Migraine


第八話:星の降る日


それは何の前触れも無く、唐突に発生した。

その時僕達は、ちょうどシンクロテストの最中だった。
しかも普段とは違う、少々、いや、かなり恥ずかしいもの。
インターフェイスを介さない、生身でのシンクロを行うものだった。

ここでいう生身とは、文字通りの生の体、つまりは何も身につけない状態のこと。
普段着ているプラグスーツはただのパイロットスーツではなく、パイロットの安全を守るための装置以外にもシンクロ率を高め、安定させるための仕掛けがされているらしい。
しかし理論上はプラグスーツなしでもシンクロは可能だそうで、その状態でのデータを取るのが目的だという。

そういえば、はじめてエヴァに乗ったとき、僕は私服のまま搭乗した、はずだ。
それでもエヴァは動いていたようだから確かに可能ではあるのだ。

だが、いくら実験だからといって全裸を強要されるのはいかがなものか。
さらにいえば、シャワーに殺菌にと計十数回――途中から数えるのも面倒になった――も洗浄を受けるというのはやりすぎというか、もう呆れるしかない体験だった。

隣で同じ処理を受けてきたアスカが言うには、「人権もプライバシーもあったもんじゃない」だそうだけど、こればかりは僕も全面的に同意したいところだ。

まあともかくも、裸でエントリープラグに乗り込んだ、なんとも羞恥心を刺激されるシンクロテストが始まってすぐのことだった。

ネルフ本部が、いや、第3新東京市全域が停電に見舞われたのは。



『第二次接続テスト、開始』

プラグ内のスピーカーが、そう告げた次の瞬間。
電圧が下降する雰囲気とともにディスプレイが、そしてすぐに他の灯りをともしていた機械も、ことごとくが停止した。
マシンの動作音すら停止した、静寂と暗闇が支配する。

「リツコさん、またトラブルですか?」

僕は前にも同じような状況になったことがある。
あれは初めてのシンクロテストのとき。
何が起きたのかは教えてもらえなかったが、同じように真っ暗になったことを覚えている。
今回もきっと同様のトラブルがあったのだろう。

――リツコさんが変なボタンを押しちゃったとか、ね。

冗談のようなことが想像される。
実際のところあの人はとてもとても優秀で、そんなミスを起こすようなそそっかしい人ではないと思うのだけど。
なのにそんな考えが出てしまうのは、そのあまりの優秀さと、仕事に没頭しているときの怪しい雰囲気からだれとも無く言い出した、「赤木リツコ博士はマッドサイエンティストである」というような噂話からだろうか。
狂った科学者に謎のボタン、ある種のロマンだ。
自分の想像に、思わずくすりと笑ってしまう。

でも、余裕があったのはそこまでだった。

まだ、周りが明るくならない。
ハッチも開かない。
返答も、無い。

「あの、リツコさん?」

もう一度呼びかける。
だけどやはり、スピーカーは静まり返ったまま。

――外と通じていない?

機械の電源が全部落ちているのなら、当然通信機も停止している。
そうだ、確か前のときは脱出口が開いて、”外の”スピーカーから声がしたのだ。
なら、ハッチの開いていない今回は、どうなるのか?

「連絡が取れない?」

エントリープラグは密閉空間だ。
それはシミュレーションプラグでも例外じゃない。
そして本物のエントリープラグとは決定的に異なること。
このプラグは、シンクロテストのためのただの実験設備に過ぎないということだ。
強固な生命維持装置も、緊急脱出装置も、備え付けられてはいなかった。
つまり。

――僕は、閉じ込められた?

そこに考えが至り、戦慄が走った。

最後の明かりが消えてから、周囲は文字通りの暗闇。
インテリアの影どころか、目の前に手をもってきても何もわからない。
一センチ先すら見えない真の暗黒が広がっていた。

そして、耳に届く音は、自分の心音、ただそれのみ。
あまりに静か過ぎ、頭が痛くなりそうな静寂。
外界から断絶された、無音の世界。

光と音を失ったそこは、まさしく無、そのものだった。

すべてが静止した闇の中。
動いているのは自分だけ。
いや、それすらも、LCLの中で、生まれたままの体ではあいまいになっていく。

全身が恐怖に支配される。
ただ一人、誰の存在も感じない空間。
こういう感覚に僕はとても脆い。
自覚はある。でも、どうにもならなかった。

ましてや、今の状況はどんな人間でもおかしくしてしまうような状態だ。
そんなところに取り残された僕に、恐怖に抗う手段などほとんど無かった。

――大丈夫、すぐに、助けが来る。

そう、信じるしかなかった。

――僕は、一人じゃない。

何とか自分言い聞かせる。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

祈るように声に出して、しかしその音もすぐに静寂が取って代わる。

――大丈夫、僕は、もう一人じゃない。

そう考えようとする僕を、状況が打ちのめす。
もう、自分がどのあたりで、どんな体勢でいるのかさえ、わからなくなっていく。

――でも、今は一人だ。

この空間にいるのは僕だけだ。

――誰もいない。

何も感じなくなっていく。

――何もわからない。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

まだ、繰り返し続けていた、呟き。

その意味すら、わからなく、なって。



碇さんが、目を覚まさない。

ただそれだけのことで、私の心は激しく揺さぶられた。

実験中に突如訪れた静寂。
その中にあっても私はたいした恐怖も感じなかった。
何の感覚も無い、時間すらわからない。それだけの世界。
けれど体がその感覚を知っているようだった。
慣れ親しんだ虚無。
LCLに浮かび、ただ存在するだけの時。
閉じ込められている間、私の心には平穏が広がっていた。

なのに。

助け出された碇さんは、縮こまり、小さく固まって、いつまでも震えたままで。
応急処置もそこそこに、結局救護班がそのまま運び出した。

――なぜあなたはそうなってしまうの?

そんな疑問に、答えは見出せない。
ただ、着替えるのももどかしく運ばれていった彼女を追う。
一部の非常灯のみの暗がり。
電源はまだ復旧していない。
自家発電で何とか最低限の機能を維持している病院の一室。
そのベッドの中で、彼女はいまだ小さく丸まった体勢を崩していなかった。

いつもそうだ。
この人はひどく脆い。
ちょっとしたことで我を失い、ぼろぼろになる。
ただ一人でいること、孤独になることがそれほど怖いものなのか。
自分にはわからない。

そういえば、弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーも、助け出された時には多少の錯乱状態にあったように思う。
あのような人柄であっても狂わせる空間。
そこにいて平穏を感じる、きっと自分こそが異端なのだろう。

――私とあの人は、同じじゃないから。

私は普通でないことは明らかなのに。
そんな私を大切に思ってくれている人。
必要だといってくれる人。
だから、私の大切な人。

あの人がいなくなる、そんなことを想像するだけで私の心は苦しくなる。
数少ない、本当に数少ない、私の無くしたくないもの。
希薄な私自身よりも大切な人。

そして気づいた。
失う悲しみを、何も無い寂しさを、私も知っていることに。

そう、気づいたのだ。
静かなあの闇の中、私が感じていたもの。
あれは平穏などではなかった。
恐怖を感じなかったわけでもなかった。
ただ、ある感覚が支配していただけだったのだ。

そう、あれは、諦観だったと。



深い、とても深い闇の中。
そこに一人、誰かが小さく、膝を抱えて座っていた。

「きみはだれ?」
「あなたはだれ?」

僕は誰だろう。

わからない。

「きみはなにをしているの?」
「あなたはなにをしているの?」

ここで何をしていたのだろう。

わからない。

「きみは、ここがこわくないの?」
「あなたは、そとがこわくないの?」

ここと外と、どちらが怖いのだろうか。

わからない。

僕は誰なのか。
何をしていたのか。
何が怖いのか。

僕は、どうしたいのか。

――僕は、皆を守りたかった。

「どうしてまもりたいの?」

――守らないと、消えちゃうもの。

「きえてはいけないの?」

――いなくなったら、寂しいじゃないか。

「いなくなるのがいやならしらなければいいのに」

――だって、一人は嫌だよ。

「どうせ、わたしなんかだれもみてくれない」

――僕は君を見てるよ。

「それじゃ、わたしもまもってくれるの?」

――うん、僕が守ってみせるから。

「ありがとう」

――ありがとう。

世界に光が広がっていく。
白く埋め尽くされていく。

感覚が、意識が、浮上する。
どこかから遠く響くサイレン。
闇の世界から、現実へと戻った僕がはじめに認識したこと。

それは、使徒の襲来を知らせる警報の音だった。



まずい。
いままでも危ういことが多かったが、今回は特別にやばい。

「リツコ、電源の復旧は?」
「ようやく本部の重要施設のみ、ってところね。兵装ビルは動かせないわ」
「まあ、あれ相手に動いてどうこうなるもんでもないけど」

第3新東京市ごとネルフの電源ラインが停止していた。
主、副、予備の3系統を備えたシステムのすべてが同時に使えなくなるなど、普通に考えればありえない話だ。
つまり、ブレーカーは落ちたのではなく、落とされたと考えるべきだろう。

「まったく、こんな時にどこのどいつよ、こんなこと企んだのは」
「心当たりが多すぎるわね」

ネルフはその性質上、敵が多い。
政治的、軍事的な敵対勢力。
それらとの戦いは、ある意味で使徒との戦いよりはるかに厄介だった。
スパイ行為に妨害工作、更には今回のような破壊工作まで。

「目的は復旧ルートから本部の構造を推測することかしらね」
「しかも急いで復旧しないといけない事情にあるなんて、狙ってやったのかしら?」
「まさか。MAGIにダミープログラムを走らせてるから、解析は困難になっているはずだけど」

平時に技術情報がリークされるくらいならまだいい。
だが今回のように、大規模な障害と同時に使徒が攻めてきたときのことを、彼らは考えているのか。
あれに対抗できるのは、結局のところネルフだけだというのに。

事実今も復旧が終わらず、使徒の迎撃体制を整える初動が大幅に遅れてしまった。
通信網が回復した時点で既にあれは現れていた。
さらに、錯綜する非常通信で復旧したばかりの回線が危うくパンク寸前になっていたのだ。

主モニターに分割表示された敵勢力の情報と損害に目をやる。
衛星軌道上に現れた、巨大な”目”。
瞳のような模様が描かれた胴体に、張り出した枝のような部分。全体では数百メートルにも達しようかという、巨大な使徒だ。

その枝葉が、ぬるりと滑り落ちる。
まるで、涙の滴が落ちるごとく。
落下する先は、当然地球上だ。
これが、3回目。
その一撃は、大地に巨大なクレーターを穿つ。

でたらめに落としているわけではない。
はじめは太平洋に外れた。
次も太平洋に落ちた。
だが前の二回のデータから、確実にここ、第3新東京市に近づいていた。

「方々から情報を掻き集めていますが、現在は使徒の位置をロストしています」

この使徒は強力なジャミング能力も持っているらしい。
だが、姿を隠したということは。

「くるわね、多分」
「次はここに、本体ごとね」

私の考えに同調して、リツコが言葉を継ぐ。
破片だけでもあの威力だ。使徒自体が落下してきた威力は、恐るべきものだろう。

「その時は、第三芦ノ湖の誕生かしら?」
「富士五湖が一つになって、太平洋と繋がるわ。本部ごとね」

笑えない冗談に、更に笑えない突っ込みが返ってきた。

「MAGIの判断は?」
「全会一致で、撤退を推奨しています」

落着すればすべてが吹き飛ぶ。
しかし、落下前に迎撃することは不可能だった。
先だって行われたN2航空爆雷による攻撃は、すでに不発に終わっている。
それはエヴァ以外の手段での目標の殲滅が不可能であるということだ。
そして、エヴァによる高高度迎撃を行うには、時間も設備も足りなかった。
おそらく、MAGIの判断は正しい。
現在とりうる対抗手段は極めて少なく、有効性すら疑問だった。
だが、それでもわれわれは足掻かねばならなかった。

「司令、ひとつだけ実行可能な作戦がありますが」

節約のためいまだ非常灯で包まれた司令部の最上階に伺いを立てる。

「……かまわん、やりたまえ。どの道ここを失えば以後の使徒に対抗することはできん」
「了解しました」

エヴァとMAGIだけで戦っているわけではない。
それらを運用するための設備そのものであるこの第3新東京市があってこそ、我々は戦ってこれたのだ。
それを放棄する選択は私たちには取れなかった。

「日本政府各省に通達、ネルフ権限における、特別宣言D−17、半径50キロ以内の全市民は、直ちに避難、松代には、MAGIのバックアップを頼んで」
「ここを放棄するんですか?」

日向君の疑問に、自嘲を交えつつ答える。
我ながらひどい作戦だ。下手な博打より酷い。

「いいえ、ただ皆で危ない橋を渡ることは無いわ」



作戦会議が終わった後、化粧室でリツコにつかまった。

「やるの?本気で?」
「ええ、そうよ」

私が提案し、了承された作戦。
実行はもう決定済みだ。
それでもこの話題を切り出してきたのは、友人としての忠告だろうか?

「あなたの勝手な判断でエヴァを3体とも捨てる気?」
「勝算は0.00001%、万に一つも無いのよ?」

MAGIに計算させた成功確率。
宝くじでもここまで酷くは無いのではなかろうかという数字だ。

「ゼロではないわ。エヴァに賭けるだけよ」

この試算は、つまりはエヴァの能力が未知数であることのみを頼った成功なのだ。
数字など問題じゃない、伸るか反るか、それだけだ。

「葛城三佐!」
「既に了承済みの作戦よ」

彼女の咎めるような叫びを封じるための一言。

「……やることはやっときたいの」

何もやらずに逃げるなどできない。

「使徒殲滅は、私の仕事です」

そうだ、私があれを倒すことを任されているのだ。
なんとしてでも、すべての使徒を倒す。
それが私の。成すべきこと。
だが。

「仕事?笑わせるわね」
「自分のためでしょ、あなたの使徒への復讐は」

リツコの言葉は痛烈だった。
どう割り切ろうとも、入り込んでくる感情。

復讐。

私の過去を知っている彼女には、それが透けて見えるらしい。

――それだけじゃない!

そう叫ぼうとして、既にそれを肯定している自分に気がついて。
結局、何も言い返すことはできなかった。

私の端末に連絡が入る。

「……シンジちゃんが目覚めたわ。作戦準備、急いで」