Migraine


体中に硬化ベークライトを張り付けたままの初号機が、自身の本来のケージに格納されていた。
搬入後も急ピッチで凍結解除作業が進められた機体は、ようやくエントリープラグ挿入口を覆う装甲を露出させ、プラグの強制排出作業にかかることになった。

「背面保護装甲は強制除去、排出信号はどう?」
「送っていますが、やはり反応はありませんね」
「そう。いいわ、エントリープラグと直接接続して。機械的に排出をかけるわ」

初号機はまだ、我々に抗っている。
だがその抵抗は、動かないことによる密やかな拒絶。
こちらの強引な作業に対して、力による阻止を行う様子はなく、それが私には初号機の迷いのようにも思えた。

先ほどの指示はすぐに実行され、エントリープラグ側からロック機構が破棄され、固定を失ったエントリープラグがクレーンアームでゆっくりと引き出されていく。
やがてすべてが引き抜かれ、通常と同じように保持アームに固定されたエントリープラグ。
そのハッチを開く段になって、それを見守る全員が緊張に包まれた。

当然だ。
そこに座っている人物の正体が、使徒だと言うのだから。
たとえ彼が我々に協力すると約束しているとしても、その存在がもっているであろう強大な力を想像し、恐怖するのは無理からぬことだろう。
警備に当たっていたはずの人員は、いまや手にした銃をエントリープラグに向けており、いざというときにはいつでも発砲できる姿勢にあった。
といっても、あれほどのATフィールドを操る相手に対して、どれほどの効果があるかは甚だ疑問であったが。

ともかくも全員が注目する中、静かな機械音をケージに漂わせながらエントリープラグの上部ハッチが開放された。
そして内部のインテリアシートに座っていた黒を基調としたプラグスーツを着込んだ少年が、ゆっくりと立ち上がる。

色の抜けた白い肌と赤い色の瞳が特徴的な顔は、とぼけたような表情であったが、ふっと柔らかに笑ったような形をとる。

「おやおや、これほど注目されるとは、ずいぶん歓迎されているのかな?」

事も無げにそう言い放った少年。
冗談とも思えぬその物言いに面食らいながらも、もう一度彼を伺う。
すると彼は、微笑を湛えたまま、こちらに視線を向けて、ひとつ、要求を出してきた。

「できれば早くシャワーを浴びて、着替えたいところなのだけれどね?何日も閉じ込められているとさすがに気持ち悪くてたまらない」
「……許可するわ。場所はわかっているでしょう」

彼の発した実に間抜けな生理的欲求に、膨らんでいた緊張の空気が徐々にしぼんでいく。
頷いた後にタラップをゆっくりと歩いて、控え室へと消えていく少年。それに慌ててついていく保安要員。
これが、フィフスチルドレン、最後の使徒、或いは渚カヲルと呼ばれる、我々のジョーカーともいえる存在の帰還、その最初の光景だった。

第拾伍話:真心を君に。

一歩


「戦自の状況は?」
「発進した戦闘機は一直線にこちらに向かっています。確認されている機数は32、最速で12分後にこちらの射程圏内に入ります」
「一師団のほぼ全戦力を投入してきたか」
「ええ。しかも入間にはN2航空爆雷も配備されています」

どう贔屓目に見ても状況はこちらに有利とはいえなかった。
対使徒用の迎撃都市である第3新東京市の対空防御は相当なものではあったが、稼動可能な兵装ビルは20%を切っており、航空師団一つの猛攻を凌ぎ切るには心もとなかった。

そもそも人間の軍隊と戦うことを想定されているわけではないのだ。
ヒトと言うものは、ある意味で使徒よりもよほど厄介な相手だった。
巨人の拘束が可能なワイヤー射出装置も、エヴァが身を隠すための装甲ビルも彼らにはさして役に立たない。
正確な目標の情報と精密な射撃システムこそが最重要である。
しかしそれは敵の側でも当然の認識である。
そして認識されている障害を効率的に除去してくるのが人間の厄介なところだった。

「外部回線のすべてが飽和攻撃を受けています。これは……」
「こちらの処理能力を削り取るつもり?」
「はい。しかも並みの攻撃じゃありませんよ。ネルフ各支部のMAGIタイプによるものと思われます」
「連携してきたわね。赤木博士、MAGIは任せられる?可能な限り防衛能力を維持してもらえるかしら」
「松代はこちらの味方よ。やれるだけやって見せましょう」

敵はMAGIタイプが計4機、そしてこちらの隙をうかがう戦自の航空部隊。
さらに潜入してくる特殊工作部隊のおまけ付だ。

「そっちはどう、日向二尉」
「数は少ないですが、散発的に攻撃がくるので少々辟易しているところです。けれど皆よく持ちこたえてますよ。今日1日くらいは大丈夫でしょう」
「お願いね。目を失うわけにはいかないわ」

治療のために加持君が抜けた穴は、同じ作戦部のオペレーターである日向君に任せていた。
所詮、体裁だけの軍事組織だったネルフには、実戦指揮をとれる人材は不足していた。
彼が選ばれたのも従軍経験があったからという理由が大きかったのだ。
寄せ集めの実動部隊ではいかにも心もとなかったが、こちらへの協力をしてくれるはずの戦自の部隊が、各基地で敵対勢力とにらみ合いをしている以上、増援は期待できない。
今の状況下で突破してきた相手の部隊をとめるのは、結局我々の役目だった。

もっとも、そう長くはならないはずだ。
冬月副司令は現在日本政府を通じて各国に揺さぶりをかけている。
隠されていた真実を知れば、国際社会で孤立するのはゼーレの側のはずだ。

――だが、そうなっても、まだ彼らにはエヴァがある。

数時間前からネルフの各支部とは連絡が取れなくなっている。
MAGIへの攻撃から見ても、他のネルフ支部はゼーレの支配下にあると見てよかった。
そして、新造された9体の量産型エヴァンゲリオンも。

ATフィールドを持つエヴァに対抗できるのはエヴァだけ。
だが、今現在、事実上稼動可能なエヴァは弐号機のみ。
1体ならともかく、9体が相手では圧倒的に不利であると言わざるを得なかった。

――後は、初号機次第、か。

渚カヲルを意固地なまでに閉じ込め続け、今なお稼動しようとしない初号機。
量産型と同じくS2機関を持つあの機体ならば、これまでに数々の驚異的な力を見せてくれたあの機体ならば、われわれに勝利をもたらしてくれるかもしれないというのに。

「やっぱりあの子達に託すしか、ないのね」

機械的な制御を拒むというなら、精神的な物によって従わせるしかなかった。
それができるのが、子供達だけだというのが辛いところなのだが。

「嘆いていても解決しないわね……できることを、やらないと」

初号機の起動如何に関わらず、ネルフ本部が攻略されればそこで終わりだ。
今できることを、全力で。
私は両手で頬を叩き、崩れかけていた指揮官としての顔をまた、取り戻す。
空と電子の世界から迫りくる敵を食い止めるために。



その紫色の機体は、いまだに琥珀色に変色した硬化ベークライトに大部分を包まれたまま、ケージ内にその巨体を収められていた。
そしてその表面に整備班の面々が張り付き、厄介なことこの上ない拘束となっている硬化ベークライトを粉砕し、引き剥がしていた。
それは遠くから見ればまるでガリバーの寓話のごとく巨人に小人がちょっかいをかけているようにも見えたかもしれない。
もっとも彼らはその巨人を捕まえるのではなく、開放するために動き回っているのだけれど。

もしかしたら寓話と同じように、巨人にとってはこんな拘束など、なんてことないのかもしれない。
だけど眠れる巨人がいつ起きてくれるのかわからない以上、やれることはやっておく、ということなのだろう。
そのことを無駄な足掻きだと笑うような人間はここに残ってはいなかった。

そんな必死に行われている凍結解除作業をエヴァの背中越しに見つつ、その背中の部分、延髄にあたる所にぽっかりと空いた空間を確認できる場所に私はいた。

「で、この木偶の坊はどうするわけ?」
「木偶の坊てお前、貴重な戦力ちゃうんかい」
「ふん、動かないならただの役立たずよ」

惣流さんの言い方はひどいものではあったけれど、言い分は正しかった。
拘束を解くことはできる。
エントリープラグも挿入はできる。
だけど、そこまで。
状態を調べるために打ち込まれた探査針は、あらゆる反応を調べ、あらゆる刺激を与えたが、まさしく木偶の坊というほかないほどに無反応だったのだ。
拒絶ですらない、完全な無視。
電気刺激を送っても筋反応すら起こさないその姿は、およそありえるはずのないものであり、この初号機がすべてを見放してしまったのではないかと見えるものだった。

今は何も挿入されず、体の奥深くまで続く穴に暗闇を湛えている。
底の見えない空洞の奥を眺めながら、私は今までのことを思い出していた。

初めてこれに乗ったとき、そのとき私は何の理解もできず、絶望のままに押し込まれていた。
そして自分を置き去りにした戦闘が終わったとき、私は初号機の中に取り込まれていた。

そして次に乗せられたとき、やはり事態は私の意思など無視して勝手に進んでいて、もう一人の私が壊されていくのをただ見守ることしかできなかった。

そうして最後の戦いで、ついに私は初号機に乗せられることすらなくなった。
あれほど乗るのが嫌だったのに、そのことは私がここにいる意義すら失わせた。

そして今、初号機はすべてを無視して、何もかもに無反応だった。
私達の必死の戦いも無視をして。

これからは私は、この物言わぬ初号機にエントリーすることになる。
私があの中に入ったとき、初号機は、あの人は、どうするだろうか。
やっぱりまた、私の想いなんて無視してしまうのだろうか。
それとも……。

その先を考えて、私は急に不安になった。
それとも、何だというのだ?
もしもあれが動いてしまったら。
それから、わたしはどうするというのだ。

ああ、そうだ、結局自分はまた、流されているのだ。
何も知らないのはもうごめんだと、そう思いながら、やっぱり何も決められず、状況に流されているのだ。

そう理解した途端、私はその先に進むことができなくなった。
初号機の背に打ち込むべくアームで固定されたエントリープラグ、その入り口までのタラップ、そこにたどり着くためのキャットウォーク。
今、その場所へ行くことは、嫌な自分を肯定することのようで、そして何も判らない状況から逃れられなくなりそうで、そちらに歩を進めることはおろか、顔を向けることすらできなくなってしまったのだった。

「なによ、いまさら怖気づいたわけ?」
「そういうんじゃ、ない」

その気持ちが0だともいえないけれど。
惣流さんの言い分に完全に同意できるほどに単純なものでもなかった。

「まあいいわ。初号機が動かなくても私一人だって何とかしてみせる」
「そんな無茶……」
「無茶でも何でも、やるしかないなら、やってやるわ。今の生活に絶望できるほど長く生きてなんていないんだから」

彼女はそれだけ言って、自分の弐号機が拘束されているケージへと一人向かっていった。
そうして残されたのは、3人。
私と、鈴原君というパイロットと、綾波レイ。
と、不意に鈴原君が、私を見て、何かを考えるようにしたと思うと、言った。

「……あんたが怖い言うんなら、わいが乗る」
「でも、それじゃあ」
「動かんかも知れん。わいが何してもあかんかも知れん。それでも、なんもせずに終わりとうない」

そういって一歩踏み出した彼の左足は、妙に甲高く響いた。

「わいは、約束したからの」
「何を?」
「碇シンジを、守ったるって」

それが誰のことを指しているのかは明らかで、そんな約束をされた覚えのない私に対して、彼が守る義理などないはずの物だった。
だけどそんなことは自分には関係ないといわんばかりに、私の進むべき先へと割り込んで、自分がいくのだと、私を行かせるつもりはないのだという意思表示をしたのだった。
そんな彼はとても不器用に見えたけれど、でも、とても強い人なんだと思った。
こんなときでも悩まずにまっすぐ進める、そんなことを格好つけるでもなくやってみせる人なんだと。

そんな彼の優しさに、くじけそうになっていた私を引き止めたのは、この場に残っていた、もう一人のチルドレンの行動だった。
彼女は鈴原君をすり抜けるように前に出て、足早に先へと進もうとしたのだ。

「綾波、わいがいく言うたやろ」
「あなたでは無理。あれに乗るのは、私だわ」

呼び止めた鈴原君はそう返されて、少々気分を害したようで、続く言を荒げた。

「んなもん、乗ってみなわからんやろが。だいたいお前さんは前に失敗しとるん違うんか」

そういわれても彼女は動じた風もなく、まっすぐに彼を見返した。
その表情の乏しい顔に、確かな意志を感じる瞳が淡い光を反射していた。

「今は、違う。あの時とは、私も、初号機も、違う」

その頑なな意志を受けても、彼も引かなかった。
さらに一歩出るようにして、自らの意志をぶつける。

「そんなことは理由にならん。わいは乗るで」

お互いに引かず、押し倒されそうなほどのにらみ合い。
私はどうすることもできず、ただたじろぐばかりだった。
乗れば確実に危険に晒される、そんな物に乗るために、彼らは争っている、そのように見えたのだから。
だから、一瞬間が空いたのちの彼女の言葉は、私にとっては意外な物だった。

「何故?どうしてそんなに無理をしているの」

そう言われて初めて、私は気がついた。
鈴原君の表情が強張っている事に。
その体が、わずかに震えている事に。
彼が精一杯の虚勢を張っている事に。

何故こんな事すら見落としてしまっていたのか。
知りたいと言いながら、私はまだ何もみようともしていなかったのだろうか。
見てしまって、知ってしまう事の恐怖から、まだ逃げたままだったのだろうか。

もしかしたら、いままでもそうだったのかもしれない。
見ようとしない、だから、見えていてもわからない。
解ろうとしない、だから、答えがあるのに、気がつかない。

「そうみえるか、やっぱり……そうやな、無理してるんかもしれん。けどわしはもう、何もできひんのも、誰もまもれへんのも、たくさんや。こいつに乗れば、わいは戦える。お前らも守れる。それやったら、乗るしかないやろ」

彼の声はさきほどより少し気勢が落ちたものだったけど、でも私の心には大きく響いた。
彼には無理をしてでも乗らねばならない、そう決めた理由があった。
心に決めたこと、自分の譲れない一線、そんな意地ともいえる物が、エヴァに乗る理由であり、その意志を貫くための手段であった。

じゃあ、私は。
私は、何かそんなものを持っているだろうか。
知りたいという思いは、何をよりどころにしているのか。
考えても、答えは出ない。
何故私はここにいて、何をしたかったのか。

自分の過去を振り返れば、そこにいた自分は、ただ平凡な日常、そんなものを望んでいた。
いや、望んでいたというより、そんなものなのだと諦めて、受け入れていた。

なら、何故ここに来たのか。
すべて変わってしまうかもしれない、この第3新東京市に。

そうだ。
私はただ、父さんに会いたかった。
それだけだったはずだ。

父さんに何か望んでいたわけじゃないはずだった。
だけど、もしかしたら、期待していたかもしれない。

父さんが、私を見てくれることを。
私に優しくしてくれることを。私をほめてくれることを。

第2新東京市、ただ一人で静かで何もない日々を送っていたあの頃、愛想など入りようもない一言だけの手紙が唐突に届いた日。
父さんからの手紙は、静かに停滞し淀みかかっていた水面に、盛大に波飛沫を上げて叩きつけられた石のようなものだった。
濁った表面に容易く穿たれた穴から溢れた思いに含まれていたのは何だったろうか。

恐怖、怒り、それとも、諦め。
でも、何も良いことなどないと思っていても、どこかで期待していた。
そう、期待していたのだ。
新しい生活に、世界に、何かが変わる可能性に。

だから、ここに来た。

だけど。

世界は余りにも変わってしまっていた。
私を、置いてけぼりにして、突然、また放り込まれた。
恐怖も、怒りも、諦めすらも感じる暇もないまま、選ぶ事もできず、状況に流された。

ここに留まれば、状況はまた勝手に私を押し流すだろう。
前へ進むとしても、私は状況に巻き込まれるだろう。
選べるのはどちらか片方で、この二択に三つ目の道は存在しなかった。

結局どちらを選ぼうとここから逃れられない、という事実に、選択肢すら無意味な気がするけど。
そうじゃない。
確かに、結果が決まっているのは嫌かもしれない。
けど、私が今、本当に嫌なのは。
何も選べないまま、何も選ばないまま、ここにいることだった。
そう、ここに来ると決めたあの日の後、私の時間は止まったまま、私は何も選ぼうとせず、立ち止まったままにあった。

だから、今、選ばねばならない。
選んで、前に進まないといけない。
そうしなければ、きっと私は流されるままに、すべて諦めてしまうだろう。
諦めたふりをして、後悔しないように、傷付かないように、自分を騙し続けるだろう。

――もう、そんなのは嫌だから。

一歩、そして、また、一歩。
踏み出した足が、道を、ぎこちなく歩みはじめる。
未来に続く、その道へ。



トリガーを引く。
照準の中央に捉えていたVTOL機が劣化ウラン弾の連射を受けて粉砕された。

トリガーを引く。
回避しきれなかったその機体の左翼が吹き飛び、墜落。
兵装ビルに激突し、派手に爆炎を上げた。

トリガーを引く。
多連装ロケット砲を搭載した車両が爆発し、そのまま薙ぐようにした火線の先にいた重戦車も苛烈な徹甲弾の雨に耐えきれず、噴煙を上げた。

「はあ、はあ、はあ……」

LCLを吐き出す息が荒い。
操縦管を握り込んだ指が剥がれない。
生身より広く鮮明なはずの視界が、暗く狭窄していく。

こんなのは初めてだった。
相手は使徒などと比べるべくもなく脆弱だというのに、一機潰すごとに体がすくむ。
私の動揺を受けて弐号機の動きが止まる。
その側面から煩わしい衝撃を感じて、無造作に左手で払いのけると、何かがひしゃげ、砕ける感触が伝わってきた。
そちらを振り向けば、操縦席を失った機体が、そのまま機首から地面に墜落していく。

――っ!

その瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。
LCLに嫌な酸味が混じる。

今、私が潰したのは、何だ。
金属が捻れる感触の中に、別のものが混ざってはいなかったか。

――それ以上考えるな。

冷静と恐怖が、そう囁く。
たが、狂気と現実は、そんな警告などあっさりと消し飛ばしてしまう。

今度は、真正面。

「ひっ!」

まともな声にならない悲鳴。
反射的に動いた指の動きを正確に再現した、弍号機の握るパレットライフルが劣化ウランの塊を吐き出し、それが吸い込まれるように戦自のVTOL機の中央の、強化ガラスの内側に見えるヘルメット、その奥に透ける現実感の欠けた硬直した表情、視線を追うように銃弾が一瞬視界を奪い、通りすぎた後に見えたのは抉り取られた装甲、失われた人影、鮮血、外れない人差し指、終わらない連射、原形を留めないほどの破壊、そして、爆発。

そうだ。
私は、ヒトを殺した。

恐慌が襲い、今度こそ胃の中身が裏返り、内容物がインテリア内を漂う。
覚悟していたはずだった。
人間と戦うと言うことが何を意味するのか。
わかっていて出てきたはずだった。
だが、理解していることに何の意味があると言うのだろう。

私の、このエヴァという兵器は、人と戦うにはあまりに強力過ぎた。
そして、あまりに繊細過ぎた。
私は、あまりにあっさりと人を殺してしまった。
その拳に残る感触とともに、その瞳に焼き付いた光景とともに。

私はそれに気付かないほど無神経ではなく、肯定できるほど大人でもなく、受け入れられるほど強くもなかったのだ。

死の感触が全身を蝕み、暗闇が周囲を覆う。
闇は私の奥底まで続き、そこから漏れる死の香りが、私を更に震えさせる。

まだ幼い頃、初めて知った死というもの、それを閉じ込めた扉がほんのすこしだけ隙間を開けていた。
以前に心を使徒に揺さぶられた、あの時に浮かび上がってきた過去の記憶が、現実と繋がって呼び戻されようとしているのだ。

――今、呑まれる訳にはいかないのに。

なのに私はその扉に手をかけてしまう。
現実から目を逸らそうと、自分の内側へ逃げようという圧力が私をその場所へ押し込もうとする。

その破滅的な衝動に負けそうになった私を引き留めたのは、辛うじて認識した、音。

『……スカ、アスカ、応答して!』

妙に遠く聞こえたそれがノイズ混じりの声だと気がつくのに幾ばくかの時間を要したが、ともかくその呼び掛けのおかげで私はなんとか踏み留まることができた。
まとまらない思考の中、ぼんやりとわめきたてるような通信を耳に入れる。
迎撃、高高度、東ブロック、N2……。

ただの単語の羅列としかとらえられなかったものが、急速に固まりとなり、言葉になる。

『……戦自はN2を使うつもりよ。高高度爆撃機に対抗可能な兵装は大半が使用不可能なの。アスカ、迎撃を!』

迎撃、か。
私はまた、ヒトを殺さねばならないのか。

だけど、やらなくちゃ。
そのためにここにいるのだから。

やらなければ、どうなる。
私達が消される。
私が手に掛けた彼等のように。
殺すのは、もう嫌だ。
だけど、殺されるのはもっと嫌だ。

だったら、殺すしか、ない。

N2爆雷、と言っていた。
そういえば弐号機への攻撃が気がつくと止んでいる。
連中も爆撃に備えて退避を始めていたのだろう。
逃げねば、自分たちも巻き込まれるのだから。
それは言い換えればその時までもう時間がないということでもある。

荒く、肩で息をしながら、パレットライフルを上空に構える。
方角は、東側、2時の方向。
その先の、はるか彼方の空に何かの影を捉えた。

――大丈夫。まだやれる。

レーダーではなく、感覚で機影を見つけたことに僅かに安堵した。
まだ、私は戦える。

『全兵装ビル、対空迎撃開始!』

号令に応じてビル群の砲塔が私と同じく東の空を狙い、攻撃が始まった。
だが、掛け声の勢いとは裏腹に、その弾幕は薄い。
なんとか持ちこたえているとはいえ、対空迎撃設備は多くが使用不可能な状態に追い込まれている。

戦略自衛隊の攻撃による被害だけではない。
これまでの使徒との戦いで、この街は確実に疲弊しているのだ。
我々には破壊された施設を完全に修復できるほどの余力も時間も与えられていなかった。
少なくとも、郊外地域への侵入を許す程度には、そしてその防衛にエヴァを使わねばならない程度には都市機能は低下していた。

生き残っているミサイルランチャーから白煙が上がり、それに対応して爆撃機とその護衛機から迎撃の光が上がる。
満足な数を揃えられなかったミサイル群が撃墜される光芒の奥、急速に接近する機影に向け、トリガーを引き絞る。
初弾は高速移動する目標から大きく後方に逸れるが、それに続く弾は確実に目標へ近づいていく。
専用のレールガンから放たれる徹甲弾は上空まで到達してもまだ十分な速度を保っており、インダクションモードと生物特有の感覚で補正された攻撃は、爆撃機の装甲を容易く撃ち抜き、蜂の巣にした。
中の人々がどうなったか、想像すると目眩がしたが、まだ、終わってはいない。

残り2機。
回避運動を取るその軌道を辿るように弾丸が撃ち出され、ついに翼の先を掠める。
このまま撃墜できる、そうおもった。
たが。

「うそ!?」

突如、火線が途切れた。
あと少し、もう相手は炎を上げているのに。

こんなときに故障かと、苛立たしく状態を確認し、狼狽えた。
自分は何をやっているのか。
ごく単純な理由だった。単なる、弾切れだ。
普段ならこのようなときにやるはずのない失敗。

2機の爆撃機が、頭上を通り過ぎる。
私は、吐き出すべき残弾を残していない銃を構えたまま、呆然と見上げることしか出来なかった。

――これで終わり、か。

複数の物体が第3新東京市の中心に向けて投下された。
最後の抵抗といえる迎撃も、それらを止めることはできず、むなしく消えていく。

何故、私はこんなに無力なのか。
使徒に勝てず、ヒトにすら勝てず、このまま終わるなんて。

ゆっくりと落ちて見えるN2爆雷に合わせるように、瞼を閉じる。
意外と、なにも感じないものだ、なんて考えながら。

『まだ、間に合う』

諦念を乱したのは、レイの声。見えたのは、弾かれるように飛び出す、紫の機体。
そして聞こえた、悲鳴ともとれない叫び声。

直後、周囲の全てが、世界が、白く染まり、続く爆音が、全ての音を奪った。

なにもかも消え去ったかのような中、だけど私は感じていた。
頑なな意志が強固な壁となるのを。
必死な叫びが心を震わすのを。
その力が、大地を包むのを。

N2により生み出された狂乱の光は、現れた時と同じように唐突に消え去った。
山々は吹き飛び、空には歪なキノコ雲が立ち上る。
私はそれらを、唖然としながら認識していく。

『はあ、はあ、はあ……』

スピーカーから流れる、荒い呼吸。
暴風が吹き荒れているというのに、妙に静かだと私には感じられた。

爆発の中心、そこにあったのは。
破壊された都市ではなく見慣れたビルの群れと、見慣れた巨人。
その空を支えるように掲げられた両手がゆっくりと下ろされ、そして私も我に返った。

「初号機……動いたの?」
『ええ、彼女のおかげで』
「じゃあ、あいつが?乗ったの?」

通信機が拾っていた呼吸音が、ようやく落ち着いてきた。
静かになった向こう側から聞こえたあいつの声。
碇シンジの声。

『私は、私も、戦える。まだ、なにも分からないけど、私にも、やれることがあるなら』

聞き慣れた声だった。
張り上げているわけではない。だけど、張り詰めた、必死な声だった。
決意を込めた、震える声。
碇シンジの声。

『だから、選んだ。戦うことを。守る、ことを』

悲しい訳でもないのに、涙が、溶けて、消えた。