Migraine



第拾弐話:心のかたち、人のかたち

葛藤



今までのことはすべて夢だったと、そう思いたかった。
だって、普通に考えればありえない話だもの。
巨大な化け物と戦うロボットのパイロットなんて。
戦いのせいでぼろぼろになったり、記憶を失ったりなんていうのも、きっと悪夢というものの脚本家が仕込んだもの。
現に、私はなんともなっていない。
どこも痛くもなければ痺れてもいないし、瞳だって赤いわけがない。
髪の毛もつい此間カットしたときからそんなに伸びていないし。

それでは何故入院しているのか、なんて疑問には目をつぶって。
よくわからない検査を何度もさせられた理由なんてのも考えないようにして。

けれどどうがんばってもカレンダーの日付は一年近く先にずれていた。
そして退院のときに渡された通知が、逃避をぶち壊した。

『エヴァンゲリオンパイロット、碇シンジをサードチルドレンとして継続配置する』

現実は小説より奇なりというけれど、そんな言葉すら今の状況の前ではかすむのではないだろうか。
通知を手渡してきた黒服の男性は有無を言わせぬ態度で、伝えるだけ伝えるとすぐにいなくなってしまった。
その後私を迎えに来たのは、見覚えのある女性。
父さんからの手紙に同封されていた写真の人、夢の……いや、あの訳のわからない状況の中、病院で面会した人だ。

「私のこと、わかる?」
「ええと、葛城、ミサトさん、でしたっけ」
「そうよ……やっぱり覚えてはいないのね?」

そういう彼女に、首を振って答える。
知っているのは名前だけだった。
私が空白の時間の間何をしていたのか、そんなのはわからなかった。
わかるはずがなかった。

――だって、あれは私じゃないもの!

夢の中でであった私じゃない私。
きっとあの子が私の時間を奪ったのだ。
よく知りもしない人たちと妙な関係を持っておいて、それで私を放り出したのだ。
その間に私という人間はどこにもいなかったのだ。

だからそれは私じゃない、別の誰か。
その人との記憶を求められても、私が持っているわけがない。

「そう。……でも、私が引き続きあなたの保護者をすることになったわ」
「あなたが、ですか?」
「ええ、もう一度、よろしくね?」

悪い人ではないのだろう。
私を別人として扱おうとしてくれているのはわかった。
もう一度、はじめからやり直そうという、その心遣いは嫌じゃなかった。

「はい……初めまして。こちらこそ、よろしくお願いします」

そう答えた時に作った表情は、ぎこちない笑顔にするのが精一杯だったけれど。



案内されたマンションの一室、そこが私たちの住居らしかった。
リビングに入った途端頭痛がしたのは先ほどの運転のせいばかりではないだろう。
そこには空き缶やコンビニ弁当の空の容器が出たままになっていた。
室内の雑然とした雰囲気からもこの家主のずぼらな性格が見て取れた。

私はこんなところで生活していたのだろうか。
自分が几帳面とは思わないが、それでもこの状況に慣れる事は出来なさそうだった。
目に付いたゴミを近くにあったゴミ袋――そう、ゴミ箱で無くゴミ袋が置かれていた――に叩き込む。

「ああ、ごめんね、ここのところチョッチ忙しくって」
「それでも片付けるくらいはしたほうがいいと思いますよ」
「ははは、それに前は……うん、前は、あなたが片付けていたから。おんなじように小言を言いながらね」
「……そうですか」

以前の私も、私と同じ程度の感覚は持ち合わせていたらしい。
しかしながら現状を見れば言われつづけた小言がさしたる効果を上げていなかったのは明白で、先が思いやられた。
もしかして保護者だなんてのは建前で、私は小間使いとして連れてこられたのではないだろうか。
そんな疑問が頭をもたげる。

「なによそんな顔して。すぐ慣れるわよ」
「個人的に慣れたくない状況ですけど」
「気にしない気にしない。それより部屋に案内しとくわ」

そう言って連れてこられた部屋には、机と、クロゼットと。

「ベッドが二つ?」

それほど広いわけでもない部屋は、そのせいでぎっしりと詰まっている印象だった。

「部屋って言うか、寝室ですよね」
「仕方ないわ、元々一人部屋だったんだし」

どういう意味だろう。そう思って彼女のほうを振り向くと、少し間があいて答えが返ってきた。

「もう一人ね、同居人がいるのよ。ほら、覚えてる?アスカって言うんだけど」

それは、以前に病室で会った少女の名前だった。
金色の髪の毛で、気が強そうで、ちょっと怖くて。
そういえば、あの時彼女もそんなことを言っていた気がする。
あの子と相部屋だったのだ。
ここでうまくやっていけるか、急に不安になった。

――仲、良かったのかな。

多分そうだったのだろう。
およそ私と正反対といえそうな人と何故仲良くできたのか、想像できないけれど。

「手前があなたで、奥がアスカね。あと、そこのクロゼットもあなたのだから」
「アスカさんのは?」
「別の部屋を使ってるわ。あの子の分までここに置いたら、身動きできなくなるわよ」

半分笑いながらそういわれたが、なるほど確かにそのとおり、これ以上物を置くスペースなど無い。
でも、何か私のほうが優遇されているようで、不思議だった。
なにせ私の分の物がまとまって置かれているのに、彼女の分は殆どベッドのみで、それも奥側だ。
ひっそりと、機嫌を窺いながら生きてきた私にとって、こんな風に自分が扱われているのはなにか落ち着かなくて、そのことを尋ねてみた。
そこで返ってきた答えが、私がすっかり失念していたことを思い出させた。

「あんな体だったんだもの」

ほんの短い間だったけれど、自分が酷い状態だったのを思い出す。
いたるところが痛くて、動かなくて、壊れていた体。
家具の配置が、その状態を前提として動きやすいように置かれていたと気がつく。

あんな体で、私はどんな生活が出来たのだろうか。
もう歩くことすら出来ない、ぼろぼろの体だった。
ずっと病院にいたといわれたって納得しただろう。

でも彼女は、ここで暮らしていた。
その姿が想像できなくて、私は思わず尋ねていた。

「あなたは、変わらなかったわね」
「どういうことですか?」
「そのままよ。怪我が増えても、今までの生活を変えなかった」

左足が動かなくなっても、車椅子も使わず、杖で補助してでも自力で歩くことを選んだという。
力仕事は難しかったらしいけど、それはアスカさんが手伝うようになったのだとか。
それでも相当に大変だったのは間違いない。
同じことを実現するために必要な労力が増えて、負担も大きかったはずだ。

そんな中で同じ生活に固執したのは何故なのだろうか。
少なくとも、それは私の感覚からは大きくずれているように思えた。
私なら、無気力に一日寝ているだけの日々をただなんとなく過ごして、それでいいと達観していたかもしれない。
いてもいなくても変わらない、ひっそりとした生活。
そんな風に言ってしまえばそれまでと大して変わらないではないか。

クロゼットの中も確認してみた。
丁寧にたたまれた衣服は見覚えのあるものも多くて、けれどそれらの多くは下のほうの段にしまわれて、あまり使われていないようだった。
使いやすい高さの引出しには、地味な装いのものばかりが並んでいた。
そのうちの一つを手にしてみて気がついた、右側の袖の特殊な加工。
腕を通さなくても着られるようにボタン留めになっていた。
他の服も同じで、つまりこれは不自由な状態でも着替えられる服なのだろう。
制服のブラウスにも同じ加工をしたものがあった。
こうまでしてもいままでと同じ生活を続けたかったのだろうか。
そんな努力をしてもつらいだけなのに。

「葛城さん……」
「ミサトでいいわ。何?」
「私は、ここで暮らしていけるでしょうか?」

それは容易には想像できない生活、その断片を感じて思ったこと。
私にはこんなことを続けるなんてできそうにない。
そんなことを続けていた彼女と同じところで生きていける自信など無かった。

「人間何事も成せばなるわ。それに……前のあなたと同じようにする必要なんて、無いでしょ?」
「そう、ですね」

少しだけ、気が軽くなった。
私は、私であることを求められてはいないのだから。
私の代わりを演じる必要なんて、無いのだから。

だけど、すぐ、思い知らされることになった。
私が、私でない私の居場所にいるという、その意味を。



「そう、じゃ、あんたはもう別人ってこと?」
「多分……」

そう答えたのは、金色の髪の、惣流さんが帰ってきて、しばらく続いていた話し合いの終わりの時だった。
尤も、これを話し合いといって良いかはわからない。
殆どは葛城さんが説明をして、私はたまに相槌を打つだけで、惣流さんは不機嫌そうな顔をしたまま黙って聞いていたのだから。

正直なところ、私は彼女が苦手だった。
この子は同い年というにはいろいろと大人びていたし、以前の病院でのこともある。
見るからに苛ついている彼女が、また飛び掛ってきたりしないかと内心びくびくしていたのだ。

けれど惣流さんは最後まで黙ったままで、先ほどの言葉を発した後、そのまま部屋に閉じこもってしまった。

「アスカ、御飯どうする気?」
「今日はいらない」

葛城さんの問いかけにもそんな調子で、出てくるつもりは無いようだった。
仕方なく二人で、退院祝いだという出前の寿司をいただくことになった。
豪華で、見栄えもいいものだったけれど、二人の間で会話は続かなくて。
ただ黙々と食事が進んでいく。

やっぱり、こんなものなのだろう。
ここだって、先生のところと大して変わらない。
場所が変わって、人が変わって、だけど状況なんて似たり寄ったり。
一人も二人も違わない、ただ、空腹を満たすための行為でしかなかった。

まだかなり余らせたまま食事は終了して、やることもなく、会話も尽き、その場の空気に耐えられなくて、私も部屋に戻ろうとして、気がついた。

襖が開かない。
逆側から何かでつっかえ棒のようにおさえられているようで、がたがたというばかりで動かない。

「あの、惣流さん?」

向こうから答えは返ってこない。

「シンジさん、どうしたの?」
「あ、あの、ひらかなくて」

不審に思ったらしい葛城さんに助けを求めると、彼女もまた襖に手をかけがたがたとやった後、中の人物に問いかけた。

「アスカ。開けなさい」
「……嫌よ」

二回、三回と同じことを言って、ようやく返事が返ってきた。
小さな声が、襖越しに何とか聞こえる程度の大きさで。

「アスカ、何意地張ってんのよ」
「わかってる、わかってるわよ。でもだめ、今日は駄目なの!無理なの!」

彼女の強い拒絶に、体が強張った。

「理解はしてる。あいつが、シンジだけどシンジじゃないって」
「別人なんだって、そんなことくらい、わかってる」
「だったら……」
「でも、だから、あいつがシンジの場所に入ってくるのが、許せないの!」

彼女にとって、私は前の私とは違う、別の存在なのだろう。
私にとって彼女がいまだ他人であるのと同じに。
だから許せない。

「記憶も無くなって、体も怪我なんかなくなって」
「もうあいつがいたことなんて、残ってない」
「それでもあいつは、シンジは、ここにいたの。あんたじゃない、シンジがここにいたの」
「ここは、この部屋は、あいつがいた証なのよ」

存在の証、生活の痕跡。
他人がそこに入り込むのを、許せないのだ。

「だからあんたが別人だというなら、シンジのとこに、入ってこないで」

ほら、やっぱり。
親しい人が突然赤の他人と入れ替わってしまえば、私だって拒絶するだろう。
私が何者なのかなど、前の私がなんだったのかなど関係ない。
彼女にとっては前の碇シンジこそが本物なのだ。

そのくらいは私にもわかっていた。
わかっている、つもりだった。
けれど次の彼女の言葉は、そんなものじゃなかった。

「だって、だって、別人だって、そうなら、じゃああいつは、いなくなって、消えてしまって」
「……死んじゃったのと、変わらないじゃない!」

それは私には持ちえない実感だった。
私は元に戻った、それだけのつもりなのだから。

けれどいたはずの人間が消えうせるというのは、受け取りようによっては限りなく死と同義なのだ。
そしてなにより、私の存在そのものが、その人が戻ってくることが無いと証明しているようなものだ。
彼女から見て、私とは友人を殺したに等しい存在なのかもしれない。

「ごめん、理解してても、だから無理。受け入れらんない」

当然だった。
私も既に、入れてもらおうなどという気持ちは失せていた。
もしかしたらこの先彼女と仲良くなることなど無いかもしれない。

――それも、今までと変わらないか。

上辺だけの付き合い、親しい人間などいたためしが無かったのだから。

「ごめんなさい、今日は、私とでも寝る?」
「いえ、ご迷惑になるでしょうし、そこでいいです」

部屋の入り口から離れた私にそう言って来た葛城さん、その申し入れも断り、リビングのソファを見る。
そのほうが気楽だった。
一人で寝るのが当たり前で、誰かと一緒に寝るなど疲れるだけだ。

「そう。でも予備のお布団は出しておくから、使ってちょうだい」

そう言って、葛城さんもあっさり引き下がった。
彼女だってその方が楽に違いないのだ。
私のような厄介者を押し付けられて、無理をしているのだろうから。

その夜見上げた、知らない天井。
ここは知らない街、知らない場所。
けれど。
私は、私の生き方は、知っているものと、変わらない。



――朝御飯、用意しておいたほうが良いかな。

結局余り眠れず、しかし他の住人よりは早く目が醒めてしまったらしい。
けれどそれでも既に時間は7時を過ぎており、しかたなくまだ霞む眼を擦りながら簡単な朝食を用意する。
目玉焼きとトーストが焼きあがる頃、ようやく何度も仕事を続けていた目覚し時計の音がやみ、葛城さんが、続いて惣流さんが部屋から出てきた。

「あら、用意してくれてたの。えらいえらい」
「……」

そんなことをいいながら能天気に振舞う葛城さんと、対照的になにやらぶつぶつといいながら席に座る惣流さん。
私も席について、三人でやはり黙々と朝食を取る。

「……なによこれ、こんなのしかできないわけ?」
「あ、え、ごめん」
「……いいわ。私、先出るから」

惣流さんは唐突にそう言うと、食べかけのトーストを残したまま出て行ってしまった。
やはり相当嫌われているらしい。
顔を合わせるのも嫌ということだろうか。

「あー、もう、どうしよう。学校、送ってあげたいんだけど、ちょっとどたばたしてて」
「大丈夫です。地図もありますし」
「ごめんね。話は通してあるから、まずは職員室にいってくれる?」
「はい」

そういった後、葛城さんもあわただしく支度をして出かけていった。
そして家には私だけ。
といってもすぐに出かけないといけない。
初めて着る、既に着古された制服に袖を通し、どたばたと荷物をまとめて、私も玄関を通り抜ける。

今日も空は青々としていて、太陽は早くもギンギンと照りつけている。
昔は四季というものがあったらしいけど、生まれてからずっとこの気候で生きてきて、日本から離れたことも無い私にはどんなものかよくわからない。
もう少し涼しければこの鬱陶しさも軽くなるのだろうか。
片手の地図と睨めっこしながら、どうでもいい思考にふける。

通学時間から外れていないはずなのに妙に人通りがまばらな大通り。
そのことが初めて通る場所を心細くさせていた。
はるか前方に同じ制服の子がいるのを見つけて少しほっとしたけれど。

何か不思議な街だった。
たくさんのビルがあり、道路も整備された計画都市。
なのに、静か過ぎた。
人がいない。
余りにも閑散としていて。
生活の香りの、活気の無い街。
そう感じるのは、私の心境を反映しているだけなのだろうか。

焼け始めたアスファルト、その照り返しの中、私は肌寒さを感じていた。



「えー、碇シンジさんですが、この度不幸な事故により……」

担任だという冴えない老教師に連れられて教室に入って。
そのまま私の状態の説明に入ったらしい。
なんでも、新しい医療技術で怪我は治ったけれど、代わりに記憶喪失になったとか、いくらなんでも酷いこじつけで思わず笑ってしまいそうだった。
別人だと言い張って姉妹だとか従姉妹だとか言うことにしたほうが楽じゃないかと思ったけれど。
それを認めてしまうと、彼女を碇シンジだと、本物だと認めて、自分は偽者になってしまうような気がして、譲れなかっただけだ。

それでもなお、私は記憶喪失の碇シンジであって、他の人の認識する碇シンジは私じゃない。
そんな私がクラスで受け入れられるか不安だったけれど、実際のところそれは心配以前の問題で、クラスメイトは両手で数えられる程度しかおらず、そのうち二人は知った顔だったのだから。
知らない人など、それこそ片手で数えられた。

この街は本当に人が少ないのだ。
いや、机だけはたくさん並んでいるから本当はもっといたのかもしれない。

――やっぱり、皆逃げ出したのかな。

今でも実感は湧かないけど、あんな化け物が攻めてくる所になど住みたくは無いだろう。
通学途中にも倒壊した建物が残っている場所があった。
こんなところにいたら、自分がその下敷きになったっておかしくないのだから。

老教師に促された先、元々自分が座っていたという席に向かおうとして、気がつく。
そこは惣流さんと、あの、アルビノの少女にはさまれた位置。
歩こうとした足は一歩で止まり、私は逆側の空いた席に向かっていた。
あんな場所に、座れるわけが無い。
惣流さんの強い敵意と、私自身の強い拒絶で、どうにかなってしまう。

他の子が不信そうな視線を投げかけているけれど、気にしないことにした。
人の中に埋れるには余りに人が少なすぎて、顔色を窺うにも少なすぎて、だから私は私の世界を作ることにした。
この広い教室で、干渉することも、干渉されることも無く過ごせれば。
そうすれば、こんな場所でも私は変わらず生きていけるだろう。

そんな考えがいかに甘いものだったか、すぐに痛感することになるのだけど。