きてたの」
「あ、うん」

とっさにかける言葉が見つからず悩んでいると、アスカから声がかけられた。
見ると、その表情は困惑気味。
きっと僕も同じような表情をしているのだろうけど。

それ以上続かない会話、長い沈黙。
入り口で立ち止まっている彼女を伺う。

いつも強気で、綺麗で、格好いい、そんな彼女。
けれど今の彼女は。
後ろでまとめた豊かな赤みがかった金髪も、きめ細かな白い肌も変わらないけれど。
その澄んだブルーの瞳から感じていた強い意志は無く。
不適に笑っていた顔は戸惑いの表情を浮かべている。

何故だろう、何かあったのか。
そんなことを考える。



そう、そんなことを考えていた。
あるいはそこでその考えに集中していればよかったのかもしれない。

だけど彼女を伺う僕の視線は、そこで止まらず。

そのまま、その下の見事な曲線美を描く彼女の肢体までもを観察していた。
体は引き締まっていながらも程よい丸みを帯び、形のよい乳房は年齢からすれば十分に平均以上で、細く、長い足が腰から伸びている。
そのすばらしいモデル体型が、そう、見事に、タオル一枚をはさむことも無く、目の前に晒されていたわけで。
逆に僕のほうはというと、発育のよくない、痩せすぎの、典型的な日本人体型を、タオル一枚をはさんでいるとはいえ晒していたわけで。

つまりその、疑問よりも恥ずかしさが勝ってしまったわけだ。

「……何赤くなってんの?」
「い、いや、その」

その場の空気からずれた反応を示した血流のおかげ、といっていいのだろうか、ようやく少しその場が緩む。

「ま、いいわ。私は入ってくるわ。ここにいても冷えちゃうし」
「あ、ちょ、ちょっとまって」

そういうと足早に僕の脇を通り抜けていくアスカに、思わず右手を伸ばし。
アスカを捕まえた、その瞬間。
重心の変化が、少しぬめった石畳の上にあった僕の足から摩擦力を奪い去った。
まあ単純にいうと、つるりと滑ったのだ。

「うあ!?」
「なに?」

奇声を上げた僕のほうをアスカが振り向いたが、遅かった。
アスカの動きの慣性そのままに、僕は露天風呂にダイビングしていた。
とっさに捕まった、アスカの体ごと。



体のそこかしこが痛い。
右腕に力が入らない。

アスカと縺れるようにお湯の中に落っこちた。
僕たちは、ちょうど彼女が僕に覆いかぶさるようになって湯船に沈んでいた。
水中で、逃れようともがき、しかし思ったように体が動かない。
体が起き上がらない。
水面に顔が届かない。
学校のプールでの出来事が、フラッシュバックする。

実際にはそんな状態だったのはほんの数秒だったのかもしれない。
だけど僕は、すでにパニックに陥っていた。

じたばたと不恰好に暴れ、手に触れるものにつかまり、もがく。

「馬鹿、ドジ、なにやって……ちょ、ちょっと、痛いってば」

ざぶりと水面を割ってからだが起き上がった。
必死にしがみついていたのはアスカの体だったらしい。
体勢を立て直した彼女ごと、浮き上がったのだ。

それで助かった、というよりそれほど深いわけでない湯船で本来ならおぼれるも何も無いのだろうけれど、でも一度混乱した精神はなかなか元に戻らなかった。

「溺れちゃう、溺れちゃう」
「あー、もう、なんなのよー!」

つぶやきながらしがみついてくる僕に耐えかねて、アスカが素っ頓狂な声をあげたのだけど。
そのとき僕はとにかく怖くて、がっちりとしがみついて離れなかった。
引き剥がそうとするアスカと、すがる僕。
そんなどたばたの中、更なる乱入者が現れた。

「あーら、あなたたち、裸でなーにやってるのかなー?」
「う?」

からかいまじりに響いた言葉の意味を反芻する。

ここはお風呂で。
僕は裸で。
アスカも裸で。
僕がアスカにしがみついてて。
その体勢はというと、傍から見ればアスカの胸に僕が顔をうずめている状態で。

押し付けた顔を少し離して声の主のほうを見る。
まさしく傍から見ていたのは、ミサトさん。

「シンちゃんって、やっぱりそっちの気があるわけ?」
「ち、ち、違います!」

そう叫んだのだけれど、現状を把握した僕は。
ただでさえ火照った顔が、それとわかるほど一気に熱を持ち。

「あれ?シンちゃん?」

恥ずかしさと興奮と熱気の中、視界が真っ白に染まっていった。



「知ってるかい?彼女ってのは彼方の女、と書くんだ」
「クェ」

敷居一枚はさんで、向こうの女湯がなにやらやけに騒がしい。

しかしなかなかすばらしい温泉だ。
広がる絶景に、うまい酒。
晩酌相手がペンギンというのは少々あれだが、戸板一枚で会話筒抜けの敷居もすばらしい。
もちろん、こんなものが無いのが一番よいのだが、こう微妙な距離感というのもなかなかのものだ。

――ん、この声は……ミサトか。

発育がよかろうと子供に興味は無かったのだが、ミサトがいるなら話は別だ。
何の話かって?決まっている、覗くのさ。

いやもちろん、女の裸などいくらでも見てきてる。
しかしいい女の風呂での姿をのぞく、などというのはまた格別だ。
冒険する価値のある、刺激的なものだ。
そうは思わないか?

と、ペンギンに何を聞いているんだろうな。
こればっかりは男にしかわからない……だから彼氏と書くのだろうか。

周辺を警戒しながら、忍び寄る。

――技術ってのは、使うためにあるんだからな。

職業上身に着けたスキルを発揮する機会と、目標の姿を思い浮かべ、柄にも無く興奮している自分がいる。
幅広の垣根の上を悠々と女湯に消えていくペンギンを少々うらやましく思いながらも、俺は突発的かつ個人的な作戦を開始したのだった。