Migraine



第拾弐話:心のかたち、人のかたち

真偽



――もう、戻れないのだろうか?

こちらに険しい視線を投げてきた彼女を見て、心が苦しくなった。

そう、苦しい。

こんな感覚を、明確に意識したのは初めてかもしれない。
例えば、自分がどのような存在なのかなどを話せずにいるのは辛かったが、今の感覚はそれとは別のもの。
今までの関係がなくなってしまった喪失感と、今目の前にある彼女への想いが、私の精神のバランスを狂わせているようだった。

碇さんは結局もとの自分の席には座らず、空いているほかの机に向かっていった。
病院で面会した時にも感じた、強い拒絶。
何故あの人は私をあれほどまでに嫌ったのか。嫌っているのか。
あの後何度も反芻して、けれど理解することは出来なかった。

――”その名前で、私の前にこないで!”

私の名前。綾波レイ。
碇司令がそう言ったから。
だから駄目なのか?
碇司令が、彼女の父親が名付けたから。
わからない。
名をつけられることが罪になるとでもいうのか。
ただの記号でしかないのに。

でも彼女は拒絶する。

あんなに大切な人だったのに。
こんなに大切に想っているのに。

――なぜ大切なの。

エヴァのパイロットだから?
そうかもしれない。けれど違う。

碇司令の娘だから?
そうかもしれない。けれど違う。

同じ瞳をしていたから?
そうかもしれない。けれど違う。

この想いは、心を埋めているこの想いは、そんな言葉で表すことは出来ない。
これ一つだと決定できる要素などありはしない。
もしかしたらすべてがほんの些細なことでしかないかもしれない。
しかし些細なことの集合体は、余りにも大きく、余りにも暖かで、柔らかで、優しかった。
何時の間にか、あの人は私の中で、そこにあることが当然であるほどに欠かすことの出来ない存在になっていたのだ。
変わってしまったといわれてもすぐには納得できないほどに。
今の彼女をすら求めてしまうほどに。

なんと自分は変わってしまったのだろう。
昔とは違う、そう自覚はしていた。
でもそこまで自分が違っているとは思っていなかった。
失われて初めて実感した、もう後戻りできない心の有り様。
あの人が見てくれない、それだけで……。

唐突に聞こえたチャイムの音に、授業が終了していたのに気がつく。
手元の画面は何もかかれていない、白紙のままだった。



「クラス委員長の、洞木ヒカリです」
「あ、はい、よろしくお願いします」

何かものすごく頓珍漢な会話に思える。
相手はよく見知った顔なのだから。

――でも、怪我も治ってるし、目も赤くないし、別人みたい。

その上記憶も無くしているのだから、本当に別人といってもいいのかもしれない。
いや、むしろそうあってくれればどんなに良かったか。

彼女の背中越しに、最後列の席の一つを見る。
鈴原はまだ、病院から帰ってきていない。
碇さんはその鈴原よりもずっと長く面会謝絶だったはずだ。

――なぜ、あなただけ帰ってきてるの?

二人に何か起こったらしいことはすぐにわかった。
病院での鈴原との会話、自分が碇さんに怪我を負わせたのだと、苦しんでいた。
だけど彼だって酷い怪我で、一命を取り留めたとか、そういった状態だった。
命こそ助かったけれど、彼の左足は失われてしまった。
何事も無かったかのように立っている彼女の左足を見て、ふっと浮かび上がる感情を慌てて抑える。

彼女の負傷が鈴原のせいであるなら、鈴原の負傷もまた彼女のせいであるはずだった。
なのになぜ、彼女は治って、鈴原は治らないのか。
同じ、エヴァのパイロットなのでは、なかったのか。

記憶喪失だという彼女にそんな思いをぶつけても意味が無いことくらい、わかっている。
だから何とか押さえ込んで、二度目の自己紹介。
でもそれ以上は、無理。

委員長として、やるべきこと、言うべきことは、伝えた。
だから、彼女に背を向けて、自分の席へ。

――ごめん、鈴原。

もう一度友達には、なれないから。
碇さんがすべて忘れているなら、忘れられたまま、離れたかった。



午前中の授業も終わり、ようやく昼休み。
といっても、もう以前のような活気は無い。
皆疎開していった。
トウジもいない。
あの3人も目に見える不協和音を立てていて、以前の様子は残っていない。

一体いつからこうも狂ってしまったのか。
いや、この街自体がはじめから狂っているのかもしれないが。
それでも、このクラスがこのような雰囲気になったのは、やはりトウジの一件からだろう。

情報によれば、新型のエヴァが暴走して、それを初号機が殲滅した。
それ以来、トウジも、碇さんも、学校に来れなかった。
初号機のパイロットは碇さんで、予備パイロットはトウジだけ。

わかってる情報だけで予測はついた。
トウジの見舞いに行って、予測がほぼ間違っていなかったとわかった。

その後に襲来した使徒との戦いでも初号機は目撃されている。
そこからでももう一ヶ月ほど経った。
その間、オヤジのパソコンにも何の情報も上がってこなくて、ただ、何かが起こったのだということだけが感じられる、不気味な状態が続いていた。

そしてようやく帰ってきた碇さんは、別人になっていた。
完治できそうに無い怪我がすっかりなくなって、記憶もなくなっているなど、それで本人といわれても誰が納得できるだろうか。
今の彼女は実はクローン人間で、本当の碇さんはもう、この世にいないといわれたほうが納得できそうな状況だ。
ネルフという組織の得体が知れないのもそんな想像に拍車をかけた。

だが、盗み見るように彼女を観察していて気がついた。

ふとした仕草。
何気無い一瞬の動きは、確かに見慣れた彼女のものだった。
表情も、その瞳も、まったく別人といえるほどに怯えているのに。
そんなところだけは変わっていないのだ。

――同じ、碇さんなんだな。

なんとなくだが、そう感じた。

だからだろうか。
彼女に話し掛けることが出来たのは。

「碇さん?」
「あの、えっと……?」
「俺は相田ケンスケ。元気ないね?」
「わからない事だらけで……」

彼女が語尾を濁したのは、それだけが理由ではないからだろう。
敵意丸出しの惣流に、委員長もあんな調子だ。
他の子だって戸惑いを隠せず、近づけずにいる。
彼女はクラスの中で見事なまでに浮いた存在になっていた。

――ま、気持ちはわかるけどなあ。

視線を合わせようとすると、すぐに目を逸らされる。
以前の彼女のように明るく振舞うならともかく、こうビクビクおどおどとしているのを見せられては、皆、近づきにくいだろう。
いや、もしかしたらそうなるのがわかっていて、わざと態度に出しているのかもしれない。
見知らぬ他人を近づけさせないために、自分を守るために。

「……しかしまあ、ずいぶんと変わったもんだね」
「ごめんなさい」
「謝る必要なんてない。それにさ、正直ほっとしてる」
「どういう、意味ですか?」
「なんつうかさ、普通の女の子だなって」
「え?」

今の彼女はとても、普通な人間だった。
確かに怯えていて、警戒していて、とても頼りないけど。
彼女の置かれている異常な状況で突然記憶を失えば、誰だってこうなると思う。

こうしてみると、以前の碇さんが異常だった。
あんなもののパイロットをさせられて、戦うたびに傷ついていって、それでもみんなを守るといって笑っていた。
そんな彼女は確かにすごくて、格好良くて、眩しかった。

だけどあるとき、ふと怖くなった。
碇さんが、消えてしまいそうに思えたのだ。
不思議に沈んだ彼女の瞳を見つめるたびに、一人静かに微笑んでいるのを見るたびに、そんな気持ちが深まっていった。
妙に大人びた、達観したような寂しげな雰囲気。
同い年とは思えない儚くて危うい印象が、彼女を際立たせていたのかもしれない。

だからあの使徒とか言う化け物がくるたびに、彼女の病室に見舞いに行くたびに、つらくなる。
彼女はこの街を、俺たちを守ってくれている。
けれど、守る対象の中に、自分自身は入っていないのじゃないか。
彼女の怪我は、まるで皆を守るために自分の体を生贄に捧げているように見えた。

だから怖かった。
それを受け入れられる、彼女の存在が、理解できず、怖かった。

戦闘。
怪我の酷さ。
死ぬかもしれないという事実。
それらとは別の恐怖、内面の恐怖だ。

彼女の生き様を認めるには、それはあまりにも自分から遠すぎて、だから今、ほっとしているのだろう。
今の碇さんは、自分に近いから。
ごく普通の女の子だから。
共感できる人間だから。

「だからさ、無理すんなよ」
「あ、うん……」

そんなことを言う自分に訝しげな目線を投げかけてきた。
少々人間不信になっているのか、変人とでも思われたのか、あるいはその両方だろうか。

「ああ、それと」
「なんです?」
「一応、友達だったんだ。これからもまた、よろしくな?」

そう言って差し出した右手。
困惑しながらぎこちなく握り返された彼女の手。
それは社交儀礼に過ぎなかったのかもしれない。
けれど、やはり以前と変わらない、小さな女の子の手だった。



ようやく一日が終わって、マンションにたどり着いて。
扉を開けても、まだ誰も帰っていなくて、私一人……いや、ペンギンが出迎えてくれていたけど。
ペンペンといっただろうか、ついてきた彼を撫でながら、荷物を放り出し、ソファに体を投げ出す。

――疲れた……。

体を伸ばし、筋肉をほぐすようにしてから、ふっと息を吐く。
無視されるのも、一人でいるのも、慣れているつもりだった。
それなのに今日はとても疲れていた。

知らない場所での、新しい生活だからだろうか。
知らない人ばかりで、知らないことばかりだったから。

私が私で無い状態で暮らした時間は、十分に長すぎたのかも知れない。
例えば授業の内容がまったくわからなかったりしたけれど、それだけじゃない。
私はまた、一人ぼっちになるはずだったのに。
私ははじめから皆に知られていて、はじめから一人になれなくて。
向けられていた戸惑いや敵意は、感情というものをぶつけられることそのものになれていない私の精神を削っていった。

ふと、右手を見つめる。

――握手、かあ。

何時振りだろうか、そんなことをしたのは。
そもそも、男の子に触れたことすら殆ど記憶に無い。

相田ケンスケ、眼鏡をかけた変な男の子。
どこのクラスにでも一人はいそうな、趣味に生きているといった感じの子だ。
以前は友達だったというけれど、前の私は彼の何を気に入ってそんな関係になったのだろうか。

――普通の女の子。どういう意味だろ。

私自身は自分は普通の女の子だと思ってるし、そう振舞ってきたつもりだ。
以前は目立たないように座って、勉強もそれなりに、普通の子とたわいない普通のことを話して。
どこにだっている、自己主張をしない子、いてもいなくても変わらない子、そんな風に生きてきた。
しかし彼の口ぶりから察すると、前の私はそうではなかったのだろう。

少し離れたところに転がった鞄に手を伸ばし、中から封筒を取り出す。
帰り際に、彼が手渡したものだ。

曰く、「秘蔵の品で、商売にも使ってない」ものらしい。

一度道中にちらりと確認して、すぐにしまいこんでしまったそれは、私の写真。
たわいも無い日常の一コマのようだった。
これのどこが秘蔵の写真なのか。
気になって、今度はじっくりと、一枚ずつ観察してみた。
撮っている場所もまちまちで、特に共通するものは無い。
服装や怪我をしている時があったりと、細かい所は違うけれど、どれも私。
大きく違っているのは、ただ右の瞳が赤いということ。

――変な感じ。でもそれだけ……

そう思った瞬間に、ぞくりと寒気がした。
なんだ?何が?

――そうだ、この瞳だ。

赤いから?
そうじゃない。
この感覚は、もっと別の何か。

別の写真も確認する。
次の写真も、その次も。
やはり全部、同じだ。

私の瞳が見ている先が、わからない。
どこまでも遠く、壁の向こう、空の向こう、もっと先まで見ているような。
ただの写真なのに、軽く微笑んでいるようなのに、とても静かで、深くて、思わず泣き出してしまいそうになるほど、悲しい。

そして思い出した。
あの悪夢の中の出来事を。
同じ瞳をした自分を。

そしてようやく納得した。
終わりの世界にいた彼女が、私の代わりに、私として生きてきたのだと。
守るといっておいて逃げ出して、それでもまた守るといって、結局私を放り出したあの子が。
こんな状況になっているのも、彼女のせい。
面倒事だけ残して、いなくなった。
酷い子だ。

――なのに、憎めなく。

憎んでやりたいのに。
あいつのせいだって、逃げたいのに。

受け入れることなんて出来ないし、よくわからない彼女への恐怖も消えはしない。
それなのに、憎めない。
彼女の痛みに、触れてしまったから。

悲しみも、絶望も、希望すら痛々しくて、そんな世界を私は想像することすらしたくなかった。
今にも壊れそうなのに、消えてしまいそうなのに、そんな子を憎むことまでは私には出来なかったのだ。

でも、それじゃあ私はどうすればいい?
この苛立ちと虚しさを、どこにぶつければいい?

まだ隣にいたペンペンの頭を、ごしごしと撫でてやる。
迷惑だったのだろうか、彼はすぐ、私から離れてしまった。

――私は、何をやっているんだろう。

出口の見えない、けれど決められてしまった道。
私は、自らの意志でそこから抜け出すことはできなかった。


その日、葛城さんはネルフに泊り込みで、帰って来れなかった。
そして、惣流さんもまた、帰ってこなかった。



「何故、君がここにいる?」

不覚にも、思わず声が出てしまった。

物事を隠そうとすれば、何かしらの痕跡が残る。
消したという行為そのものを消し去るのは困難だからだ。
それを丹念にたどり、真実にたどり着くこと、それが俺の仕事の一つであり、また真実を知ることは俺の生きる意味でもあった。
そんな中で驚くべき状況というのは幾度もあったが……。

ターミナルドグマと呼ばれる最下層の一角、病室のようなそこに。
碇シンジ、それも、失われたはずの赤い右目を持つ彼女がいた。

「加持、さん?」

唖然とした表情でそう呟く彼女だが、唖然としているのはこちらも同じだ。
碇シンジはサルベージされ、その際に肉体も修復されて、今は葛城のところにいるはずだ。
だが目の前にいるのは俺のよく見知った、痛々しい姿のままの彼女。
これが幻で無いならば、碇シンジが二人存在することになる。

――まさか、どちらかがクローンだとでもいうのか。

なんにしても、上からの情報には無かった事項だ。
これまでの調査から予想されうるシナリオ、そのどれとも異なる状況。

世界の流れ、そこに落とされた小さな波紋が、気がつけば大きなうねりに変わろうとしている。
俺の直感がそう告げていた。

――そろそろ、潮時か。

決断すべき時は、近づいているようだった。