Migraine


――ここは、どこや。

見慣れない天井を、見上げていた。
体がいうことをきかない。
頭が朦朧としている。
何があったのだろうか。
記憶も混乱していて、はっきりとしない。

ただ、どうやら自分はまだ、生きているようだった。
わかるのはその程度。

隣に、誰かが寝かされているようだったが。
すぐに意識は、闇に引き戻されていった。



次に目を覚ました時、最初に見えたのは天井ではなかった。
うっすらと開けた瞳に映ったのは、涙で目を赤く腫らした少女。

「いいんちょ、か……?」
「鈴原!」

自分はどの位意識を失っていたのだろうか。
動こうとして、いたる所から痛みが走った。

「無理しないで。体中怪我してるんだから……」

そうだ。

何があったのか、一気に思い出す。
あの時、エヴァが起動しようとしたその時、何かに自分は、エヴァもろとも乗っ取られたのだ。
自分が自分でなくなるような、体中を蝕まれていく、おぞましい感触。
かろうじて意識はあったが、何も出来なかった。

「い、碇さん、いや、惣流や綾波は?」
「……アスカも綾波さんも大丈夫。元気にしてるわ」

弐号機と零号機を戦闘不能にしたのを覚えている。
そして、初号機を、締め上げた。

「……碇さんは、どうやねん?」

委員長は、すぐに答えてくれなかった。

「……ねえ、何があったの?何でこんなことになったの?」
「いいんちょ……」

少しおさまっていた彼女の涙が、また溢れ出した。

「お父さんは松代で事故があったって。たくさん怪我人が出たんだって、それだけしか教えてくれない」
「でも、何で鈴原がこんなことになっているの?」
「なんで、教えて、くれなかったの?」

そういって、自分の体に突っ伏すようにして泣き声を上げてしまった。
つまり、もう知っているのだろう。
教えたのは、惣流か、いや、ケンスケだろうか。
このことを知るまで、自分のために弁当を作ってくれていたのだろうか。

――あの時連絡をしていれば。

いや、結果は一緒か。
せいぜい無駄になった食材が減るくらいだ。

「すまんかったなあ」

そういって、右手を動かす。
そこいら中が痛いが、構わず彼女の肩に添える。
そこから伝わる震えが、徐々に小さくなっていく。

「本当に、何があったの?」

ようやく落ち着いたのか、また、彼女がしゃべり始めた。

「……碇さんは、どうなっているのかわからないの」
「どういう、ことや?」
「病室は、ずっと面会謝絶のまま。アスカも入らせてもらえないって」

ああ、やはりそうなのか。
あの感触は、幻ではなかったのか。
初号機の首を絞め、喉をつぶしていく、あの感触は、本当に起こってしまっていたのか。

碇さんが、そうならないために選ばれたはずの自分が。
肝心な時に、何も出来ないどころか、傷付けたのは、自分だった。
自らの意思でなかったとしても、それは確かに、自分がやったことだった。

「碇さんを、怪我させたんは、多分、わいや」
「な、なにを、いって……」
「まだのこっとんねん。覚えとんねん。首絞める感覚が、手に力こめる感覚が、消えへんねん」

もしかしたら、一生忘れることなど出来ないかもしれない。

「わいは、わいは碇さんを、殺してまうところやったんや」

だからあの時、自分の首を同じく締め上げられた時、腕から力が抜けた時、恐怖と同時に奇妙な安堵感を感じた。
これできっと彼女を殺さずに済んだのだと。
その後はもう、訳がわからないほどの痛みですべて吹き飛んでしまったけれど。

「碇さん、まだ、生きとる、よな?」
「……こんな時に、他人の心配なんか、しなくて良いのに」

一瞬振られた彼女の視線の先を追う。
ただの確認にすぎなかったが。

「本当に、優しすぎるよ、鈴原は……」

そう言ってまた泣き出した彼女の肩から、手を離すことは出来なかった。

無くなったはずの左足が、疼いた。



夢をみていた。

まるで現実感の無い世界。

誰もいない砂浜。

一人ぼっちで座っている。

その子はずっと俯いたまま。

ずっとずっとそのままで、まるで静止画のような世界。

ただそれだけの夢。

永遠にそれだけの夢。

もっと小さく、膝を抱えて。

気がついた。

見上げたのは、知らない天井。


第拾壱話:使徒、襲来(again)

混乱



妙な夢を見た、気がする。

限りなく平坦で、絶望的な、それは悪夢だったと思う。
永遠に終わらない、終わりの無い夢。
そんなものを、ずっと見ていた気がする。
それでも、悪夢であっても、現実よりは良いかもしれないけれど。

天井を見上げたまま、そんなことを考える。
自分は何故、ここにいるのだろうか。

――痛っ!

首を曲げようとしたら、軽く痛みが走る。
どうやら何かで固定されているようだったけれど、ほんの少しの余裕分動いたためだろうか。
ここはどうやら病院で、ベッドに寝かされているようだった。

――なにが、あったのだっけ?

思い出せない。
記憶が、粘ついている、そんな感じだ。
何かが起きて、自分は大怪我をして、そしてどうやら助かったようだ。
わかるのはそのくらい。

動かせないのは首だけではない。
右腕も固定されているようだったし、足の調子もおかしい。
何か大きな物が足のあたりに置かれているようで、それも鬱陶しい。
殆ど動けないので、自分がどんな状態なのかは見られないけれど。

その時、横からノブを回す音が聞こえて、誰かが入ってくる気配。
病院のお医者さんだろうか。
白衣を着た女性が、私を覗き込んだ。

「気がついたのね、シンジさん。よかったわ」
「わ、たし、は……」
「無理しないで、喉も相当痛めてるわ」

確かに息が抜けるようでうまくしゃべれなかった。

「連絡はしておいたから、ミサトもすぐくるわ。他の子達とはもう少し回復してからになると思うけれど」

ミサト?他の子達?
誰のことだろう。わからない。

「あ、の……」
「どうしたの?」

わからないけれど、この人は優しそうに思えたから。

「あなたは、どなた、ですか?」

名前くらいは、知っておこうと思った。



「意識が回復したのは聞いたけど、なんでまだ会えないわけ?」
「少々、いえ、問題が出てきて、ね」

あの爆発による負傷が今だ癒えないミサトが、すぐに詰め寄ってきた。
ちょうどいい。こちらから出向く予定だったのだから。

彼女の言葉を聞いたとき受けた衝撃は、相当のものだった。
それが余りにも何気無い様子であったから、更に堪えた。
その最中でも冷静に、あるいは機械的に状況を整理していた私の脳が出したいくつかの推論。
その場は自己紹介をして退室し、心理分析を行わせた。
その結果。

「シンジさんはここ、つまり第三新東京市にくる前の記憶を取り戻したわ」
「そして、ここにきた後の記憶をすべて失っている」

彼女の中の日付は、あの第三使徒が襲来した日で止まっていた。
全身の怪我も、あの時巻き込まれた爆発のためだと思っているようだった。
それ以後の記憶はまったくなし。
綺麗さっぱり忘れ去っている様子で、せいぜいミサトの顔に覚えがある程度、それも写真でみた女性、という認識だけだった。

記憶が戻ったとはいえ、今の状況が彼女にとって喜ばしいとはいえない。
そもそも戻った記憶すら、彼女にとって幸せなものではないのだろうから。
そして失われた記憶は、彼女だけで無く我々にも重大な問題を引き起こすだろう。

とどのつまり、すべてをはじめからやり直すことになるのだから。

「じゃあなに、シンちゃんはもう私たちの知ってる彼女じゃないってこと?」
「そうよ。もっとも、今の彼女こそ本来の碇シンジだったはずだけれど」

その事実は我々には何の慰めにもならない。
本質的には、我々が必要としているのはただの中学生である碇シンジではない。
エヴァンゲリオン初号機で戦えるサードチルドレン、経験と実績を持つ碇シンジだ。
その意味で、我々は貴重な戦力を、これまでの時間を失ったも同然なのだ。

「じゃあどうすんの?全部やり直し?」
「わからないわ。これまでのデータが役に立つのかさえね。回復にはまだ時間がかかるから、その後の話でしょうけど」

ダミーシステムを使用したというが、彼女のシンクロは行われたままだった。
戦闘の最後までエヴァからのフィードバックは発生していた。
使徒の殲滅はできたが、パイロットの状態を無視した戦闘は一時彼女を命すら危うい状況に陥らせていた。
しばらくは入院生活が続くだろう。

「……まずは、また乗ってくれるかどうかから、か」

その言葉に私もゆっくりと同意する。

ふと、考える。
怪我で朦朧とし、記憶も失っていたであろう状態で、何故、彼女はエヴァに乗ってくれたのか、と。
今でも覚えている。
彼女は、皆を守ると、そう叫んでいた。

――ん……、順番が、おかしいわ。

そうだ、その時彼女はまだ何も知らないはずだ。
記憶を失った彼女が、新たな絆を求め、それを守るためにエヴァに乗っている。
それが自然な解釈だと思っていたし、実際その後の彼女の行動はそれに沿っている。
けれど、はじめのあの叫びだけは、それでは意味が通じない。
”みんな”という言葉がただ人々を指した抽象的なものだと考えても、何かが引っかかった。

あの深層心理の意味も結局分かっていない。
彼女の過去を調べなおしても、あそこまで囚われるような事象は発見できていないのだ。

――本当に、彼女は記憶喪失になっただけだったのか?

いまさら、”前の”碇シンジに対する疑念が強まっていた。
それは既に巻き戻され、失われたというのに。



あれから。意識を取り戻してから、三日。
まだ、私は病院の人以外に会っていない。
少しの間覚醒したかと思うと、ふっと意識がなくなる。
そんなことを繰り返しながら、思い出していった。
こうなる前のことを。

そう、私は父さんに呼ばれて、第三新東京市に来たのだ。
恐ろしく無愛想、というより、殴り書きのような一言。

『来い』

はじめてその手紙を見たとき、私は思わずそれをびりびりに破り去った。
私を先生のところに預けたまま、どこで、何をしているのか、それすら知らされず、ただひたすら無視され、放置されたまま育ってきた。
それをいまさら、こんな手紙ひとつで私を呼び出す父さんの神経を疑った。

見なかったことにして、思いっきり無視してやろうかと思った。
でも、結局できなかった。
無視すれば父さんは悔しがるだろうか、怒るだろうか、悲しむだろうか。
そう考えたとき、怖くなった。

――もし、何事もなかったかのように平然としていられたら。

そんなことはないと言い切ることなどできなかった。
その恐怖が、私に父さんに合う選択をさせた。
捨てられたのだとわかっていても、捨てられたとは思いたくない。
結局、私は父さんを慕っているのだろうか。
わからない。

だから会いに来た。
父さんを知るために。
父さんに知ってもらうために。
それだけだった、はずなのに。

こうなる前の最後の記憶。
あれは夢か、幻だったのだろうか。
怪獣映画にでも出てきそうな人型の化け物と、それを攻撃している飛行機。
たとえ化け物が幻だったとしても、そこに戦闘を行っていた飛行機がいたのは確かだった。
それが証拠に、私は入院している。
撃ち落とされた一機がこちらに墜落してきて。
そのあとのことは覚えていない。
爆発に巻き込まれて、吹き飛ばされて、訳がわからなくて、何かにぶつかって。
そして、こうしている。

ああ、また、もやがかかり始めた。
少しずつ、長くおきていられるようになったけれど、これは、この感覚は、どうやら深い眠りの前兆のようだった。

――おもいだすのも、つかれる、な。

そんなことを考えたのを最後に、意識を闇に任せた。



あれからもう何日たっただろうか。
相変わらずやってくるのはお医者さんと、赤木さんくらいだ。
なんでも彼女は父さんのところで働いているとかで、それで私の面倒を見ているんだそうだ。
肝心の父さんは、一度もお見舞いに来た様子もなかった。
少しも気にしていないなどというと嘘になる。
だけど今は、どちらかというと来てほしくないかもしれない。

ようやく体が動かせるようになってきて、それで気がついた。
はじめは何かの間違いだと思った。
でも、間違いじゃなかった。
ベッドの中で邪魔だった足元のもの。
わかればなんてことはない。
それは私自身の左足だった。
何の感覚もしない、動くこともないそれを右足で蹴り飛ばしていただけなのだ。

――なにか、あっけないな。

何とはなしにそう感じた。
私は、何かをあきらめてしまっていたのかもしれない。
ただもう大分前から、私は夢や希望なんて物をもたなくなっていた。
なんとはなく生きていて、なんとはなく死ぬのだろうと。
誰かに気にされることも無く、日常に埋れて消えていく、そんなものだろうと思っていた。
今回は生きていたけれど。

でも、こんな状態で父さんと会いたくは無かった。
こんな姿の私を見た父さんの反応が怖かった。
歩けそうに無いことよりも、ずっと怖かった。

だから少し寂しくて、でも安堵していて。
もとよりここに知り合いなんていない。
父さんもやってこない。
誰とも関わることも無く、ただ時間がすぎていく。
それは今までの私の人生とそう変わらないものだった。
変わっていないはずだった。

実際のところ、その考えは的外れもいいところだったのだけれど。

「シンジさん、良いかしら?」

赤木さんが、やってきた。
彼女の声は、少し冷たいように感じた。



いつまでも話さない訳にはいかないから。

そう言われて語られたことに、私は動揺を隠せなかった。
内容は、今の私の状態。

まず、私がここ最近の記憶を失っている、つまり記憶喪失であるという。

「冗談でしょう?」

そうきいた時に返って来た今日の日付は、私の想像より半年以上先だった。
それでも信じられない。
その間ずっと意識が無かったのだと、そういわれたほうがまだ自然に思えた。

そのまま続けられた今の怪我の状態。
小難しく嫌な感じの言葉が並べられたけれど、要するに左足が麻痺していて、右肩は壊れていて、喉を潰されているということだ。
その中で回復する見込みがあるのは喉の怪我だけらしい。

最後に、鏡を見せられた。
そこに映ったのは自分の記憶と大して変わらぬショートカットの姿。
だけど、明らかに異なる、瞳の色。
何故だか右の瞳のみが赤く変わっていた。

「どうなっているんですか、これ?」
「予想外のアクシデントでね、そんな風に変化してしまったの」

そりゃ、何もなければこんなことにはならないだろう。
だけど、表情を崩すことなく話し続けた彼女は、もうこれ以上話すつもりはないらしい。

「まだまだいろいろとあるけれど、今日はここまでにしましょう」
「……はい」

こちらとしても知りたいこと、疑問はたくさん出来たけれど、今ここでこれ以上話されたら頭がパンクしてしまいそうだった。

何故私は記憶を失ったのだろうか。
どうしてこんな怪我をしたのだろうか。
今までどんなところで生活していたのだろうか。
父さんとは、どうなったのだろうか。

一度にたくさんのことが頭の中をぐるぐると回っていた。

赤木さんの出て行った扉が閉まる。
その音に、一瞬からだが固まる。
湧き上がった疑問の渦の中、その奥深くに横たわるもの。
漠然としたその感情は、恐怖と呼ばれるものだった。

そう、私は、知らない自分に、確かに、恐怖していた。