Migraine



マヤからの報告は、私を慌てさせるに十分だった。

「先輩、大変です、シンクロ率が!」

数値が、目測できないほどの速度で上昇していく。

「まずいわ!全防壁起動、神経接続カットも試して。早く!」
「はい……だめです、拒否されました!」
「くっ、甘かったというの……?」

彼女のシンクロ率が通常の特性を示したために解除したプロテクト。
それが仇になった。
突如以前と同じ異常なシンクロ率が記録され、際限なくあがり続けていく。
元々一度起動してしまうとこちらからの制御を受け付けなかった。
それは、今も同じ。
我々にはそれを防ぐ手立ては残されていなかった。

――シンクロ率、400%。

もう遅い。
モニタに表示される値がオーバーフローし、測定限界を超えたことを示す。

獣の咆哮。
大地を揺さぶり、心を凍てつかせる、おぞましき叫び。
本能を刺激する恐怖。
絶望的なまでのそれを感じた時、この戦いは終わったと悟った。


第拾弐話:心のかたち、人のかたち

戦いの果て



――ここはどこ?

不思議な光景だった。
何か水の中を漂っているような、ふわふわと浮かんでいるような。
私はどうなったのだろうか。
自分を見ようとして、けれどどこにいるのかわからない。
自分の境界がわからない。

ただ取り留めのない光景が見える。
先生のところ。
前の学校。
母さんのお墓。
父さん。

何故父さんは私を呼んだのだろうか。
私にしかできないから?
だから私の気持ちなんてどうでもいいのか。
父さんにとって、私なんてどうでもいいのだろうか。

三年前、お墓であったとき、あのひとはなにも言わなかった。
私は何もいえなくて、結局逃げ出した。

母さんのお墓の傍らで。
ハンカチをひく父さんと、そこに座る私。
あの時あの人はやさしかった。

――違う。

これはなんだ。
あの人はこんなことしてくれない。
私のことなんか放り出して、何も言ってくれない。

だから敵を倒して、かけてくれた労いの言葉。
私の聞きたかった言葉。
それを聞く私。
赤い右目の私。

――これは誰?

いつも俯いている私。
息を潜めている私。
視線を合わせない私。
人を遠ざけている私。

微笑んでいる私。
叫んでいる私。
見つめあう私。
みんなと一緒にいる私。

――私は誰?

私は碇シンジ。
碇ゲンドウの娘。
碇ユイの娘。
碇レイ。

もうそんな人はいない。
父さんがそういったから。
碇レイはいなくなった。

だから綾波レイが生まれた。
私の知らない私。
私の名前を奪った人。
父さんを奪った人。

私と同じ目をした人。
私が守った人。
私を守ってくれた人。
とても大切な人。

――あなたは誰?

僕は碇シンジ。
それだけの存在。
すべてなくした存在。
すべて守ろうとした存在。

――他人と関っても、いいことなんてないのに。

でも、誰かがいないととても寂しい。
誰もいないと、自分がわからない。
誰もいないと、生きていけない。
誰もいないと、壊れてしまう。

――でも誰も私を見てくれない。誰も私を褒めてくれない。

誰かが君を見てくれるかもしれない。
誰かが君を褒めてくれるかもしれない。
誰かがいれば。
誰もいなければ、望みすらない。

――そんなのは詭弁よ。そんなこと、ありえない。

でも君は見ただろう。

誰も、いない世界を。



「まったく、大変なことになったわね」

既にすべては終わっていた。
ジオフロント内に動いているものはいない。
使徒も、エヴァも、すべてが止まり、終焉を迎えていた。

残されたのは三体のエヴァと、使徒だったもの。

零号機は頭部を破壊され大破、活動停止。
弐号機は右腕損傷、電源切れにより同じく活動停止。
どちらもダメージは大きいが問題はこれらではなかった。

元の形状がわからないほどの状態の使徒の亡骸と、その傍らで停止している初号機。
装甲板はあちこちで弾け飛び、中の素体が覗いていた。

――あれは装甲板ではないの。拘束具よ。

唖然と見つめていた中でリツコが漏らした言葉。
強固な装甲は、エヴァの制御不可能な未知の力、それを押さえ込むための鎖として作られたものだった。
しかしそれすらも初号機は自らの力で引きちぎって見せたのだ。

散らばりミンチと化した肉の破片をみて、先ほどの戦闘の映像がよみがえる。


初号機の力は圧倒的だった。
この世のものと思えない雄叫びをあげたそれが腕をかざす。
すると、切れないものは無いのではないかというほどの猛威を振るっていた使徒の腕は逆に細切れにされたのだ。
更に、引きちぎったそれを材料に失われた左腕を再生した。それも瞬時に、だ。

――こんなことって……!

モニタに表示されていた初号機のデータは、そのすべてが解析不能を表している。
今まででも制御下にあったとは言いがたいが、しかしこれは明らかに常軌を逸していた。

「やはり目覚めたの?彼女が……」

――彼女?

私にはリツコの言葉の意味はわからない。
エヴァの詳細について、私は戦力以上のことを殆ど聞かされていないからだ。
もっとも、リツコだってどれだけ把握できているものかわからないが。

もう一度右腕がかざされ、今度は一気に振り下ろされた。
何か武器を持っているわけでもない、素手の状態だが、何かがそこに宿っているのを感じた。
その感覚が間違っていなかったことを状況が教えてくれた。
使徒のATフィールドが強烈な干渉光を発して何かを防ごうとし……引き裂かれた。
アスカとレイが二人がかりでも突破できなかった、鉄壁と思われたそれは、ただの紙切れと代わらぬ程度の用しか成さず、守るべき奥の肉体ごと真っ二つにされたのだ。
その太刀筋は、振り下ろされた初号機の腕の動きと同じだった。

それだけで決着はついてしまった。
コアごと斬られた使徒は瀕死の状態で、もう抵抗する力も残されていなかった。
今までのどの使徒よりも強大な戦闘力を誇っていたものが、いくら状態が悪くてもアスカとレイが防戦一方だった相手が。
ただの一撃、まさしく赤子の手をひねるようにねじ伏せられたのだ。

そこからはもう悪夢だった。
初号機が自ら倒した獲物に、喰らいついたのだ。
使徒の肉に噛み付き、引き千切り、咀嚼し、飲み込む。

「使徒を、食ってる!?」
「まさか、S2機関を自ら取り込もうというの!?」

使徒の体内にある半永久機関。
エヴァと使徒とを隔てていた最大の違い。
扱いを間違えれば次元空間の壁をも破壊するほどのエネルギーの発生機関。

それを持たざる初号機が、それを備えし使徒を捕食し、自らのものとしていく。
存在し得なかったそれが、エヴァの体に馴染んでゆく。

ひたすら貪り続けていた初号機が、立ち上がり、雄叫びと共に拘束具を吹き飛ばした。
新たな力を確認するように、歓喜の声をあげ、自らを縛っていたものを引き千切っていく。

その声の終わりが、すべての終わりでもあった。
満足したかのように姿勢を戻すと、それきり初号機は動かなくなった。

その後調査班が恐る恐る近づき、地獄絵図のごとき状況の安全を確認して、ようやく私たちも間近で見る許可が下り、それでこうしているのだ。
虚空を見つめ動かない初号機を見上げる。
現在、内部にはなんのエネルギー反応もなく、S2機関は完全に停止しているという。
だがそれが仮初の姿であることは誰もがわかっていた。
これは既に何度も動いているのだから。

ふと、以前の自分の想像を思い出す。
世界をも席巻できるほどの力、S2機関を搭載したエヴァを私はそう評した。
だがその力が制御できないとしたら。

――もしかしたら、これは世界を滅ぼす悪魔なのかもしれない。

それほどのものですら、必要ならば道具として使うのが人間なのだろうけれど。



気がつくと、私は白い砂浜に立っていた。
打ち寄せる波、その海は赤く染まっていて。
空はただただ黒く、まるで宇宙をそのまま見ているみたいで。
真っ白に輝く満月と、何かをぶちまけたような赤い円環がそれを切り取っていた。

そこは夢の続き。
長い間見続けていた、何も変わらない、平坦な悪夢だった。

――そうだ、あの子は?

夢の中で、膝を抱えていた人。
いつもの場所に目を向けると、果たしてそこには誰かが膝を抱えて座っていた。
けれど、いつもと違って、その子はその手を解いて、立ち上がり、私のほうを向いた。

「……ごめん」

そういったのは、私。
いや、私の形をした、知らない人。
私と同じ顔をして、私と同じに小柄で、私と同じに控えめな体型の、けれど私の知らない人。

「あなたは、誰なの?」
「碇シンジさ」

もうひとつ、別の声がした。
驚いてそちらをみると、そこにもう一人、知らない人が立っていた。

私とよく似た顔、華奢な体の、けれどその人は、男の子。

「彼女は碇シンジ、君の別の可能性」
「そして僕も、碇シンジ」

――つまり彼女は私で、あなたも私なの?

けれど男の子は首を振って。

「それは少し違う。僕たちは同じだけれど、違う存在なんだよ」
「……君は何を知っているの?」

質問したのは、もう一人の私。

「僕は全部知ってる。君は何も知らない。それだけのことだよ」
「答えになってないよ」
「そう邪険にしなくていいじゃないか。僕は君なんだから」

その声に若干の余裕のようなものを感じる。
私たちは同じだという。
けれど、知っているものと知らないもの、その間には大きな溝があるようだった。

「その子はね、ずっと閉じこもっていたのさ、君の中で」
「自分が壊した世界に耐えられなくて、また世界を壊すのが怖くて、君の中で震えていたんだ」

彼の言葉は形になり、イメージがそのまま伝わってくる。
他者との境界が限りなく薄い世界。
なのに自分との境界がある世界。
伝わったイメージはこの砂浜。
この夢と同じ光景。
もう一人の私は震えていて、唐突に私は理解した。

これは私の悪夢じゃなかったと。
あの子のいた現実なのだと。

「そう、僕は現実から逃げたかった」
「そして君も、現実から逃げた」

町を壊す化け物。
叩き落される飛行機。
会いに行く父さん。
吹き飛ばされる自分。

私は、現実を否定した。

「だから彼女も、現実から逃げ出した」
「それだけじゃない!」

抗議の声。必死に叫んでいる私。

「僕はもう、誰も失いたくなかった」
「みんなを守りたかった」
「君を、守りたかった」
「自分を犠牲にして?」

その声とともに、彼女の右目が赤く染まった。

「誰も守れないよりは、そのほうがいい」

彼女の左の手首がひしゃげる。

「君の体じゃないのに?」

肉が細り、骨が浮き出る。

「でも今は僕だもの」

右腕がだらりと下がり、左足が闇に消える。

「また逃げ出したくせに」

喉がつぶれ、締め上げられていく。

「それでも、約束したから」

左腕が、ちぎれ落ちた。

「君は、僕が守るって」

それでも彼女は、私を見て、微笑んでいた。



「プラグを排出できないって、どういうことよ?」
「……こういうことよ」

回収された初号機がプラグの排出を拒否している。
今までに無い事態の説明を求めると示されたプラグ内の映像。

「……なによ、これ!?」

それは衝撃的だった。
本来彼女が座っているべき場所には、乗せられたときの病院の服と、ヘッドセットのみが浮かんでいた。
モニタに映っているのはそれだけ。
脱ぎ捨てて、どこかに隠れているわけではない。

彼女は、存在していなかった。

「これがシンクロ率400%の正体よ。彼女はエヴァに取り込まれてしまったの」
「なによそれ。エヴァってなんなのよ!?」
「人の作り出した人に近い形をした物体としか、言いようが無いわ」

――人の作り出した?

彼女の言い様が私の癇に障った。
あの時南極で拾った物をただコピーしただけではないか。それを人が作り出したなどと。

「……何とかなるんでしょうね?」
「手は、あるわ」
「本当に?」

私にはいなくなってしまったとしか見えない状態で、何が出来るというのだ。
疑いの眼差しを向けた相手は、何かを思い出すかのように目を閉じ、そのまま目を合わせずに、こう言った。

「……サルベージ計画。もっとも、成功するかどうかはわからないけれど」



「守る?ならその体は何?」

目覚めたとき、全身を襲った激痛。
ぼやけた視界。
動かない体。

「私は誰も知らないのに!」

私を知っている人。
彼女を知っている人。

私を慕う人。
彼女を慕う人。

私を心配する人。
彼女を心配する人。

誰も私を見てくれない。

「あなただけ父さんに優しくしてもらって!」

戸惑う視線。
ぎこちなく回された腕。
初めて聞いた言葉。

「あなたが私から、全部奪ったくせに!」
「……ごめん」

そう謝る彼女を睨みつけようとして。
私は怯んでしまった。
彼女の瞳を、覗いてしまったから。

その光は静かに沈んで、深海を覗き込むかのように暗く。
決意の色は、諦観の黒に塗りつぶされて、それでも滲む淡い光。

私は確かに他人が、父さんが怖かった。
けれどそれすらも霞む、思わず心が凍るほどの寂しさ。
震えることすらやめてしまった、涙を流すことすらとめてしまった、そんな瞳。

「……何が、あったって言うの?」

それはこの世界への問いかけ。
彼女の現実への問いかけ。

けれどそれに答えるのは、彼。

「その子は何も知らないよ。だって」
「全部捨てて、逃げ出したんだから」

彼女の微笑が、苦しみに歪む。

「世界を捨てて、記憶を捨てて、全部捨てて、それでも刻まれたものは消えなかった」
「だからせめてそれを覆い隠そうと必死になっていただけ」

泣き出しそうなのに、それでも彼女は何も言わない。

「そうやって捨てられたのが、僕だ」

捨てられた。
その言葉は私にとってとてもつらい言葉なのに、彼はどうでもいいようにさらりと言った。

「存在だけがガフの部屋から飛び出し、君に入り込んだ」
「その残骸が、残りが僕なんだよ」

その意味を私はよく理解できない。
彼は、もともと彼女だったのだろうか。
彼女は、自分を捨てたのだろうか。

彼は彼女で、彼女は私。
でも、私は彼じゃない。
違う存在。
そういうことなのだろうか。

「だから、足りないんだ」

唐突に、雰囲気が豹変した。
斜に構えた態度が、重たい空気にとって変わられる。
気持ちの悪い、周囲が暗転したかのような嫌な感じ。

「残り物じゃ、僕は満たされないんだ」

そう言って上げられた顔を見て、思わず後ずさる。
先ほどの彼女の目にあった息苦しさとはまったく違う種類の、恐怖。

「だから、一つになろう」

つり上げられた唇の端。
その顔は笑顔と呼ばれる種類の形をとっているけれど。
その瞳に映っていたのは。

狂気そのものだった。