Migraine


――全く加持君たら、相変わらず危ない事しておくわね。

あまりの事に、脱力してしまった。

これは、足跡だ。
彼がたどったと思われる情報、その極一部にだがほんのわずかな改変の跡を見つけたのだ。
巧妙に、或いは大胆に、行く先々でふと現れる彼の残した小さなメッセージ。
それぞれを個別に見ただけでは改変自体がわからないほどのものだが、同じ情報を、同じ手順で、同じ物を探している人間にはかろうじて見えてくる、そんな物だ。

それでもMAGIが総力をあげて調べればばれる可能性が高いだろう。
そんな物をわざわざ残していくとは、ある意味で彼らしくなく、またある意味でとても彼らしい所業だった。
ともあれおかげで情報の選別は予想を遥かに超えるペースで進んでいた。
点在する足跡を追いかけて、膨大なデータが絞り込まれる。
それらが示すベクトルが、徐々に重なり、ある一点へと収束していく。
その先にあったもの。
その名前に、私は一瞬自分の目を疑った。

『Children No.-、被験者名 碇レイ』

第拾四話:終わりの始まり


彼は一体、何を言った?
渚カヲル、彼は私に、何を言ったというのだ?

――好意に値するよ。

好意ってなんだ。

――好きってことさ。

好きって、どういう意味だ。

肌が触れ合いそうな距離で異性に見つめられるなど、今までにあっただろうか。
好きなどという言葉をかけられた事など、記憶の何処かに残っているだろうか。

脳みそがぐつぐつと茹でられているような感覚が続いている。
訳が分からず、ただ足は勝手に動き続けていた。

好き。好かれる。そんなのわからない。
私には誰かをそのように思えた事が今までに無かった。
この言葉が幾分別の意味合いの混じる感情をいくつかまとめているのはわかっている。

家族に使う時。
友達に使う時。
恋人に使う時。
似ているけれど、全部別の感情。

そのどれに照らし合わせても、私の過去の経験には、この言葉に値する好意を与えられた記憶は無いし、そんな感情を誰かに向けた事もない。
いや、一つだけ、父さんへの想いにはそんな物が少しは混じっているのかもしれないが、あまりにいろいろな感情が混ざりすぎて濁ってしまった中からは、今更探し出す事もできなかった。
つまり私はそう言う事に全く慣れていなくて、彼の言葉が何を意味するにしろ狼狽するしかなかったのだ。

何かいろいろと考え事をしていたり、彼について多分に酷い事を思っていたはずなのに、こんな短い言葉だけでそんな物は全部何処かへ追いやられて、真っ白になった頭の中は意味も無く好きという単語だけが回り続けていた。

本当に何も意識していなくて、自分が駆け足で何処に向かっているのかすら意識していなくて、そんな中で突然、声をかけられた。

「あれ?碇じゃないか?」
「え?」

なじみがあるほどでもないが、知っている声。
振り返ると、そこにいたのはクラスメイトの相田君だった。
彼の言葉が耳に飛び込んでこなければ、私は延々と当ても無く走り続けたかもしれない。

「なんで、こんなところに?」

知り合いに会うなんて事は考えもしていなかったので、思わずそのまま考えが口に出てしまう。
そうしておいて漸く自分がどこにいるのか把握していない事に気がついた。

「ん、ああ、ちょっと病院にな。今帰るとこだけど」

彼の返答で、この道が中央通りから病院へと続いている物だとわかる。
普段くる事は無いが、近くに見える採光ビルのシルエットに見覚えがあった。
あやふやな記憶だが、自分も一度はこの道を通ったのだろうか。
そうなのかもしれない。

何気なく相田君の方を見て、彼がいまいち浮かない顔をしているのに気付く。
そう言えば、なぜ病院に行ったのだろう。

「どこか、怪我でもしたの?」
「ん、ああ……ちょっとお見舞いにな」
「お見舞い?」
「……知り合いが、ね。まあ、もうぴんぴんしてて、今はリハビリ中」

そう言った相田君の表情が更に曇った。
その雰囲気から、彼がこれ以上この話を続けたくないのだと悟り、私も聞くのをやめる。
理由も、何となくわかる。
彼の知り合いというなら、その人はもしかしたら私の知り合いだったかもしれないのだ。
でも今は赤の他人と変わらない、知らない人で、要するにそんな私と話すような事じゃないと、彼はそう考えているのだ。

そうして中断してしまった会話がまた始まったのは、相田君の質問からだった。

「そういや、碇こそこんなとこでなにしてるんだ?」
「え、あ、ええと、それは……」

明確な回答の存在しない質問に、大いに戸惑う。
何か考えてここに来たのではなく、気がついたらここにいたのだから。
その原因は考えるまでもなくあの言葉で、すぐにあの時の場面が蘇ってきて、記憶の中の音と映像にまたしてもどぎまぎとしてしまう。

「ん、ネルフで何かあったの?」

私の様子から察したのか、彼がそう尋ねてきた。
質問の向きが変わったおかげだろうか、ここでやっと私は彼への答えを用意する事ができたのだけど、そこで私が選んだのは、彼への回答では無かった。

「ねえ。誰かに好きって言うのって、どんなときなのかな」
「……なにそれ。告白でもされたとか?」
「そ、そんなんじゃない、と、思う」

変に赤くなっている私の様子が、恋する乙女にでも見えたのだろうか。
軽く呆れたような声に対して、慌てて否定をしてみたが、その勢いはすぐに弱まってしまった。
本当に、私にはわからないのだ。
あの言葉が、どういう意味だったのか。

「ふうん。ま、俺にもわかんないや。そう言うの興味なかったし」
「写真とかは?」
「全然意味が違うだろ。俺は写真を撮るのが好きなの。被写体にそう言う感情を向けた事は無いしさ」
「そっか、そうだよね」

そうだ、好きという概念は実に多彩なのだと今更ながら再確認する。
そして改めてわからなくなる。
彼がどんな意味でそれを使ったのか。

「そういやさ、あの写真、どう思った?」

何を思ったのか、そんな質問が飛んできた。
あの写真、とは、相田君から以前受け取った物の事だろう。
昔の私、私でない私が写っていた何枚かの写真。

「何か、すごく不思議だった。写ってるのは私なのに、右目だけ赤くて、全然知らない場所で、全然知らない表情で、全く別人。なのに私だなんて」
「やっぱ本人は違和感あるよなあ」
「うん、それに、見てたらさ、すごく寂しくなって、何か少し怖かった」

なぜそう感じたのかと聞かれれば、それはきっと彼女の瞳のせいだろう。
表情は柔らかなのに、その瞳を見ていると凍えそうなほど寂しくて、何かを見ているようなのに、彼女の目は恐ろしく遠くの、それとも別の何かを見ているような、現実感の薄い物だった。
それらは色の違いだけでは決して説明できるものじゃなかった。

「最初はさ、偶然だったんだ。あいつ、よく笑ってたし、撮られるのも気にしてなかったしさ。ここだけの話、お前の写真さ、結構人気だったんだぜ?」
「本当に?」
「嘘じゃないって。まあ、そうやって撮ってたらさ、偶然妙に雰囲気のあるのができてね。
これは売れる、って思った訳。……だけど見てるうちに、俺も怖くなった」

それ以来、”私”を撮る写真が減って、けれどそういう写真は逆に多くなったのだという。
いつの間にかその表情に取り憑かれて、追いかけていたのかもしれないと彼は言った。
そうやって集まった写真が、私にくれたものだったのだろう。

「怖いけどさ、きれいっていうか、惹き付けられるんだよな。見ちゃいけない瞬間をずっと留めている感じで、だから自分だけの物にしてたんだ」
「あいつさあ、いつも何をするのでも必死だったんだ。一生懸命ってよりも、そうしてないと死んじゃうんだって言うくらいにさ。正直、ついていけないほどね」

必死に戦って、必死に笑う、それは私が感じたあの人そのままだ。
あの人は私でいたときもそうやって生きていたのだと知った。
暗い暗い闇の淵で、自分が飲み込まれそうなのに私を、他の人をかばって、見ていられないくらいぼろぼろなのにもっと傷ついていく。
そんな彼女が恐ろしくて、眩しかった。

「でもさ、俺、あいつのこと、嫌いじゃなかったよ」
「そんで、お前の事も、嫌いじゃない」
「え?」
「よくわかんないけどさ、そんなもんだろ、好きとか嫌いとかなんて」

そもそも何がそんなものなのか、それこそよくわからないことを彼は言った。
嫌いでないということは好きだということと等価ではないだろうに。
そう考えたが、思い直す。
相田君の発した嫌いじゃないという言葉には、好意と呼べるものがそれなりに含まれているように思えたからだ。
好きだというのは気恥ずかしくて、でもなんとも思ってないわけじゃない、そんな気持ちの狭間で生まれた、精一杯の表現なのだ。

そう思うと、私はふうっとため息をついた。
結局、好きなどという言葉はあまりに意味が広すぎて、それの言葉を使った人物がどんな感情をこめたか、そこが重要なのだと気がついた。
普段言われ慣れない言葉をかけられて動転してしまったけれど、あの渚カヲルという人はあの時どんな思いを言葉にこめていたろうか。
思い出そうとしても言葉そのものと彼の微笑んでいるようななんとも言えない表情ばかりが浮かんできて、肝心な部分はさっぱりだった。
つまり。
本当の彼の気持ちを知りたければ、もう一度あって話をするしかなさそうだというのがあまりにも馬鹿馬鹿しい結論になってしまった。

知りたいという気持ちはある。
けど私はよく知りもしない人にそんなことを尋ねる方法なんて知らなかった。
出会ったばかりの人にいきなり近づく、渚君のようなことは私にはできなかった。
そんなことができる人なら、今ここで悩むようなこともないだろう。

そうやってまたネガティブな思考に陥る悪循環に嵌りそうなところへ、また、声がした。

「なあ碇、おまえってさ、結構暗いよな」
「……仕方ないじゃない、そういう性格なんだし」
「んー、でも、勿体無い。前みたいに、とは言わないけどさ、もっと笑ってみたら?」
「楽しくも無いのに?」
「かわいいんだからさ。こんな感じで、無理やりにでも」

そういうと相田君はおもむろに唇の端を指で引っ張るようにして、まさしく無理やりに笑い顔のようなものを作り上げた。
酷い顔だ。
引っ張られすぎて唇は歪んでるし、一緒に引っ張られてたれ目になってしまっている。
笑顔というよりはオタフク顔。

そんな顔で視線だけまっすぐ見つめられて、数秒。
私は思わずふき出していた。

「ぷっ、ちょっとやめてよ。にらめっこじゃあるまいし」
「ほーかい?れもわらへただろ?」
「何言ってるかわかんないよ」

そのままの状態で話し続ける彼に突っ込みを入れながら、くすくすと笑いを漏らしてしまった。
こんな単純な方法で、私はまんまと彼にしてやられたのだった。

「悩んでたって仕方ない、笑ってるほうがいい、な、そうだろ?」
「……そうかも、しれないね」

そうだ、考えてもわからないものはわからないのだ。
そんなものにいつまでも囚われていたって仕方が無い。

――そういえば、もうずいぶんと笑ってなかった。

笑うことが必要だなどと考えたことも無かった。
なのに不思議なものだ。
少し気分が軽くなった気がする。

「ありがと、相田君」
「どーいたしまして」

思い出させてくれた彼に感謝をこめて。
精一杯の笑顔で、お礼を言った。



「ミサト、ねえ、どこに連れて行くつもり?」

アスカの疑問を黙殺して、薄暗い通路を進む。
ネルフ本部最下層、セントラルドグマ。
私はアスカとレイを連れて、その最深部へと向かっていた。
時折現れるセキュリティゲートは今のところ私自身のIDで通過できている。
だが、それもそろそろ限界だ。
これまでのものと大して変わらないデザインの扉が見えてきた。
だがそのセキュリティレベルは最上位のものを示している。
この奥に入れるのはネルフでも上位のほんの一握りの人間か、さもなくば異常に厳しい秘匿契約を結ばされた労働者だけだ。

――これで、いいのよね?加持君……。

彼の足跡は私をここへ導こうとしているようだったが、本当にそれが正しいのか、確信が持てずにいた。
左手に握る、自分のものと、もうひとつのカード。
何らかの抜け道をついて造られた最上位の偽造IDだ。
これを使えば、目の前の扉は開く。
だがそれと同時にこのカードの存在がMAGIに発覚することになる。
対抗プログラムは仕込んであるがそれでも数時間が限度だろう。
今ここで使ってしまえば次は無い、片道切符だ。

「ミサトったら。この先に、何があるっていうのよ」

扉の前で逡巡している私に痺れを切らしたか、またアスカが尋ねてくる。
彼女の表情の中に見える、小さな緊張の色。
ロック部分に書かれた機密レベルの意味を彼女もわかっているのだ。
この先は、少なくともただのパイロット程度では本来踏み入ることができない領域だと。

「予測はついてるわ。でも期待させるつもりも無い」
「なんなのよ」

そう、予測は既についている。
この先に何があるのか、情報の海から選り分けて出てきたものは驚くべき内容だった。
だが、そうやってほとんど確定できたものを何故わざわざ確認する必要があるのか。
ほかにもっと確認すべき重要な事柄があるのではないか。
そんな考えを否定するように、加持君の痕跡は執拗にこの先の場所へ誘おうとしていた。

「だから、確かめるの」

そういうと、カードを一気にスリットへ通す。
これで、もう後戻りはできない。
彼が何を伝えようとしているのか、その答えがあると信じて、進むしかない。

私の緊張とは裏腹に、ゲートはほかの物と同じく軽い圧搾空気の音を響かせてあっさりと開いた。
その先に続くのは、これもまた代わり映えのしない通路。
そこへチルドレン二人を伴って進入する。
一歩踏み入れたとき、空気が重苦しく感じたのは今の気分のせいだろう。
緊張と不安を押し殺して、さらに一歩、歩を進める。
だがその足を、思わぬ人物から止められた。

「私は、この先には行きたく、ありません」
「レイ?」

今まで一言も発せず、付き従ってきたレイが、そういって扉の前で立ち止まっていた。
彼女の赤い瞳が、明らかにそれとわかるほど不安げに彷徨っている。

――何か知っているの?

その可能性はある。
もう一年ほどの付き合いになるとはいえ、この子も謎の塊といっていい。
チルドレンとなる以前のデータはすべて抹消済みなのは、あの新しいチルドレンだけではないのだ。
この先に彼女に係わる何かがあったとしても不思議ではなかった。

「……そう、無理にとはいわないわ。ここで待っていなさい」
「はい。すいません」
「気にしないで。それより、身の安全を最優先に。危険そうならすぐに逃げて」
「ちょっとミサト、そんなやばい事してるわけ?」
「見つかったら私は首になるかもね」
「大丈夫なの、それ……」

私たちの会話に不穏な物を感じたのか、アスカがそう尋ねてくる。
実際にはそれどころではない。
十年以上の懲役と多額の罰金、現行犯は射殺すら許可されている、ここから先はそんなセクションなのだ。

「行きたくないなら、二人で帰ってくれてもいいわよ?」
「はん、冗談じゃない。ここまで引っ張ってこられて、はいそうですかって帰るわけ無いでしょ」

そういったアスカの手をとって、二人で奥へと進む。
できればレイは安全な場所に帰したかったが、残念ながら時間が無かった。
彼女の身に何も起こらないことを祈って、急ぐしかなかった。

少し進むと、さらに下層へと降りるためのエレベータが設置されていた。
今度は迷わずそれに乗り、最下層へ。
超構造体を伝って、螺旋状のガイドをたどりかなりの速度で下っていく。
それでもすぐには到達しない、人類が踏みいることのできるおそらくは最も深い地底空間へ向けて、5分近く要しただろうか。
ついにエレベータが停止し、開放された。
その間アスカは何もしゃべらず、ただ握られた手がたまに緊張を伝えていた。

上とは違う工程で作られたと思われる通路、その先に、新たな扉が見えた。

『人工進化研究所 3号分室』

扉にはそうかかれている。
記憶の片隅から、それがゲヒルンと呼ばれていた、ネルフの前身に当たる組織の名前であると思い出す。
この区画はそんな時代から存在していたというのか。

ゆっくりと、開閉スイッチに手を伸ばす。
わずかな予感があった。
ここだという、予感。

小さな電子音がロックの開放を知らせ、扉がスライドする。
中から漏れる青白い光。

――ああ、やはり。

そこには、一台のベッドと、寝かされた少女の姿。
そして。

「探偵ごっこかしら?葛城三佐」

リツコが、いた。



「シンジ……?嘘、なんで?」

寝かされた少女を見て、アスカから疑問の声が漏れた。
短めの黒い髪、その顔の輪郭、ベッドの上で眠るその姿はある意味で見慣れた物だった。
碇シンジ、いるはずのない人物がそこにいた。

「あら、レイは来なかったのね。まあ当然かしら」
「当然?」
「ここはレイが生まれ育った場所だものね、あの子もずいぶんとまともな感受性を持つようになったわね」

どうやら、ここはレイにとって知られたくないと思える場所であるらしい。
彼女の過去は気になるところではある。
だが、今はもっと大きな気がかりがあった。

なぜ、リツコがここにいるのか。

「リツコ、気付いていたの?」
「当然でしょう。そう何度も進入を許すほど、私もMAGIも甘くないわよ」
「ばればれか」

やはりこの手のことは加持君ほどにうまくやれないらしい。
もう何日も前から既に私の行動は監視されていたと見るべきだった。
だが、丁度いいかもしれない。
ばれているというのなら、聞いたほうが手っ取り早い。

「その子は、誰?」
「あなたは知ってるんじゃなくて?」
「情報の切れ端だけね」

そういうと、何を思ったかリツコはふっと鼻で笑い、答えた。

「この子は碇レイ」
「碇……レイ?シンジじゃ、無いの?」

名前に反応したアスカの言葉を受けるように、リツコが続ける。

「碇シンジとは違う存在よ。もっとも……」
「あなたたちも、よく知っている子だと思うけれど」

そういったリツコの顔に張り付いた笑顔が、凄みを増す。
それとともに、今まで蚊帳の外に置かれていたアスカが、徐々に状況を、言葉の意味を理解し、疑問と不安をあらわしていた表情は、徐々に驚愕に満ちた物に変わっていく。

「それじゃ、何で、シンジは、どうして……」
「今上で生活しているのも間違いなく碇シンジよ。いえ、彼女のほうが本当の碇シンジだといったほうがいいかしら」
「本当、の?」
「碇シンジという存在は、二つが共存していたの。それが分かたれた」
「……サルベージの時ね」
「そう、本来あるべき存在だけがサルベージされ、一方は取り込まれたままになった」
「じゃあ何故この子はここに存在するわけ?」
「理由はわからないわ。彼女がそれを望んだのではないかしら?」

碇シンジがLCLからサルベージされた頃のことを思い出す。
そういえば、サルベージ完了後に初号機が謎の再起動をしたことがあった。

――あの時か。

同じ人間が二人いるなどという非常識な事態は隠蔽され、ここに匿われた。
いや、同じではないのか?
リツコの言様が確かならば、彼女たちは別の人間ということになる。

「もう少し詳しく聞かせてもらえる?」
「碇シンジが二人いる、これ以上の状況説明が必要かしら」
「話す気は無い、と?」

相変わらずリツコは微笑とも呼べないものを浮かべ、何を考えているのか読み取れない。
だが、私の質問に対して答えようとするそぶりも見えなかった。

「そう、ならいいわ。本人に答えてもらうだけよ」

私はリツコに見切りをつけると、いまだ眠っているらしいシンジちゃん、碇レイと呼ばれている彼女のほうに近づこうとした。

だがその行動を、リツコが制した。

「だめよ。近づかないで」

そういいながら白衣のポケットから抜き出された右手には、拳銃が握られていた。
その銃口がまっすぐ私に向けられる。

「アスカもよ。動かないでくれる?」

私の動きにつられて飛び出しかかっていたアスカにもリツコは剣呑な視線を送り、それで慌ててアスカも足を止めた。

「リツコ、どういうつもり?」
「あら、心外ね。あの子を助けてあげたのに」
「何を言って……!」
「近づかないでといっているでしょう!」

一歩踏み込んだ私を咎め、彼女が声を荒げる。
明らかに接近されるのを強く警戒している。
だが何故だ。

その疑問は、軽く興奮の混じったリツコの言葉が説明してくれた。

「この子の心はね、もうぼろぼろなの。重度の統合失調症と似た病状を示しているわ」
「それは、エヴァによる精神汚染?」
「それだけではないわ」

一瞬、彼女の顔に苦悶の表情が浮かぶが、それはすぐに冷静を装った狂気で上書きされた。何かを考える、少しの間。
また、リツコが口を開いた。

「いいわ、教えてあげる。この子はね、触れた人の死を体験するそうよ」
「死?生きた人の?幻覚でも見るというの?」
「彼女にとっては真実よ。親しかったあなたの死を見て、今のこの子が正気を保っていられるかしらね」

そういったリツコの様子は酷く凄みを帯びていて、近づかせないためのただの口実と切り捨てさせない雰囲気を持っていた。

――まさかね、そんなものが秘密だとでも?

ただの幻覚ではない、とでもいうのか。
死、自らの死、それを語られ、信じたとでもいうのか。
ただの少女の戯言が、ネルフの未来を決めたとでも?
加持君が伝えたかったのは、こんなことだとでもいうのか?

そんな私の疑問は発せられることは無く、リツコもまた答えなかった。
代わりに彼女は、アスカに語りかけた。

「アスカ、あなたも近寄ろうなどと思わないことよ。この間命を救われたのに、恩人を殺してしまうことになるわよ」
「なに、どういう意味よ、それ!」

唖然としていたアスカが叫んだ。
と同時に、私も気がついた。
おそらく、アスカも。

「……乗せていたのね?」
「そうよ、搬入前に乗せていたから、気付かなかったでしょう?」
「じゃああれは暴走ではなく、彼女の意志だったということね」

あの戦闘の疑問が私の中でひとつ、綺麗にまとまった。
この子が以前のシンジちゃんと同じだというなら、あの異常なシンクロ率でもって初号機の操縦を奪うこともできる。
シンジさんとアスカの意味不明だった通信内容もこれで説明がつく。
使徒からの精神攻撃の中、彼女たちは感じたのだ、この子の存在を。

「そうやって庇って、壊れそうになるなんて、本当に愚かな子」
「リツコ!あなたは!」

確かに彼女の行動はほめられる物ではなかった。
だがそのように貶められるべき物でもないはずだ。
一人の少女の命懸けの行為を、愚かなどと。

だがその言葉を訂正させようと声を荒げた、その時。
けたたましい警報が室内に響いた。

「……問答は終わりよ、ミサト。新たな使徒が迫っているわ」
「リツコ、一応聞いておくけど、まさかこの子をまた乗せるつもりじゃないでしょうね?」
「いけない?」
「当然でしょう!こんな状態の子を!」
「なんにせよ初号機を何物ともわからない少年に預けるつもりは無いわ。私だけじゃない、碇司令の決定でもあるのよ」

だがそう言った彼女の声は、先ほどまでの昂った様子とは異なり、低く静かだった。
今リツコが何を思っているのか、私にはわからない。
昔からそうだ。
表面では冷静に話しておきながら、肝心な部分は友達だった私にだってみせないのだ。

「ほら、作戦本部長が遅れたら取り返しがつかないわよ」
「そうね。アスカ、行くわよ」

そう言うと、未だ拳銃をおろさないリツコに背を向けて、アスカの手を掴み、来た道を戻ろうとする。
だがふと、違和感を覚えて立ち止まる。

「ねえリツコ。あなたなら、私がここまで来れないようにもできたはずよ」
「そうかもしれないわね」
「なら、なぜ?」

何故、わざわざここまで入れさせたのか。
何故、わざわざここで待っていたのか。

「……さあ、なぜかしらね」

背中越しの問いかけに、明確な答えは与えられる事無く。
リツコがどんな想いでそう答えたのかも、見る事はできず。

背後でゲートが閉まった。
耳障りな警報だけが、鳴り続けていた。