Migraine



――ごめん。

また君を、巻き込んでしまう。
そこにいるはずの、もう一人の僕。
守るって約束したのに、破ってばかりだ。

――でも僕は、諦められない。

たとえこの先に、未来など無かったとしても。
それでも僕は、見過ごす事なんて、できない。

みんなを守ると、約束したのだから。

第拾参話:Identity

そこにいるもの


「せ、先輩、初号機が!」
「これは……司令!」

マヤの叫びにすぐ状況を確認すると、碇司令に判断を促す。
ケージ内で待機中の初号機が、こちら側の制御を無視して起動したのだ。

「第一および第二ロックボルト全損、拘束がもう持ちません!」

――全く、無茶な事を……。

ごく一部にしか知らされていないが、あの初号機には現在二人がエントリーしている。
正規のパイロットとして搭乗している碇シンジ、そして、碇レイ。
彼女の存在を秘匿しつつ、緊急時にはその力を用いるための、極秘事項だ。

エントリーの方法は笑えるくらい簡単。
タンデム型のエントリープラグを改造し、正規のパイロットシートとは別にもう一つ部屋を作ったのだ。
要は二重底になっているのである。
タンデムプラグのシステムもそのまま搭載されている。
つまり、”碇シンジ”を利用して、過剰シンクロを抑える事を視野に入れているのだ。
尤も、そのことで彼女達にどのような影響が出るかはわからない。
極秘故に実験データは取る事ができなかったのだから。

それでもこの方法を強行した碇司令。
二人とも、仮にも自身の子供だろうに。
何も感じていないのか、それとも、とり憑かれているのか。

しかし今はそんな感傷に浸っている暇は無かった。

「初号機をカタパルトへ。地上へ射出しろ」
「司令、初号機は凍結では!?」
「ここを無駄に破壊するわけにもいかん。凍結は一時解除、発進だ」

ミサトの疑問を軽く流して、司令官権限で初号機の凍結が解除される。
そもそも凍結という言葉自体、上の組織をごまかすための詭弁に過ぎない。
初号機の力を持ってすれば、物理的な拘束などさしたる役には立たないのだから。
そこにパイロットを載せている時点で、上辺だけの約束事でしかなかった。

こちらの意図を理解したか、大人しくなった初号機。
その内側から聞こえてくる声。

『なに、これ、私は、何も……』

混乱し、おびえた様子のシンジさんの声が漏れる中、私の端末にだけ繋がった、秘匿回線から届いた一つのメッセージ。

――ごめんなさい、か。

誰に対しての詫びだろう。
私か、碇司令か、ミサトか、彼女の分身か。
その相手が誰であろうと、本来は我々こそがその言葉を言うべきなのだけれど。

――ごめんなさい。

弾き出されるように射出される初号機の映像を見ながら、心の中で、その言葉を反芻した。



「なに、これ!」

それは光。
MAGIからの合成情報により作り出された照準に、突如、光が溢れた。
それが視界を包み、弐号機を白く染め上げるとともに、感じた悪寒。

全身の皮膚が粟立つ。
内臓をえぐられるような感覚。
私の頭の奥が、かき混ぜられていく。

――ひっ、嫌!

光のスペクトルが変化する度に、引きずり出される記憶。
表層のたわいもないものだけでなく、もっと奥、奥深くまで。
近づかれたくない、近づきたくない部分に、光があたる。

「いやっ!私の中に、入って、こないで!」

安定にほど遠い弐号機をインダクションモードで強引に動かし、引金を引く。
ただ目標を狙って、一発、二発、三発。
今私にできる唯一の抵抗だった。
しかし、放たれた陽電子の光は、目標に到達する前に消え失せる。
この距離、この角度では、そこにたどり着くまでの大気の層が厚すぎるのだ。
空気中の物質と無計画に対消滅して、すべてのエネルギーを使い果たしてしまう。

「ちく、しょう……」

だめだ。
扉が、破られる。
堅く固く閉じ込めていたのに。

――やめて!

私のすべてが変わってしまった、あのときの記憶。

――ママ!

人形になったママ。
他人になったパパ。

――助けて!

一人になった私。
一人で死んだママ。

――ママ!

だから一人で生きていける。
だから、私を見て。

――助けて。

悲しい記憶、つらい記憶、嫌な記憶、忘れたい記憶。
全部覗かれる。
全部暴かれてしまう。
全部知られてしまったら、私は、私を保てなくなってしまう。

もう、だめだと、そう思った。

けれどそのとき、ふっつりと、光が私を撫でるのをやめた。
何かが光を遮って、私に影を落としていた。
そこから感じる、柔らかい印象。

――ママ?

違う、そんなわけがない。
光を背に受けているのは、紫の巨人。
初号機が、私の前に立っていた。



動かない。
動かせない。
とめられない。

これはなんだ、何が起きているのだ。
訓練では、シミュレーションでは私の思ったように動くエヴァが、今は完全に私の制御を離れている。
パイロットの意志とは無関係に動く機械など、恐怖以外の何物でもない。
事実私はパニックに陥って、がむしゃらに操縦桿を動かしていたのだけど、それはエヴァの動きに何ら影響を与えていないようだった。

――うん?違う、これは、誰?

無関係、とは言ったが、私はエヴァの動きに、明確な意志を感じていた。
それだけじゃない。
エヴァを動かしている意志、その心の痛みまで、私は感じていたのだ。
ぼろぼろで傷だらけの、破れそうな心が、内側から痛みを、はじけそうなほどの悲痛さを伝えてくる。

私は知ってる。
これは、そう、あの子だ。
もう一人の私。
もう一人の碇シンジ。
私の世界を無茶苦茶にした、ひどい人。
私を守ろうと必死になってくれた人。
憎い人、憎めない人。
あの人が、エヴァを動かしているのか。

一人放り出されて考える余裕など無かったけれど、彼女はあの後、どうなったのだろうか。
まだ、あの平坦な悪夢の中に閉じ込められているのか。
あの男の子と一緒に。

気がつくと私は少し冷静になっていて、もう動かないエヴァを無理に動かそうとは思わなかった。
それは今エヴァを動かしている意志の正体が分かったからかもしれないし、単に諦めがついたからかもしれない。
リニアカタパルトの加速を感じながら、考える。
どうせじたばたしたところでどうにもならないのだ。
今はあの人に任せるしか無かった。
たとえ信頼なんてできなくても、私を守ろうとしてくれた、あの人を信じるしか。

地上に射出された初号機は、降り注ぐ光の中に飛び込んでいく。
悶える弐号機の前に立ち塞がり、光を通すまいとして両手を広げ、影を作る。
それが無茶な行動である事くらい私にもわかる。
先ほどまで弐号機を責め立てていた光は、初号機の背を照らし、その心を、彼女の心を、焦がし始めた。

「無茶よ、やめて!」

先ほどの一時の落ち着きなど、すぐに何処かへ消えてしまった。
あの光が彼女の心を蝕むのが、壊そうとするのが感じられたから。
それなのに光が私に届かぬよう、留めているのがわかったから。

だけど私には何もできない。
エヴァを動かす事も、彼女を守る事も。
ただできるのは、耐えきれない想いを、叫び、吐き出す事だけだった。



――シンジが、私を助けてくれた?

初号機を見てそう思い、一瞬ほっとして。
すぐにそれに乗っているのがシンジじゃないのだと気付く。
そうだ、あいつは、あいつに助けられるなんて、あってはならないことだ。
そう考えると、心を暴かれる痛みすら凌駕する怒りが込み上げてくる。

――あいつに助けられるくらいなら、死んだ方がましよ。

そんな思いから怒鳴りつけようと回線を開いた直後、異変に気付いた。
向こう側から繰り返される、静止の言葉。

『やめて、お願い、もうやめて!』
「なにをいって……」

彼女の喚きように対して、初号機はぴくりとも動かない。
両手を広げ、私に被さるような姿勢を崩さない。
叫び続ける彼女と、沈黙を守る初号機。
ここに至って、私は初号機が彼女の制御下に無い事を知った。

「じゃあ、暴走?でも、これは……」

暴走したエヴァが、私を守ろうとするだろうか。
こんなにも優しい存在であるだろうか。
光を背負い、半ば影色と化して見える紫の装甲。
遮られた隙間から、まれに漏れて私に触れる光に含まれる、誰かの心の残滓。
薄いガラスのように繊細で、朧げな、張りつめた糸のような必死さと、包むような優しさと、常闇の中の孤独さと悲しみ、そんなのが一瞬ごとに私をかすめていく。
私に届く光にはもう、荒々しく心に踏み入ってくる力は残っていないようで、代わりに責苦を受けているであろう心の断片のみが伝わっていた。

そこから感じる、守ろうとするひたむきさと優しさ、それは私が良く知っているもの。
そこから垣間見えるのは、暖かだった日々の欠片、懐かしい記憶。

あり得る筈がない。
彼女はもう、いなくなったはずなのに。
そう思っても、私はもう、その存在を否定できない。

そう、シンジが、守ってくれている。
シンジがあれを動かしてるのだと。

ただ、そう認識しただけなのに。
ああ、今まで必死に食い止めていたのに。

私の心はあっさりと決壊して、涙となってLCLに溶けていく。

「バカ、シンジ、なによ、いなくなったと、おもってたのに……」

シンジがいなくなって以来張り詰めていた何かが、ぷっつりと切れてしまった。
それはシンジの代わりに現れたあの子への反発だったり、エヴァのパイロットとしての重圧だったり、または自分自身への苛立ちであったりした。
そんなものから開放されて、私の心は丸裸になっていた。
そんなものが全部折れてしまって、私は私を支えられなくなっていた。
そしてそこに、彼女の記憶が追い討ちをかける。
世界が終わる、イメージ。

――なに、なんなのよこれ?

人が死んでいく。
人が溶けていく。
世界が壊れていく。
全部が溶けて、赤い海になって。
一人世界に取り残される。
永遠に。

これは本当にシンジの記憶なのか?
あの使徒が私たちを惑わそうと見せているのではないか?
先ほどまで味わっていた苦痛を思い出す。
あの光が心を覗き込むとき、体の奥を抉り取られるような、耐え難い嫌悪感と痛みを私に与えてきた。
そうやっておいて人の記憶の古傷に塩を塗りこむことまでしてくれるのだ。
この光景がそのような行為の一種であってもおかしくない。
悲惨な、凄惨な光景。
何よりも絆を大切にしていたシンジにとって、酷くつらいものだろう。

だけど時折伝わる彼女の心は、それに動じる様子も無い。
誰もが動揺し、否定したくなる世界を見せ付けられても、揺れることなく、動くことなく、そしてまた、初号機も私を守ったまま、揺れ動くことは無かった。

シンジはそれほど強かっただろうか。
こんな物を見せ付けられても平然と戦える彼女に驚嘆しかけて。

「っ!駄目、もういいから!逃げて!逃げてよ!」

気がついてしまった。
伝わってくる気配が、徐々に遠のいていくのを。
彼女が闇に呑まれていくのを。

よく見れば、シンジの心はもう傷だらけで、傷つけようがないほどにぼろぼろで、揺れる事すらできない、穴だらけの風船みたいな状態で。
ただ、たくさんの傷から、彼女の中身が流れ出し、消えてゆく。
降りしきる雨が初号機を伝い流れ落ちるとともに、彼女の心も、流されていく。

「お願いだから、もうやめて……」

弐号機は動かない。
動ければ、シンジを強引に連れ帰るのに。
動ければ、シンジだって逃げられるのに。
覗かれ、狂わされ、乱された私の心はぐちゃぐちゃで、弐号機とほんの少しすら同調できないでいるのだ。
こんなにも動かしたいのに。
こんなにも、助けたいのに。
こんなにも、私は、無力で。

ついに私は、他人に頼った。

「だれか、お願い、シンジを、助けて!シンジが、シンジが、消えちゃう!」

――誰か、私を助けて。



碇さんの、アスカの叫びを、私は傍らで唖然としつつ聞いていた。
ポジトロン・ライフルは未だ射程外。
だからといって初号機のようにあそこに飛び込む事はできない。
頭の中の何処か冷静な部分が私を制止している。
けれど、ならば私に何ができるのだろう。
エヴァに乗っていながら、他の人々と変わらず、私も無力だというのか。

大切な人を、大切な絆を、目の前で失えというのか。
もうこれ以上、私は絆を失いたくはなかった。
もっと無くしてしまったら、私は人形になってしまう。
私が、私を保てなくなってしまう。

そんな焦りが、パイロットとしての判断を放棄させ、彼女達に駆け寄りそうになった、そのとき、司令部からの命令が届いた。

『レイ』

その声は、始めに私に絆をくれた、碇司令。

『ドグマを降りて、槍を使え。急げ』

槍。

その単語の意味を理解したときには、既に零号機は私の意志に従って近くの回収口に滑り込んでいた。
全力で降下するリニアカタパルトの速度にすら苛つきながら、思考を反芻する。
槍、ロンギヌスの槍。
それはATフィールドを食い破る力を秘めた、聖なる槍だ。
槍の力に触れればATフィールドは無へと帰して、存在が消滅する。
それが使徒だろうと、エヴァだろうと、ヒトだろうと。
使徒に対する切り札とも言えるこの槍が、今まで使われなかった理由はわからない。
私に与えられている情報は、従うべき命令に付随した程度のものなのだから。

セントラルドグマに到着したリフトから、さらにシャフトを降下機を使って下る。
深い穴の底に地面を認めると、到着を待たずに飛び降り、巨大なシールド状の扉へ駆け寄る。
発令所からの操作だろう、既に半分開いたそこへ体をねじ込むようにして入ると、その奥には、LCLでできた巨大な地底湖と、中央に磔にされた、白い巨人が佇んでいた。

ターミナルドグマ。
ネルフの最新部に位置するその場所で、槍は巨人の胸を貫いている。
私が作業し、封印したそのままに。
LCLに腰まで浸からせて、槍を力任せに引き抜くと、エヴァの全長よりなお長い、螺旋状の柄を持つ二股の槍が、その異形をあらわにした。
と、同時に、妙な形でぶち切れていた巨人の足が、瞬く間にその体躯にふさわしいものに再生する。
恐るべき力を持つ槍と、禁忌の力を秘めし巨人。
その両者の力をもって力を相殺していた封印、それが解かれたのだ。
このことがどんな意味を持つのか、など、考える意味は無い。
考える、余裕も無い。
今はただ早く、一刻も早く地上へ。

『お願い、誰か、誰か……』
『もう、嫌、こんなの、嫌あ!』

悲痛な声を上げ続けていた二人の声は既に掠れて、弱々しいものに変わっていた。
移動のための、自らの意志ではどうにもならない時間が酷くもどかしい。
最後の、地上へと出るカタパルトの上で、出口を、その先の空を、さらに外側にいるであろう使徒を睨みつけ、零号機の筋肉をぎりぎりまで引き絞って。

『レイ、放て!』

スピーカーからの一声と、周囲が闇から抜け出たのと、エヴァの持てる力すべてが解放されたのは、まさに同時だった。

雲を通り越して初号機と弐号機に降り注ぐ光の帯をねじ曲げて。
垂れ込むような雨雲を、周囲の大気ごと吹き飛ばして。
槍は私の意志を受け、力そのものとなって使徒へ向かう。
追跡が困難なほどの超高速で大気圏を突破し、衛星軌道上の使徒をとらえる。
光る使徒は、その動きをほんの少しすら妨げる事ができなかった。
ATフィールドも、その肉体組成も、ロンギヌスの槍にとっては薄紙以下のものでしかなかったらしい。
次の瞬間には使徒は跡形も無く消滅し、槍は、何事も無かったかのようにそのまま飛び去っていった。

『し、使徒、消滅しました!』

発令所から聞こえる、興奮気味のオペレーターの声。
その裏で、枯れ果て、啜り泣いている二人の声が、静かに響いていた。



光源を落とした司令室に、12のモノリスが浮かび上がった。
ネルフの真の上位組織である、ゼーレの老人達だ。
自分たちを人類の指導者と勘違いした、哀れな俗物達。

『碇、なぜ槍を使用した?』
「使徒殲滅のためには、やむを得ない処置でした」
『それだけではない。無断での初号機の凍結解除もだ。貴様の横暴は目に余るぞ』
「我々の設備では完全にあれを抑える事はできません。仕方の無い事です」

01とナンバーを振られたモノリスが、私の行動を咎めてくる。
その実体はゼーレの実質のトップである、キール・ローレンツ。
彼に認められたからこそ私はこの地位にいると言っても過言ではない。
ここで彼を裏切る事は、私の立場を危うくする。

――裏切る、と言うのは適切ではないか。

私にとっては彼らとて利用すべき相手でしかない。
現に、彼らの考える計画と、私の考える計画は別の物だ。
始めから我々は同じ道を歩いてはいない。

『失われたものは取り戻せない。だが、初号機は我らの手にある』
『左様。制御できぬというなら、こちらにも用意がある』
『碇、あれは玩具ではない。貴様の娘に任せておくわけにはいかん』
『我らゼーレの見いだした新たなチルドレンを初号機パイロットとせよ』
『反論は認めん。忘れるな。次は無いぞ』
「……はい。了解しました」

老人どもが実力行使に出たか。
机の審議中と書かれたランプが消え、部屋の明かりが灯る。

――奴らも焦り始めたか。

軽く息をつくと、今後の行動を思案する。
こちらはまだ焦る事は無い。
なんであれオリジナルの槍は失われたのだ。
慎重に、確実に事を進めていけばいい。

ふと、自分の端末に秘匿回線経由でのメッセージが来ている事に気がつく。
赤木博士からのその内容を目にした時、老人とのやり取りの中でも冷静に計算を続けていた思考が停止した。

気付けば、私は端末を床に叩き付け、それでも吐き出しきれない感情を机にぶつけていた。

<<碇レイは昏睡状態から回復せず。重度の精神障害の疑いあり>>

わかっている。
これは、私の責任だ。
こうなる可能性をわかっていながら出させた、私の責任なのだ。
なんと不甲斐のない父親か。
これほどまでの権力を手にしながら。

――私は無力だ。

だがまだ、終わっていない。
すべてが終わるまで、力なき私たちは、彼女らに頼るしか無いのだ。
子供達にそんな事を託した責は、私にある。
彼女らにどう責められようと、仕方が無いと、わかってはいるのだが。

――私は、正しい道を進んでいるのか?ユイ。

歩みを止めそうになる、自分の弱さを呪った。