Migraine



第拾弐話:心のかたち、人のかたち

残滓



鈍痛?
そんな生易しいものではなかった。
頭の中で、何かが叩きつけられたかのような痛み。
物理的にどうにかされてしまったかと錯覚しそうなほどの頭痛だった。

以前にも何度かあった、最近は忘れていた頭痛。
だがあの頃の比ではない。
あの頃はあふれ出る感情に心が震えた。
けれど、今は。

――心が、壊され、る。

あまりにも暴力的な、感情の爆発といっていい物が、襲い掛かってきた。

悲しみが心を押しつぶす。
困惑が捻じ切り、恐怖が切り裂く。
喜びすら心を弾けさせる。

そしてその濁流とともに襲い掛かる、イメージ。

銃声と、諦めと、自嘲と、そして焼け付くような痛さ。

――嘘、何、こんなの、知らない。知るはず、ない。

それは記憶の欠片だった。
けれど僕の知りえないはずの、リツコさんの、最後の記憶。

上げようとした悲鳴すら声にならず、両手を、全身を、小さく、抱え込み、頭を抑え、無理な動きに体が軋み、それでも止まらない。

「シンジさん!?しっかりして。ドクター、鎮静剤を!」

リツコさんがそう叫んで、僕の異常を認めて駆け寄ってくる。
けれど彼女が近づくほど痛みは強く、心は激しく。

――あ、だめだ、いま、触れられたら。

壊れてしまう。

でもそれを止めることすらできず、彼女はあっさりと僕の肩に触れて。

「ああ、あ、あああああああああ!」

すべてがごちゃ混ぜに。
感情が混ざり、記憶が瞬き、白く、爆ぜた。



次に目覚めたときも、状況は大して変わらなかった。
ただ、ああなる前にリツコさんに離れてもらうことだけはできた。
単に心構えができていたからだけれど。

『大丈夫なの?』
「……はい、声だけなら、何とか」

僕に何が起こったのだろうか。
前の時も思わず立ちすくむほどの感情を持て余すことはあった。
けれど、これほど激しいことはなかったし、同じ人を見てぶり返すこともなかったのに。

そして、頭に焼きつくイメージ。
これが何なのかは、何を意味しているのかは、わかる。

――これはきっと、僕の世界の、記憶。

この世界の僕ではない、僕がいた世界のリツコさんの記憶。
何故だかわからないが、頭の奥からそれが噴き出しているのだ。
絶望の、終わりの記憶の断片が。

初号機の中での体験が何か影響しているのか、こちらに戻ったときに何か変わってしまったのか。それとも彼と長く触れていたからかもしれない。
ありえないはずの、他人の記憶、それも最後の瞬間の記憶、そんなものが僕の中に宿っているようだった。

そしてふと、気がついてしまった。

――僕は、皆と会うことが、暮らすことが、出来るだろうか?

もし、今綾波さんに、アスカに、ミサトさんに、お父さんに出会ってしまったら。
その最後を、見てしまうのだとしたら。
きっと僕の心は、耐えられない。
きっと打ちのめされ、砕かれ、壊れてしまう。

それは僕が生きるために求めたものが、もう遠くなってしまったことを意味していた。
僕が渇望したものが、その望みの強さが、僕を壊すのだ。

終わりを迎えないために、彼らを消させないために、絆を守るために、戻ってきたというのに。
その絆はもう、僕を支えてはくれないのだ。
支えているのは、強い願いと、残された思い出、その二つが、かろうじて崩れそうな僕の心を形作っていた。

――きっとまだ、大丈夫。

誰にも会えないとしても。
この想いと、今までにもらったものが、きっと、僕を留めてくれる。
皆を、救える、そのときまで。

『それじゃ、単刀直入に聞くわ。あなたは、誰?』

その質問への答えは、今の僕に残されたただひとつのもの。

「僕は、碇シンジ、です」

自分を定義している、ただひとつの、名前。



「あなたは、誰?」
『僕は、碇シンジ、です』

そう、彼女は碇シンジだった。
だが、それはあってはならないことだった。

――同じ人間が二人?複製されたとでも言うの?

いや、正確には同じではない。
二人の肉体には10ヶ月ほどの時間の隔たりがあった。
ここにくる以前の体と、ここに来た後の体。
何の傷もなかった頃の体と、数々の傷を負い、歩くこともままならない体。

その二人の、そのどちらが本物といえるのだろうか。
どちらがオリジナルで、どちらがコピーなのか。
どちらも本物なのか。どちらも偽物なのか。

『でもきっと、僕は、碇シンジじゃありません』
「どういうこと?」

どうやらこの悩みは、彼女自身が解決してくれそうだった。
あの中、初号機の中で、何が起こっていたのか。
好奇心がもたげる。

『彼女は、大丈夫ですか?』

彼女とはもう一人の碇シンジの事であろう。
この子は知っている。
自分がほかにも存在することを。

「ええ、今は眠っているわ」
『そうですか。よかった……』

スピーカー越しに安堵の声が聞こえる。

「あなたたちは一体、どういう関係なの?」

心配するのは結構だがこちらがほしいのは情報だった。
モニタには質問に対し困ったような顔をして考え込んでいる姿が映っていたが、やがて、カメラ――いちばん目立つ監視カメラだ――の方に顔を向けると、静かに話し出した。

『あの子が、きっと本当の碇シンジです』
『僕は、たぶん本当は、ここにいるはずがない存在だと、思います』
「それじゃ、あなたは何だというの?」
『……わかりません。でも、僕は、見ちゃったんです』
『皆が、消えるのを。世界が、終わるのを』

そういった彼女の瞳は、悲しみを湛えていた。



この報告を、どう受け取るべきなのだろうか。
突如初号機から出現した、もう一人の碇シンジ。
自分は本当の碇シンジではないと言い張る、しかし見慣れた姿の彼女。

――二人の、私の娘、か。

傍らのベッドに眠るのは、先にサルベージに成功した碇シンジだ。
これまでの戦いの傷はどこにも残っていないというが、眠っているその姿からだけでは判断はつかなかった。
赤木博士からの報告が正しいならば、この子は以前の、私を知り、私を恐れ、逃げ出した、そして私が恐れ、引き離した、その碇シンジであるはずだった。
この子こそが、私の本当の娘であるはずだった。

だがあの時私を動揺させ、困惑させた、私を知らず、私を慕おうとしていた、あの碇シンジはこの子ではないのだ。
心の奥に押し込めたはずの想いを引きずり出し、計画を狂わせた存在ではなくなっていた。
そうであっても私は計画を元に戻すつもりはなくなっていたのだが。

――シンジも、共に。

何の事は無い、娘も巻き込んでしまおうというだけのことだ。
親であることを拒めなくなった私は、親としてのエゴを計画に含めた。

――ユイともう一度共に歩むため。

ただそれだけのために私は人類補完計画を利用している。
私を愛し、受け入れてくれた彼女に会うことが適うならば、計画自体はどうなろうと知ったことではなかった。
そんな自らの欲望のためだけに世界を牛耳る連中すら欺いてきたのだ。
ここで一つくらい欲が増えたところで、どうということも無いだろう。
そう自分に言い聞かせ、これを連れて行こうと考えていた。

「んっ……」

身動ぎをする彼女を見つつも、そっと病室を去る。
私にはまだあれとまともに会話することはできないだろう。
押し留めていた堤防が決壊した後、私の拒絶されることへの備えは霧散してしまっていた。
シンジがユイと同じに私を受け入れてくれる、その誘惑が私を弱くした。

あれの記憶が戻った時、自らの行いが自傷行為に等しいものだったと気がついた。
そのことが、生まれてしまった希望を絶望的にしていることも。
だから、あの子が考える時間すら与えられなかった。できなかった。

静かに考えつつも廊下を進む先には、特別隔離病棟があった。
三重のセキュリティチェックを通過して、さらにその最奥に位置する病室。
もう一人のシンジは、そこで眠っていた。

彼女の存在は一部の人間以外にはいまだ伏せられていた。
第一発見者となった赤木博士が即座に隠蔽工作を行ったためだ。
それなりに人を使っている時点で完全に隠し通せはしないだろうが、少なくとも混乱は避けられていた。
だが、どう扱うべきなのか。

最後のロック、病室の扉の前で逡巡する。
私は、一体何をしようとしているのだろうか。

直接上げられた報告書に書かれていた本人の証言によれば、この先にいるシンジはここ第三新東京市での記憶を持つ人間だ。
そして、ここではない別の世界、だが同じように進む世界の終焉を見たと、未来を垣間見たのだという。

――何を馬鹿なことを。有得ん。

そう、常識的に考えればそんな話はありえない。
彼女の妄想か妄執か、そんなものを現実と思い込んでいるだけだろう。

だが、「誰もいなくなる、溶けて消えてしまう」という、その言葉が、ただの妄想と切捨てるのを止めさせていた。
なぜならば、その状態は人類補完計画の最終段階として想定された事例の一つに該当していたからだ。
全人類が一つとなり、自他を認識できない世界。
以前の謎のトラウマはその世界の情景だったと。
白い砂浜に、どこまでも続く赤い海、宇宙をそのまま映したような黒い闇の空。
ただの子供が想像で生み出したにしては出来すぎていた。

――それとも、ユイが可能性を教えたとでも言うのか。

人類補完計画は彼女が中心になって準備していたものだ。
それを強引に形にして推し進めたのが現在の補完計画であり、基本的には彼女の原案と変わっていない。
もしユイが何かを託してあれを送り出したというなら、無視はできない。

――だから、私は試すのか?

カードをスリットに通し、最後のセキュリティが解除された。
静かに入り口が開かれていく。
サングラスを深々と掛け直し、覗いた先には。
紅と黒の瞳が、揺れていた。



わかっては、いたのだ。
彼女が起きている事くらいは。
だから極力顔色を隠し、それでもあの瞳の前に一瞬立ちすくんでしまった。
以前と変わらぬ、諦観と希望を灯した鈍い輝きは、以前と変わらず私を脆くする。

だがそんなことを考えていられた時間は長くなかった。

「うあ、ああ……っ!」

彼女が大きく目を見開いたかと思うと、右手で顔を覆うようにして悶え、苦しみ始めた。
小さな体を強張らせて、頭を激しく振り、耐えることの出来ない苦痛に喘ぐ。
報告にあったとおりの苦しみ方、いや、それ以上か。
ついにはまだ何も食べていないだろう胃の中から胃液を吐き出し、ベッドのシーツを汚す。
その様に思わず駆け寄りそうになるのをぐっと堪える。

――焦るな、これを、壊す気か。

報告が正しいとすれば、ここで直接触れなどしたらこの子は完全に飽和し、壊れてしまうかもしれなかった。
娘が、ああそうだ、私の娘が苦しんでいるというのに。
私には、何もしてやれないのだ。
いや、それどころか、苦しませているのは、私なのだ。

「……人の死が、見えるそうだな」

聞こえているかどうかも怪しい状態のシンジに問い掛ける。
そんな戯言を信じるなど我ながらどうかしている。
だが、知ってみたくなった。
その現象にユイが関わっているならば、知っておきたかった。
それがシンジを苦しめ、蝕むことをわかっていながら、それでも、だ。

「……何が見えた」

私は、どうなるのか。
計画の結果は、どうなったのか。
ユイに、会えたのか。
会えずに果てたのか。

それ以上は急かさず、シンジが落ち着くのをただ待った。
五分が過ぎ、十分が過ぎ、半刻も経とうかと言う頃、ようやく彼女がうめき声以外の声を発した。

「……ごめんなさい、そちらを、みたら、また、ぶり返してしまいそうで」
「かまわん。落ち着いたなら、話せ」

こちらを見ないように顔を俯け、逸らしたままで、また、しばらくの静寂。
何か決心したのか、軽く息を吸い込む音が聞こえ、シンジが話し出した。

「あなたは、償いを望んでいた、ように思います」
「償い?何に対してのだ」
「よく、わかりません。感じるのは、感情と感覚で、それもごちゃ混ぜになっているから。でも……」

そこまで言ってから、また頭を強く抑える。
伝えることを、より正しく理解しようとしているようだった。

「あなたは最後、穏やかで、諦めていて、受け入れていて、それで、それで……」

ハッ、ハッ、と荒く細かい息遣いが、彼女の緊張と恐怖をこちらに伝えていた。
搾り出された私の最後の情景、それは。

「初号機の、歪な歯が、握られてそのまま、口へ、あれはきっと、引き千切られて」

断片的な言葉が表す状況。
私は、初号機に食いちぎられ、果てる。
それを受け入れたと。
自らの贖罪として。

彼女の恐怖の理由が一つわかった。
その初号機にもし自分が乗っていたのなら、私を殺したのは、シンジだと言うことになるのだから。
もちろん断定は出来ない。
補完の最中に起こるというならば、あるいは私を裁いたのはユイかもしれない。
それとも、その最後を私自身が望んだのか。

情報が足りず、その判断は難しかった。
そもそも私自身の目的が達成されたのかどうかも。
いや、少なくとも共に歩むことは出来なかったのだろうが。
ユイと、会うことくらいはできたのだろうか。
心の穏やかさは、そのためであると思いたいところだ。

――……何を考えている。この話が正しいかどうかも怪しいというのに。

「僕は、こんなのは、嫌です。お願いします、こんなことに、ならないように」
「……そうだな。だがそうなるとは限らない」

そう言って背を向ける。
元々入り口からさして動いてはいない。
目の前に扉があった。

「無理をさせたな。もう休め」

そう言って、スイッチに指を伸ばす。

「……あなたが、殺したんです」

その指が、停止した。

「なんだと?」
「リツコさんを、最後に撃ったのは、あなたでした」

殺されたという彼女の最後の瞳に映っていたのが、私だというのか。
報告書には書かれていなかった。
意図的に削除されたのか、それとも。

「リツコさんには話していません。でも……」
「……ありえん話だろう。幻覚に過ぎん」

そう切り捨てたが、内心、大いに動揺していた。
私にとって、そうなる可能性は決して低くは無かったのだから。
だが私と赤木博士の関係をシンジが気付いていなければ、出てくるはずの無い物だった。
妄想だといって無視するには少々リアルすぎる。
私の中で、話の信憑性の目盛りが、少し競り上がっていた。

だから、今度こそ伸ばした指でスイッチを入れて。

「もう、嫌なんだ、あんな未来は、嫌なんだ」

最後の彼女の呟きを扉の動作音でかき消して、私は病室を立ち去った。



「赤木博士、碇シンジはサードチルドレンとしての登録を保持する」
「はい」
「もう一人のほうは厳重秘匿処置をしておけ」
「はい」

どちらがどちらなのかは命令の内容からすぐに判断できることだ。
健康体となった、何も知らない碇シンジを、これまでの碇シンジとして同等に扱う。
そして満身創痍である、正体不明の碇シンジを秘匿する。
それは物理的に接触を困難にし、データ上からもその存在を隠蔽し、人の口すらも封じ込め、存在しない存在にしてしまう、ということだ。
ネルフの上位組織にすら、感知できないほどに。

「初号機が必要になった際、どちらをお使いになるつもりですか?」
「そのときに使えるほうをだ」
「では、その場合の秘匿処置は?」
「任せる。ただし絶対に露呈させるな」
「はい」

つまりは、普段は碇シンジを今までどおりの人物であるとしておき、いざ必要となればもう一人を乗せ、戦わせると、暗にそういっていた。
二人で一役、双方がそれぞれの状況での影武者というわけだ。
混乱を抑え、能力面の問題もクリアできる方法であり、それぞれの現在の立場から見ても妥当ではあった。
その行為を秘匿する方法が問題ではあったが、策はある。
口封じできる人員が何人か必要になるが、それだけだ。
あれやこれやと秘密裏に建造、運用しているうちにその手のことは十八番になってしまった。
ずいぶんと汚れてしまった自分に気がつき、自嘲する。

「ん、どうした?」
「……いえ、なんでもありません。ところで本題と外れますが」
「なんだ」
「二人の呼称、便宜的にでも分けたほうが混乱が少なく済むと思うのですが」

声無き笑いをごまかし、話題を掏りかえる。
データ上は別IDをふればよいだけだが、やはり同じ呼称のままでは会話時に支障をきたす。
対象がほんの数人だとしても、そのために無駄な思考を必要とするのは面倒であった。
それに少し興味もあったのだ。
この男が、自分の娘であるはずの二人をどう扱うのかを。

「……そうだな。赤目のほうを碇レイとでもするか」
「それは……よろしいのですか?」

その名前に固執するというのか。
秘匿する側の呼称を変えるのは正しいだろう。
だが、その名前は、もう一人のほうから取り上げたもののはずだった。
そして既に別のものに与え直して、代わりとしていたはずだった。

その名前に、それほどの価値があるというのか。
それとも、碇ユイとの思い出に。

「不満か?」
「……いえ、了解しました」

嫌味の一つでも言ってやりたい気分だったが、馬鹿な真似をするほど幼稚でもなかった。
この人が私を見ようともしていないことなど、いや、碇ユイ以外を誰も見ようともしていないことなど、わかっていたことではないか。
碇シンジに固執することすら、碇ユイの遺したものだからに過ぎないように私には思えた。

ともあれ報告も終わり、退出しようと扉へ向かう。
そのとき、不意に声をかけられた。

「リツコ君。あれが言うには、君は私に殺されるそうだ」
「信じておられるのですか?そんなことを」

務めて冷静な声音を出したが、振り返ることなど出来ない。
動揺は明らかに顔に出ているだろう。

――この男に私が撃ち殺される。

その光景が、妙に生々しく想像された。
そのとき、きっと私はこの人を道連れにでもしようとしているだろう。
私は絶望したのか、それとも嫉妬に狂いでもしたのか。
その行為を、この男は無慈悲にも引き金を引き中断させるのだろう。
それは陳腐で、けれどあまりにもリアルだった。

「お互い、そうはなりたくないものだな」
「……そう願いますわ」

振り向くことなく、私はそのまま退出した。
顔を合わせずに交わした言葉は、私には、白々しいものに感じた。