Migraine


「LCL濃度に変化、自己フォーメーションが圧縮されています」
「続けて、慎重に」

信号の断絶などトラブルはあったが、サルベージはどうやら成功したようだった。
とはいえ以前に行われたときは失敗しているものだ。
それに肉体が戻っても中身が抜け殻では意味がない。
まだ断定するには早すぎる段階だ。

「肉体の定着完了、生命反応あり」
「シンジちゃん、聞こえる、シンジちゃん!?」

主モニターに回されたプラグ内映像に彼女の体が現れると、たまらずミサトが呼びかけをはじめた。
その声に反応するかのように、彼女がピクリと動いた。

「シンジちゃん!」
「こ、こ、は……?」

つぶやきながら顔を上げた彼女。
ほっとしたのもつかの間、明らかな変化が私を驚かせた。

ゆっくりと開かれたまぶたの奥の瞳は、どちらも黒かった。


第拾弐話:心のかたち、人のかたち

本当の自分



「何故、彼女を行かせたの?」

彼女は行った。
彼と二人になった海岸。

「呼ばれたのは彼女じゃない、君だったはずだよ」

外から開かれた、小さな道。
その外側から、いろいろな人が僕を呼んでいるようだった。
これまで知り合ったたくさんの人。
ミサトさん、赤木さん、綾波さん、アスカ。
鈴原君、相田君、洞木さんも。
お父さんも。
それは僕と皆との絆、僕が築いてきたもの。
確かに、呼ばれていたのは僕だったのかもしれない。

「でも、やっぱり僕は、あの子じゃないから」
「彼らにとっては本物かどうかなんて関係ないだろ」
「それでも……あそこは彼女の現実だもの、僕が行くわけにはいかない」

彼に言われてわかった。
結局、僕は彼女の振りをしていただけ。
本当の僕は彼女とは違う。
彼女の体を使って、彼女の時間を奪って、傷を埋めようとしていただけだった。
僕はもう、あの子から大切なものを奪うことは出来ない。
これ以上代わりを演じることは出来なかった。

「それに、君を置いていくことも、出来ないから」

そういって、彼を抱きしめる。
いや、さっきからもうずっと抱いてはいたのだ。
彼女に向かおうとするのを止めるために、あの子が戻れるように、ずっと彼を抱きとめていた。
そうすると彼の感情が触れたところから流れ込むようで、だから気がついてしまった。
彼の押し殺していた心が、震えているのを。

「あの子を求めたのは、足りないからじゃない。寂しいから、でしょ」
「……そうだよ」

抑えていたらしい感情が、高ぶる。
寂しさと苦しさではじけそうなそれが言葉になってぶつかってくる。

「気がついたら僕は僕だった、もう君はいなかった」
「僕は出られないのに、ここは狭すぎるんだ」
「だからはじめて君を見つけたとき、僕は嬉しかったんだ。だからもっと僕を見てほしかったんだ」

彼は生まれた時からここにいたのだ。
僕が捨てたせいで、存在してしまったのだ。
彼の苦しみは僕が生み出したもの。
僕が逃げなければそんな思いをさせることは無かったのか。
それとも、そんな思いすら出来なかったのか。

その彼が、ついに叫びだす。

「だから、置いていかないでよ!」
「僕と一緒にいて!」
「ずっと一緒にいてよ!」

不思議だ。
僕と彼はそう歳が違うようには見えないのに、背丈は彼のほうが少し高いくらいなのに。
今の彼は僕よりもずっと幼い子供のように見えた。

――ううん、本当は、子供なんだ。

彼は自分を、捨てられた残りだといった。
僕は全部捨ててしまって、存在だけが彼女に逃げ込んだのだと。
それなら、残されたのは何か。

「君は、僕じゃない。そうでしょう」

残された体と記憶、そこに魂は残っていない。
けれど彼は生きている。
それはきっと、新しい魂を得たから。
生まれたての魂が、記憶と体だけは成長している存在が、彼だった。

「でも僕は君だったんだ、だから君が必要なんだ!」
「……うん、わかった」
「本当に?」
「一緒にいるよ、君と」

きっと彼は僕だから。
違う存在だとしても、それは僕のせいだから。
彼がもうこれ以上寂しくないように。
僕ももうこれ以上傷つかないように。
それでもまだ、足りないかもしれないけれど。

「大丈夫、あの子もすぐにここに来るさ」

僕の心が伝わったのか、けれど彼は何を言っているのか。
あの子はここから出られたというのに。
戻ってくる理由などないだろうに。

「でも僕は知ってる。何も変わっていないもの」
「どういう、こと?」

もう興奮などしていない、静かな声なのに、彼の言葉は僕の心を掻き毟った。
何を知っているというのか。
何が変わっていないのか。

「結局同じさ、すぐにあの子もこの世界に来る、決まってるんだ」

そう言われたと同時に伝わったイメージが、僕を激しく動揺させた。



プラグ内ですぐに気を失った彼女を病院に搬送してから丸一日。
さまざまな精密検査の結果判明した事実は、私を困惑させた。

肉体はきわめて健康。
初号機との融合の影響はまったくなし。
ただし、比較用データとしてこちらに呼ぶ以前のものを用いた場合、だ。

変化していた肉体組成も、これまでに負った数々の負傷の痕跡すら残さず、彼女の体は復元されていた。
まるで時間をさかのぼって持ってきたかのように、ここに来る以前の状態へと戻っていたのだ。
追加で行った検査では、肉体年齢すらも当時に遡っていると判明した。

――まさかこんなことが起こるなんてね。

元々これと同じようなことは、彼女の記憶にも生じていた。
記憶ならば、まだ納得できる。
だが、肉体まで巻き戻されるとは。
それとも、記憶に引きずられたのか。

なんにしても、これで彼女がここで生きてきた証はすべてなくなってしまった。
彼女が築き上げてきたものは突然その支柱を失い、瓦解してしまった。
そうして以前の碇シンジにはもう戻ることは無いと、そう感じた。

確証があるわけではない。
失われた記憶が戻らないなどと言い切ることは出来ない。
その肉体とて、単にエヴァが完全に彼女を治してしまったのだと言う可能性も無いわけではない。

それでも私の中には奇妙な確信があった。
記憶と体、この二つの変化は偶然ではないと。
彼女は完全に戻されてしまったのだという、あってほしくない状況を、私はしかし肯定していた。

もう一度、ゼロからのスタート。
いや、先の戦いを彼女が覚えていたら、それよりも酷いかもしれない。
受け入れることができないまま、あんなものに無理やり載せられて、放り出されたのだ。
それも、実の父親の命令でだ。
彼女に与えた不信感を拭い去ることはできないかもしれない。

いまだ眠り続けている彼女の頬をそっとなでる。
年相応のあどけない寝顔。
プラグ内で脱力するように意識を失ってから、ずっと目を醒ましていない。
このままずっと眠り続けていれば、あるいは苦しまずにすむのかもしれないけれど。

――それもないか。

そうであっても使徒がくれば無理にでも覚醒させ、エヴァに乗せられるだけだろう。
エヴァの防衛本能のみに頼った戦い方。
もはやパイロットとはいえない、人身御供として使われるのだ。

「そんなことをしてでも戦う、私たちの罪は深いわね」

思考の泡沫が、口から漏れた。
少々陰鬱な気分で、彼女を見つめつづけていた。

そんなときに耳に飛び込んだ、不快な警告音。
第一種警戒態勢の発令。

『先輩、初号機内部にエネルギー反応が!』
「なんですって!?硬化ベークライト準備、ケイジの作業員の退避も急がせて!」

使徒は、確認されていない。
動く理由など今は無いはずなのに。

――何があるというの?ユイさん……。



「……!嘘、こんなの!」
「嘘なんかじゃない。これは君の真実だったものだから」

それは記憶のかけらだった。
僕の見知った人たちの姿。
閃光に消える零号機。
生きることをやめてしまったアスカ。
血に塗れたミサトさん。
世界が、人々が消えていく光。

「ここも向こうも大して違わない。性別が違うくらいしか違わない」
「同じ使徒が来て、同じように倒して、同じように歴史は進んでる」
「きっとこれからも同じなんだ。みんないなくなって、ここにたどり着く」

そんなことを彼が話し終えるころには、僕は彼から離れていた。
離れて、出口を求めて、駆け回っていた。

「もういいじゃないか。彼女が出て行って、扉はもう開かれないよ」
「でも、でも、なんとかしないと!」
「どうせ変えられやしない。君一人の力じゃ何もできやしない」
「それでも、もう嫌なんだ!」

彼とこの世界にいることは、あきらめられた。
僕がそこを創ってしまったのだ。
その事実が消せないなら、ともに閉じこもり、緩慢な死を待つこともできた。

けれど、まだ、彼女はこうはなっていない。
外の現実は、消え去るまでにはまだ時間があるはずだった。
まだみんな、生きているのだから。
こうなるとわかっているといわれても、まだ足掻く時間は残っているはずだった。

「せめて、あの世界だけは、僕が守るんだ。守りたいんだ」
「もう誰も、これ以上、失いたくないんだ。消えてほしく、ないんだ」

僕と同じ思いを、あの子にさせたくなかった。
僕は同じ思いを、もう、したくはなかった。

「無駄だって言ってるだろ。ここに、いてよ」

彼の言うとおり、どこまでも白い砂浜と赤い海が続いているようで、僕は動いているのかさえわからなかった。
戻りたいと願っても、もう戻れない。
彼女は、外からこじ開けられた扉があった。
だから帰れた。
けれど今はもう、それは閉じてしまっているのだ。
どうにかしたいのに、今の僕にはどうにもできない。
心を覆う絶望をぬぐって、それでも道を探そうと。
だから僕は尋ねた。

「君になら、できるの?」
「……なんのこと?」
「君なら、僕を外に戻せるの?」

僕は彼に縋った。
僕には無理だったから。
残されているのは、彼だけだったから。

「……いやだよ。一緒にいてよ。ずっと一緒にいてよ」
「全部終わったら、戻って、くるから」
「知ってしまったら、もう耐えられないんだ。いなくならないでよ」

彼の言うことは痛いほどわかった。
手に入れたものを失うつらさ。
彼を捨てた僕は、また彼を捨てようとしている。
けれど僕は、ほかのみんなを捨てることは、できなかった。

「だから、お願い。僕を、外へ」

切望した。
ただその想いのみが心の底から鳴り響いていた。
彼は何も言わず、僕も何も言わず、けれど想いが、染み渡る。

一瞬だったのか、ずっとそうしていたのか。
純粋な強い想いに、彼が、ついに折れた。

「絶対、帰ってきてよ」
「うん」
「絶対だからな。絶対にいなくなったりしないでよ」
「うん。わかった」
「さよならなんかじゃない、そうだよね」
「うん。また、ね」
「……またね」

その言葉と同時に、世界が消える。
いや、僕が、そこから抜け出していく。
導かれるように進むその先には、輝く水面があった。
現実との境界、夢の底から、現世へ。
暖かで柔らかな感覚に包まれながら、外へ、飛び出す。

――あの子を、お願い。

誰かが、そういったように感じて。
けれど僕の意識はそこで途切れた。



何が起きたというのか。
初号機が起動したのはほんの数分だった。
だがその短い間に、初号機は腕の拘束を弾き飛ばし、胸部装甲を割り裂いていた。
赤く輝くコアを露出させ、胸の前、何かを包むような姿勢で停止し、そのまま動いていない。
停止してすぐに発生した瞬間的なコアの強い発光と高エネルギーの発生。
設置された監視カメラでは、細かい状況はわからなかった。
ただ、その手に何かが握られているという予測のみが、観測データから割り出されていた。

それ以上動くことをせず、内部のエネルギー変化も停止したことを確認して、調査隊を派遣する。
私自身も隊のリーダーとして、分厚い防護服に体を押し込み、ケイジへと進入した。
強引に外され、破壊された第一拘束具の瓦礫を潜り抜けた先、いたるところを硬化ベークライトで固められた初号機の姿があった。

破壊されずに残った桟橋を、ゆっくりと初号機に向けて近づく。
一歩進むごとに、言い知れない恐怖が背筋を伝う。
またこれが動き出すかもしれない。
エネルギー反応など何の意味も無いことは、つい先ほど証明されたばかりだ。
初号機が一撫でするだけで我々はあっさりとただの肉塊と化すであろう。
それでも私はこの目で確かめねばならなかった。

一歩ずつ、少しずつ、しかしついに、その腕の隙間へ。
鬼が出るか蛇が出るか。
初号機への恐怖と、研究者としての好奇心がせめぎ合う。

――足?いえ、これは人?

最初に見えたのは、足。
紛れも無い人間の足が、体がそこにあった。
暗がりになって全体は見えていない。

私は身を乗り出し、危険すら一瞬忘れて、初号機の指と掌に乗りかかるようにして中を覗きこんだ。

――まさか彼女が出てきたというの?

初号機と、ヒト。
それを見た瞬間に私が思い浮かべたのは一人の女性。
過去の実験により失われた人。
碇ユイ。
碇ゲンドウの妻。

その可能性に、私はいてもたってもいられなくなったのだ。
そこに彼女を見つけたとき、どうするという考えがあったわけでもないのだが。

けれど防護服のライトの光に映し出されたのは、まだ子供の体。
成熟しているとは言いがたい、華奢な少女。
そして、その、顔は。

「シンジさん!そんな!?」

それは既にサルベージされたはずの、碇シンジそのものだった。



「……戻って、これたんだ」

青白い蛍光灯の光を感じて、見上げた、いつもの病院の天井。
疼くような体の痛みが、現実に帰ってきたことを教えてくれた。

初号機の中で出会ったもう一人の僕は、どうせ同じだと、言っていた。
何も変わっていないと。
皆消えてしまうのだと。

けれど僕は、まだ、諦められなかった。
このままでは駄目だとわかっているのに、それを放っておくなんて出来なかった。
自分に何が出来るかなんてわからないけれど、それでも、何かをやらなくちゃならなかった。

――もう、誰も消えさせなんてしない。

そんな決意をしながら、体を起こしてみる。
これまでと大して変わってはいない。
相変わらず左足の感覚は無いし、変に力を入れると右肩も痛む。
あの黒いエヴァに絞められた首は少し痛む程度だ。
明らかに変わっていたのは左腕で、肘から先がうまく動かせなかった。

「これは、はじめの時と同じかな?」

以前、左手首の一部分だけが白く変化していた。
それが今は、前腕部のすべてが白く、色素が抜けた肌に変わっていた。
きっとこれは前の使徒との戦いのせいだろう。
彼女を守ろうと出てきてすぐに初号機に取り込まれてしまったけれど、その前に意識を失いそうになるほどの激痛があった。
吹き飛ばされたエヴァの左腕と、おそらくは同じことになっていたのだろう。
自分の元から離れて漂う体の一部というのはあまり思い出したい記憶ではなかった。

左腕がまともに動かせないのは、きっとそこがまだ生まれたてだから。
動かし方すら知らないから。
手首の時だってそうだった。
徐々に、慣れてくるはずだった。
でも。

――しばらくは、歩けない、かな。

何とか常人と同じく動かせるのは右足くらいだった。
そこすら痺れは残ったままなのだけど。
左足は体をまともに支えることすら出来ない。
どちらの腕も、不足した支えを補う力は残されていなかった。

みんなと歩くことが出来ない、それは僕には辛いことだった。
けれど沈みそうな心を叱咤して、奮い立たせる。
きっと左手は動くようになると。
すぐに、前のようにできると、そう言い聞かせて。

病室の前で立ち止まる気配がした。
きっと赤木さんだろう。

――やっぱり、混乱してるだろうな。

彼女、もう一人の碇シンジは、既にこちらに帰っているはずだった。
そこに僕が現れたのだから。
同じ人間が二人。
さて、どうやって言い訳しようか。

そう思いつつも、久々に会うことになる見知った人を待つ僕は、自然と軽い笑みをもらしていた。
扉が開かれ、僕はその表情のままに入ってきた彼女を見た。
いつもより少し緊張した面持ちでこちらを見つめたリツコさんと視線が合った、その瞬間。

ずくんと、内側から殴りつけられるような頭痛が、僕を襲った。