Migraine


第拾参話:Identity

いない


昨日も彼女は振り向いてくれなかった。
今日も彼女は振り向いてくれなかった。

学校の教室でも、ネルフでの訓練の時でも、何処かですれちがっても。
私が顔を向けると、彼女は顔を背ける。
近づこうとすれば、離れていってしまう。

触れることも出来ない。
声をかけることすら出来ない。
この気持ちを、どうすることも出来ない。

『レイ。今日はもういいわ。訓練終了よ』
「はい」

スピーカーからの声に反射的に答えて、それでシンクロテストが終わったことに気がついた。
ここのところ、何をしていても気がつくと上の空で、彼女のことを考えていた。
シンクロテストの結果も安定を欠き下がり気味だということだが、そのことすら今の私にはたいした意味などないように思えた。

エヴァは私のすべてであったはず。
それなのに、改善しようとする気も起きず、ただ義務としてこなしている。
自分の存在理由すらどうでも良いと感じるなど、私はどこか壊れてしまったのだろうか。
そうなのかもしれない。
私は人ではないのだから。

既に誰もいない更衣室で着替えを済ませ、帰路につく。
皆、自分の訓練が終わると早々に帰ってしまうようになった。
昔は碇さんが私たちを待っていて、私たちが碇さんを待っていて。
特に何かしてたわけじゃない。
アスカがとりとめも無いことを話して、碇さんが相槌を打って、私はそれをそばで見ていて、そのうちに別の道になって、お別れをするのだ。
ただそれだけで、一人でも私のしていることは変わらない。
ただ帰るだけ、それだけのはず。

――でも違う。

彼女がそばにいない。
彼女を感じられない。
その喪失感が私を支配していた。

色付いていたはずの世界も、感じられなくなった。
昔のような、静かなモノクロの世界。
昔とは違う、そこで凍えそうな私。
その中をただ黙々と歩く。

そしていつもの交差点。
そこを渡って、二人と別れる。
今は一人で、その場所に意味なんて無い。
だからただ黙々と歩く。

また意識を現実に戻したのは、何かがぶつかった肩と、すりむいた膝の痛み。
気がつけば、目の前にアスカの顔があった。



「この馬鹿!何やってんのよ!」

体を起こすと、アスカから思い切り怒鳴られた。
その場所は横断歩道の中ほどを少し過ぎた辺りで、どうやら私は赤信号を渡っていたらしい。
すぐそばに、急ブレーキでゴムの焼ける嫌なにおいをさせたトラックが止まっており、黒服を着た人たちが駆け寄ってくるところだった。

つまり私があのトラックに撥ねられかけたのをアスカが助けてくれたということか。
一歩間違えば自分も巻き込まれかねない危険を冒して。

――私が死んでも代わりはいるのに。

私は彼女たちとは違う。
肉体の死は、拘束される器が変わるだけのことだ。
そんな私のために危ない目にあうことなど無いのに。

まだ怒鳴り続けている彼女を眺めつつ、そんなことを考える。
適当に相槌を打つが、色褪せてしまったこの世界で、何かに関心を持つということができなくなっていた私は、彼女の剣幕を前にしても言葉の意味を理解する気にはならなかった。

「それじゃ、また」

体の痛みはそれほど酷いわけではない。
いつもの別れ際の言葉を残して、その場を去ろうとした。

「待ちなさいよ」

けれど彼女の一言とともに腕を掴まれて、私は歩みを止められた。

「今日は私と一緒に帰りなさい、いいわね?」
「なぜ?」
「なんでもいいから!黙ってついてくればいいのよ」

そういうと返事も待たずに彼女はぐいぐいと私を引っ張っていく。
私を連れて行くことにどんな意味があるというのか。
そう考えては見たが、だからといって抗おうという気も起きなかった。
今やるべきことは決められていない。
なら、彼女の好きにさせてもいい。

意志を欠いたそんな理由でアスカに引っ張られて、進む先。
その道が碇さんのところとは違うことに気がついた。

着いた玄関、その開けた先には、見知ったクラスメイトが困惑気味に立っていた。



「沁みたりしない?」
「大丈夫」

洞木さんの問いかけに答えながら、傷の手当を受ける。
何箇所かの擦り傷は丁寧に消毒されて、ガーゼを当てられていた。

――なぜ、ここにきたの?

何度目かの疑問が泡のように心に浮かぶ。

アスカは碇さんとともに、葛城三佐のところに住んでいたはずだ。
それなのに、なぜそこには帰らないのか。

けれどふと、そのことを残念に思う自分と、安堵している自分がいることに気がついた。

――私はあの人に会いたい?それとも、会いたくないの?

もう、そんな自分の気持ちすらわからない。

もしかしたら、アスカも碇さんに会いたくないのだろうか。
だから帰ろうとしないのだろうか。
ここのところ二人の雰囲気は険悪だった。
アスカもまた、碇さんから拒絶されているのだろうか。
私と同じに。

そう思って、隣で手当てを受けている最中のアスカを見る。
わざわざつれてきたというのに、彼女は何か話すでもなく、ただその表情が時折こちらを伺い、変化するのみだった。

彼女が何を考えているのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。
洞木さんだけがどたばたと動き回って、忙しそうに用事を済ませて、私たちに夕食を用意し、たまに一緒にいたかと思うとすぐに別の用事を始めてしまう。

きっと、彼女は私たちといるのがつらいのだ。
黙っているのに耐えられず、けれど何もいえないから、何かやれることを探してああして走り回っている。
あたふたとするその様子が、なぜか碇さんとかぶった。

そうだ、碇さんはいつもどこか必死で、要領がいいわけでもなく、変なところで抜けていて、だからよくどたばたとしていたという印象があった。
今の洞木さんの行為が逃避に当たるならば、碇さんもなにかから逃れようと足掻いていたのだろうか?

――馬鹿な考えだ。

感情の高ぶりを押さえて、意味の無い連想に終止符を打つ。

もうどのくらいまともな会話が無いだろうか。
今は洞木さんの部屋で、三人でベッドの端に座り、ただじっとしていた。
この静寂は私にはありがたい。
何もしゃべらなくていい、何もしなくていい。
できることならなにか考えることすらやめてしまいたいのだ。
ただ、誰かの言うとおりに従って、生きるという作業を黙々とこなす。
そうしていれば辛いと言う感覚すら感じなくてすむ。

私はそうやって均衡を保っている。
だから、帰らないとならない。
それが規則だから。
そこに思考をはさまず、従っていなければならなかった。

「もう、帰るわ」
「あ、ちょっと、待ちなさいよ!」

そういって部屋を出て、玄関を抜けて、帰路に着く。
引き止めるように出てきたアスカは、けれど私に何かするでもなく、少し後ろをついてきているようだった。
そのことを咎めなかったのは何故だろうか。

まばらな電灯の明かりの中をくぐり、開発区の割り当てられたマンションの一室。
その扉の奥にまで、彼女は当然のように入ってきたのだった。



衣服を脱ぎ捨て、ぬるま湯のシャワーを浴びる。
住居に帰ってからの私の日課だった。
招かざる客が来ているからといって、それを変える気は無かった。

LCLとは違う、液体が体を伝い、弾ける、この感覚が私は好きだ。
汚れを洗い流すとともに、自分自身の形を顕わにしてくれるようで。
自らの内と外を隔てる境界を感じ取り、心が安らぐ。

いつまでも、何も考えず、その感覚に身を任せて、どのくらい経っただろうか。
シャワーを止め、バスタオルで体を拭きつつ、いつものように部屋に戻る。
そしてそこでようやく、彼女のことを思い出した。

断りも無く人のベッドに座っているアスカ。
少し落ち着いていた心は、途端に現実に引き戻され、けれどそこに現実とはちがう光景が混ざる。

――碇さん……。

それは過去の幻燈。
状況が、記憶を呼び覚ましたのだろうか。
うずくまっていた彼女の姿が、アスカの足元あたりに、一瞬、鮮やかに再現されていた。
それは当時のままの、もしかしたらそれ以上の色彩で、薄暗く灰色の現実を押しのけて存在していて。

「……服ぐらい着てから出てきなさいよね」

そんな指摘も、どうでもよかった。
ただ、私の五感のすべてがあの時を思い出し、あの時の感情が、今の想いが、湧き出してきた。

――いけない。ダメ。

噴出しそうになったそれを何とか押し留めようと、両肩を抱き、かかったタオルを握り締めて、それでもだめだった。

「ちょっと、レイ、どうしたの?」
「前に、碇さんが……」

ああ、私は何を話しているのだ。
彼女に話す意味など、ないはずなのに。
だけど捌け口を捜していたそれにとって、こぼれてしまった言葉は絶好の綻びだったらしい。
止めることなど、もう出来なかった。

「前に碇さんがここにきたとき、あの人はその場所で震えてた」
「どういうこと?」
「……わからない」

首を横に振りつつつぶやいた一言は、既にアスカへの答えではなく、自分自身への問いかけに変わりつつあった。
何故碇さんがあのようになっていたのか、それは今でもわからなかった。
わかっているのは、あの時彼女が何かの恐怖にとり憑かれていたということだけ。

「でも」

でも覚えている。

「私に掴まり続けていたあの人の手は、温かかった」

彼女の震えは伝わってくるほどなのに、触れ合った部分から感じる人の熱は、温かかった。
その場所から私の中の何かが溶けていくような、不思議な安堵感が広がっていったのだ。

あの時、碇さんも私の熱を感じていたのだろうか。
碇さんも同じように感じて、だから離れることができなかったのだろうか。

あの人に必要とされている、そう感じていた時間。
あの人と離れたくない、そう感じていた時間。
あの人が私の中で、大きくなっていった時間。

それからも彼女は私にとってより大切な存在として認識されていった。
気がつけば、私の存在理由を疎ましくすら思うほど、大切な人になっていたというのに。

それなのに。

「どうして今は触れることも出来ないの?」

それだけで私は安らぐのに。

「どうして今は声をかけることすら出来ないの?」

それだけで私の不安は消えるのに。

「どうして……」

意識せず漏れていた言葉が、かすれて、消えた。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

どうして、碇さんは変わってしまったのだろう。
優しかったあの人は、私を見てくれたあの人は、どこへいってしまったのか。
記憶が失われたといわれても、それでも私にはわからなかった。
私と会った時だって、あの人は記憶がなくなった後じゃないか。
もう一度同じ関係に、何故なれないのか。

わからない。
こんなに苦しいのに。
どうすればいいのか、わからない。

そんな私の様子を見かねたのだろうか。
唐突にアスカが、叫んだ。

「レイ、あれはシンジじゃないの、もう別人なの!」
「……なにをいっているの?」

別人?
何の事だ。
碇さんは碇さんだ。
私が綾波レイであるのと同じ。

「だって、何処も怪我もしていないじゃない。なにもおぼえてないじゃないの」
「でもあの人は……」
「もうシンジはいないの!」

そんなはずはない。
学校にも、訓練のときにも、あの人はいた。
たとえ変わってしまったとしても、碇さんはそこにいる。
いなくなったりなんかしていない。

「いるわ」

だからそう反論して、でもどうしてだろうか。
流れる涙が,量を増しているのは。
体を支えきれないほどに,心が重たいのは。

「あの人は、いるわ」

そういって、なんとか座り込まずに耐えて。

「いないのよ!」

ふらふらの私に、アスカが叫びながら飛び込んできた。
彼女の顔は見えない。
私の胸に埋めるようにしていたから。

「……いないのよ、もう……」

彼女の声もまた、かすれていた。
ふれあった素肌に感じる、濡れた感触と、熱く火照った人の熱。

私を支えていた、最後の部分が,崩れ落ちて。

いつしか私もアスカも膝をつき、抱きしめあっていた。