Migraine



「ミサトさん!」

叫んでも、私達にはどうする事も出来なかった。
絶望的な距離と、目の前に立ちふさがる量産型エヴァ。
無線機は嫌なノイズを垂れ流して、その声を届けることも出来なかった。
ミサトさんは、私にとって最も身近な大人のひとりで、ネルフの作戦部長というよりも、がさつで不器用な保護者だった。
私なんかの扱いも分からずに下手糞に明るく振舞って、悩んで、気を使って、それでも歩み寄ろうとしてくれた、優しい、大人らしくない大人の人。
嫌いになれれば良かったのに、他人に出来なかった人。

そんな人に振り下ろされる、抗えない巨大な死の鉄槌。
それを止める力は無くて、それでも助けたくて、だけど私の手はとどかなくて。
私は祈っていた。
奇跡を、ミサトさんが助かる事を、願っていた。
祈りと言うには余りに短い最後の瞬間だったけど。

そして、奇跡は起きた。
赤の人型が、弐号機が、アスカが、死神をミサトさんから遠ざけ、押倒し、破壊した。

稼動限界を迎えていた弐号機が、復活した。
その事実は、ネルフの作戦が成功した事を示していた。
だからそれを奇跡と呼ぶのは正しく無いのかもしれない。
必然だと、なるべくしてなったと言う人もいるかもしれない。
でも私は、これを奇跡だと思った。

そしてその思いは、より一層強くなった。
ミサトさんの無事を確認しようとした視線の先に、淡い光が見えた。
それは心の光、ATフィールドと呼ばれる光の壁。
その内側に護られた、ミサトさんの傍ら。
そこに、彼を見つけた。
フィフスチルドレンと呼ばれて、使徒と呼ばれた少年を。
私を、好きだと言ってくれた男の子の姿を。

「渚、カヲルくん……?」

まるで私の呟きが聴こえたように、彼は静かに表情を和らげた。

第拾伍話:真心を君に。

終わる世界 後編


まだ、自分は生きている。
死に急ぐつもりは無かったが、自分の生と死の天秤が大きく死の側へ傾いていたのは確かだった。
そのなかで、自分の残りの時間すらどう活かすべきかと考える自分がいた。
彼女達の為なら、命を捨てても構わないと考える自分がいた。

だが子供達にとっては、私の命というものはそこまで軽く無かったらしい。
無線封鎖の中にも関わらず、私は確かに聞いた。
綾波レイと碇シンジの声を。
アスカの叫びを。

そして今、私は生きている。
あの子達の想いが、神様なんて物を動かしたのかもしれなかった。
今にも私を押し潰さんとしていた量産型エヴァは、アスカの手によって私から遠ざけられ、叩きのめされていた。
そして、エヴァ同士のぶつかり合いの余波から私を守ったのは、新たに現れたATフィールドだった。
そう、今私の隣に立つ少年、フィフスチルドレンの作り出したそれによって、私は生き長らえたのだ。
神の使い、天使の名を与えられた使徒と呼ばれる存在に、それまで絶対的な敵だった存在に救われたとは、なんと皮肉の効いたことだろうか。

「ありがとうと言うべきなのかもしれないけれど……、何故あなたが此処にいるのか、知りたいわね」
「命令も規則も僕には無意味、ただ、交わした約束のみが今の僕を制限している。その中に出歩いてはいけないなどという物は無かった筈です」
「なら質問を変えるわ。何故、今出てきたの」

そう尋ねると、彼はたたえた微笑を綻ばせた。
この戦場の中で、場違いと思える程に無邪気な表情を見せたのだ。

「傍観は選択肢ではないと、彼が教えてくれたからね」
「彼?」
「鈴原君だよ」

そう言うと彼はそっと自身の左頬をさすった。
よく見れば、その部分がうっすらと腫れているのが判る。

「人というのは実に興味深い存在だよ。まさか殴られるとは思わなかった。
それだけの強い想いを持って、彼は戦っていたんだ。
そんな彼に興味を持ってしまった。その時点で僕の立場は中立でなくなった。
中立でない以上、僕も選ばなければならなくなったのさ」

フォースチルドレンとして選ばれ、我々が取り返しのつかない傷を負わせた少年の、恐らくは直情的な行動が、使徒の価値観を揺さぶったのだ。
この場で強力なATフィールドを維持するような存在に殴りかかると言う無謀な行為が、積極的な協力へと態度を変えさせたのだった。

「私達に協力すると?」
「そう言うことになるのだろうね。少なくとも、ネルフの味方となる事を選んだのは確かです」
「なら、単刀直入に聞くわ。あなたに何が出来るのか。あなたの力で、あの量産型エヴァを倒せるのか。我々に今必要とされている力をあなたが持っているのか」

先程までの緊張を体に残したまま、私の意識は次の行動を、新たな可能性を模索し始めていた。
突然転がり込んだ巨大な不確定要素が、私達に何をもたらすのか。
決して良いとは言えない今の状況にどのような光明と成り得るのか。

その能力すらまだ定かでないヒトに似通った使徒は、陶酔した微笑を崩す事なく答えた。

「単純な力比べならば、僕とエヴァでは話にもならないでしょう。だけど僕は心と言う物への関心が形となった存在でもある」

彼は自らの作り出した壁に遮られて固まった残骸の山を真っ直ぐに登って行く。
その歩みは瓦礫の上に辿り着いても止まる事なく、虚空に踏み出された足はなにもない空間を確かに踏みしめる。
ヒトとは違う事を見せつけながら空中を歩いたその先には、弐号機に頭部を潰され横たわる量産型エヴァの姿があった。

「そう、だから僕にできるのは例えばこういった事だよ」

不思議と通る声と同時に、更に一歩。
少年の手が、エヴァの体に触れた。



「何を、何をやってるのよ、あいつは!」

変化は劇的だった。
状況に対して、混乱のあまり言葉も出なかった私が思わず叫ぶ程に。
あの少年の姿をした使徒が敵の量産型エヴァに触れた途端、その白い表面装甲が激しく波打ったのだ。
触れられた部分から始まった波紋は、まるで痙攣するように体の各部を震わせながら全身に拡がって行く。

――一体、なんだっていうのよ、あいつは。

あれは、使徒では無かったのか。
そうであれば、私達の敵である筈だった。
だけど多分、ミサトを守ってくれたのは奴で、もしかしたら間に合ったのも彼奴のおかげかも知れないのだ。

混乱の中にあった私を尻目に、奴は事態を進めて行く。
白いエヴァの両腕が突然、持ち上げられた。
だけどそれは敵の機体が再起動したというよりは、糸か何かで無理に引き上げられたかのようであって、そうであるならばこの小さな使徒が起こした事に違いなかった。

外側からエヴァを操っている。
その危険性に戦慄し、体が自然と警戒の構えを取った。
もしかしたら奴はこのままこちらに牙を剥くかも知れないのだから。
もしかしたら奴は、この弐号機すら操って見せるかも知れないのだから。

伸び上がった量産型エヴァの腕が、遂にぴくりと動く。
緊張で一瞬硬くなる体。
だけど。
その先端は、また地上方向へと戻っていく。

――いや、違う!

戻っていくというには速すぎる。
二本の腕の先の拳は、振り下ろされていると言うべきだった。
どこに、と言えば、正しく真下、エヴァの体が横たわるその場に向けて、真っ直ぐに――そう、真っ直ぐに、だ――拳が叩き込まれたのだ。
およそ関節の存在を無視して奇妙な角度を保ちながら、自分自身を強打した腕の先が、更にめり込む。
奥へ奥へとずぶずぶと沈み、手首まで完全に埋まり切った所でようやく停止した。
横たわったままの白い巨体が、びくんびくんと幾度か跳ねる。
神経網がずたずたにされ、まじりこんだノイズに反応しているのだ。
グシャリと言う、何かが潰れ砕ける音。
そのエヴァの痙攣が瞬間はじける様に激しくなり、全身が弓なりに引き攣って。
糸が切れたように地面に落ちると、それきり動かなくなった。
断末魔が発せられる事は無かった。
私が、頭を潰してしまったから。

「……何を、したの?」
「あれは既にエヴァよりも使徒に近い。知っているだろう。止めを刺さないと、何度でも甦る」
「コアを、壊した?」
「偽りの魂とともに、ね」

ではこいつは、あの量産型エヴァを殺したのだ。
その肉体を支えるコアと、精神を支えるパイロットとを、共に殺したのだ。

「心配しなくてもいい。人間を殺したりはしていないよ。あれはダミーシステムで動いているからね。造られた意識のコピーに過ぎないのだから」

そう独白する少年の姿をした存在は、しかし表情を歪めた。
まるでヒトがそうするのと同じように、何かを嘆くかのような表情を形作っていた。

「何よ、その顔。人間じゃない癖に」

そう呟いて、私は気付いてしまった。
わかる必要のない事、あの中に有ったものの正体に。
きっとあそこには……いや、それ以上は考えるべきじゃない。

「そうさ、僕は個として完結してるはずの存在だ。でも厄介な事に僕の感情というものはヒトを模倣してしまう。だからそう、僕にシンパシーを感じる必要はないんだ」

いつの間にかこちらに向けられた視線。
奴の声がこちらに届くように、こちらの声も筒抜けらしい。
もしかしたら心の内側から出なかった筈の言葉まで。
実に厄介な奴だと思う。
こいつはヒトに近すぎるのだ。
得体の知れなかった他の使徒とは違う、少なくともわたし達に近い感情を持っているのが、分かってしまう。
現にあいつの瞳の中には、今だ哀しみの色が、慈しみの光が、浮かんでいるのだ。
それでもそいつは、前に進む。立ち止まろうと、しない。

「さあ、僕達にそう時間はない。彼女達を助けるのだろう?」

ああそうだ。
私は立ち止まる訳にはいかないのだった。
まだ何も終わってなどいない、まだやれる事がたくさんある筈だった。
奴の言葉でそう気がついて。
そして同時に、私は覚悟した。

「そうね、そう、あんたの言う通りだわ。私達には時間がない。でも」

視線をきっと水平に戻す。
その先に、徐々に距離を詰めてくる量産型エヴァンゲリオンが、二体。

「手は出さないで。あれは私が殺す」

そう、覚悟した。
自らの手を、自ら汚す事を。
その罪を背負う事を。

「だから、あんたは他の皆を守って。お願い」

そしてもう一つの覚悟。

ーー私が、使徒に頼み事なんて、ね。

今までの自分を否定して、私は拳を握り締める。
まだ、壊れる訳にはいかないから。
覚悟の強さが消えない様に、強く。

次に踏み出した一歩は、いつに無く重たく、しかし、揺るぎないものだった。



「碇さん、左」
「うっ、分かってる!」

体が、重い。
実際に動いているのは初号機で、その動きそのものに陰りは無いようだけれど。
ぎりぎりを通り過ぎる巨大な鉄の塊を躱す度に、私の精神が少しずつ削られていく。
緊張で体を強張らせる度に、エントリープラグに伝わる衝撃に耐える度に、私の体力も削られていく。
それは私だけじゃなく、綾波さんも同じだった。
エヴァは疲れなくても、私達はそうじゃなかった。

時間が経つにつれて、敵のエヴァの攻撃はますます鋭くなっている。
なんとか逃げるので精一杯で、しかしそれすらも危うくなって来ていた。
自分自身よりも遥かに高いエヴァの感覚と運動神経を頼りに、二人がかりで総動員し続けて。
極度の緊張状態に、私達の精神と体力はとっくに限界を超えていた。

ふうっと息をついた一瞬の空白。
そこに振り下ろされる一撃。
二人分の意識の空白に、反応できなかった。
右手のナイフが、弾き飛ばされた。

しまった、そう思った時には既に別の量産型がこちらに迫っていた。
初号機の体勢が崩れている。
慌てて立て直そうとするが、焦りが動きを鈍らせている。
目の前に、鈍く光る切っ先。

――回避、出来ない!

咄嗟に体を庇うようにして腕で覆う。
斬られると言う想像、その恐怖に、背筋を冷たい物が走り、身が竦んだ。
左腕が隣の綾波さんを強く抱きしめる。

けれど、痛みはやってこなかった。

代わりに感じたのは、震えた大地の震動と轟音。
そして、視界を遮る、銀色の壁。

『お前達をやらせはせん。例え何を犠牲にしようともな』
「これ、集光ビル……!?」

私達の目の前に現れたのは巨大な構造物だった。
建物の表面が陽光を反射する無数の鏡で覆われていた為に、私はそれがジオフロントへ光を供給する施設だと分かったのだ。
その前衛芸術の様な巨大な鏡の固まりによって、目前まで迫っていた刃が、量産機の腕ごと跳ね上げられ、空を切っていた。

『MAGIの機能を回復させ、初号機の支援に当たらせた。情報モニタ用に回線を開けておけ』
「じゃあ、これも?」
『そうだ。何を使っても良い、そう指示した。都市構造物の使用は想定の範囲内だ」
「でも、それじゃ街が……」
『要塞都市としての機能はこの戦いが終われば必要ない。作り直す事も出来る。お前達は勝つ事だけを考えろ』

突如、ビルに映る初号機の像が歪む。
素材の耐久限界を超えて捻じ曲がった反射体が、次の瞬間、粉々に砕け散った。
敵のエヴァが持つ巨大な刃が、集光ビルを真っ二つに切り裂き、粉砕して、その先端をこちら側に覗かせていた。

『やはり長くは持たんか。急げ、シンジ。立ち止まるな』

数百トンの瓦礫の山が築かれる中で、父さんの声は不思議と良く通って聞こえた。
そしてその声を聞くたびに、私の中にある感覚が広がる。

そう、これは戸惑いだと思う。
父さんの、あの父さんの言葉の中に、感情と言える物を確かに感じたから。
あの人の記憶で聞いた言葉と同じ優しさを、無骨な言葉の中に聞いたから。
今まで知らなかった、今まで聞く事の無かった父の言葉は、さざなみの様に私の心に波紋を広げて、私の中にしみこんできて。
訳のわからないままに、弾かれたプログレッシブナイフに飛びつき、再び構える。
まだ私の心は動揺から抜けられずにいたけど。
私は一人では無かったから、綾波さんが支えてくれていたから、私は動く事が出来た。

無機質な物でしか無かった父さんの言葉。
生まれた動揺は、唐突に嬉しさへ変わる。
それは私だけの物じゃなく、隣の綾波さんのものも混じっているようだった。

緊張で凝り固まった体が、精神が、少しだけ解けたように感じた。
まだ戦えると、感じた。

建物を破壊し尽くした量産型エヴァの凶刃が、こちらに向けられた。
だけどもう私は大きく後退して体勢を整えている。
情報モニタに表示された退避エリア。
私を包囲しようと近づいていた他の機体との間に、新たな壁が立ち上がって来た。

一人では、戦う事も、生き延びる事も出来ないだろうと、そう思う。
だけど、綾波さんがいれば。
アスカがいれば。
カヲル君が、ミサトさんがいれば。
父さんがいれば。
私は、私達は戦えると、そう、思った。



芦ノ湖湖畔の集光ビルが次々とせり上がり、初号機と量産型の間に割り込む。
そして本来初号機に向かうはずだった攻撃を受け止めて、破壊されていく。
元より頑強な作りではない。
エヴァの力を以てすれば壊すことなど容易だろう。
だが、それでもエヴァの全長を超える高さを誇る建築物だ。
破壊したとしても、その大きさが多少の足止めになる。

モニタ内で壁の裏側を移動していく輝点は初号機のものだ。
あの二人もなんとか踏みとどまってくれている。
だが、彼女達の頑張りに頼るので無く、我々があの子達を守るべきなのだ。
なんとしてでも、何を用いても。

「司令、湖畔エリアの損耗率がすでに60%を超えています」
「問題ない。MAGIの損害予測も誘導も正確だ。電力バランスだけ整えてやればいい」
「了解。次の予測移動区画に人員の配置を急がせます」
「ああ、任せる」

今、司令部は暗がりの中にあった。
正面モニター、サブディスプレイ、戦術投影マップも停止して、数個のオペレータ用モニタのみが淡い光を放っていたが、その光はこの広大な空間に対していかにも無力だった。

しかしこの司令部はまだ生きていた。
或いは、これまでで最も生物的に生きている状態にあるとさえ言えた。
静かに唸り続ける冷却ポンプの音。
最大稼働で動作するMAGIの消費したエネルギーの副産物を抑え込んでいる音だ。
この司令部の、いやネルフ自体の要ともいえる第五世代コンピュータ複合システムが、人の手の制御を離れて稼働していた。
あたかも、第3新東京市を体とした生物の頭脳のように。

先程、私は司令特権によりMAGIに命令を出した。

『初号機およびそのパイロットの保護』

同時に、MAGIへ私の許諾権限を全面委任も行った。
設定した限定条件は、ネルフ職員の安全を優先すること、ただそれのみ。
要は今MAGIはこの第3新東京市において殆ど万能と言える力を与えられているのだ。

尤も、その力が存分に振るえる時間はごく短いのだが。
他の支部からのMAGIへの攻撃は続いている。
その中で鉄壁を誇る自己閉鎖型防壁を解除したのだから、侵攻は一気に進むだろう。
それでも、例え短かろうと使えるならば使わねばならない。
そう言う状況に我々はいるのだった。

「ともかくも良くやってくれた。赤木君」
「私の創った物ですから」

Bダナン型防壁を展開したMAGIを、直接接続とはいえ通常モードに復旧したのだ。
4基のMAGI型システムですら突破出来なかった自閉ループを、ただ一人の女性が攻略して見せたと言うのは怖るべき事だと思えるが、私はこれを当然と感じていた。
何故なら彼女は、出来ると言ったのだから。

「対侵攻防壁効果は?」
「あと3分……いえ、2分少し位かしら」
「ふむ、短いな」
「信じるのでしょう?MAGIと、何より子供達を」
「ああ、そうだな」

どうあがいても直接的な力を持たない人間にとって、最終的にできるのは、見守る事、信じる事だけだろう。
だがまだ、その段階ではないと私は考える。

私と、リツコ君、そしてオペレータの青葉一尉。
わずかに残っていた本部の人員も、MAGIのサポートに駆り出され、司令部に残っているのはこの面々だけだ。
そしてこの中で明らかに手があいているのは、私だけだろう。

「司令、どちらへ?」
「それは君が指示しろ、青葉一尉。MAGIに従ってな」
「ですがそれでは……」
「既に私の権限はMAGIに委任している。ならばここにいる意味は無い」

この会話も、既にMAGIは聞いていたのだろう。
オペレーションモニタに、私への移動指示が浮かび上がっている。

――そうだ、それでいい。

処理できる情報量と言う点ではヒトなど及びもつかない世界の存在、それがMAGIだ。
システムとしての制約を取り払えばその力は神の手のように思えるだろうと、これを創り上げた女性が楽しげに話していたのを思い出す。
そう言えるだけの最高のシステムを遺して逝ってしまった彼女の予言が正しい事を期待して、次々と変化する状況表示から目を離した。

一歩、更に外へと進もうとしたとき、リツコ君の声が私を呼び止めた。

「碇司令、生きて、お戻りください」
「当然だ、死ぬ訳にはいかん。あの子達のためにも、君のためにも、な」
「そうですか……変わられたのですね」
「変わってなどいない。ただ少々目的が変わっただけだ、生きることのな」

私は敢えて碇ゲンドウとしてリツコ君と向き合った。
そうでなければ、私の想いは伝わらない。
ここは言葉が無くとも伝わるユートピアでは無いのだと理解していたからだ。
そのような世界を、ただ一人のために思い描いた夢は既に途絶えた。
いかに孤独であっても、ちっぽけな時間しか生きられずとも、私が選んだのは連綿と続くべき未来のための道だった。

――ユイ、私は歩もう。君の隣では無く、子供達の前を行こう。

だから。
せめて彼等に穏やかな風が訪れるように。
そして出来るならば、子供達を守ってやってくれ。
私の最後の勝手な我侭だがな。

届かない言葉を心に留める。
零れ出たのは、一言。

「さあ、行こう」



振り下ろされる刃を一つ躱して。
次の攻撃から逃げ延びて、ビルの影に隠れて。
息つく暇もなくそれが瓦礫に変わる。
それでも少しだけ空いた間の中で初号機を更に後退させた。

「大丈夫、まだいける」
「うん」

それはやせ我慢かもしれなかったけど、声を出したその分だけ体が軽くなったように感じる。
既に初号機は満身創痍と言う位に傷だらけだったが、機体そのものは疲れ知らずだ。
それが疲れているように見えるのは、私達二人が相当に疲労していると言う事。
初号機の負った傷が熱を伴って全身を蝕み、張り切った緊張の糸が、身体中の筋肉を縛り付けてかちこちにしていた。
一人なら逃げ出していたかも知れない。
いや、その前にもう死んでいたかもしれない。

そんな状況でも、私は不思議と絶望していなかった。
私は、一人じゃ無い、そう分かったから。
綾波さんも、惣流さんも、ミサトさんも、父さんすらも、私を支えてくれている。
今まで信じられなかった事全部を目の当りにして、ようやく分かった。
なんの価値観も持たなかった私の入れ物に、幾つもの芯が通ったようだった。
歪で、不恰好かも知れない、けれどそれは紛れもなく絆と呼べるもの。

目に見えない繋がりが、動けなくなりそうな体を引っ張ってくれている。
折れそうな心を、繋ぎ止めてくれている。

金属の塊と見えるブレードが鼻先すれすれを掠めていく。
直後に襲い来る逆の刃を姿勢を低くしてやり過ごした。

私は、私達はまだ負けてない。
逃げているのは、勝つためだ。
逃げて逃げて逃げ延びて、そうすればきっと、惣流さんがやって来る。
それであの連中を倒してくれる。
それで全部終わる筈だ。

だけど……、だけどもし、私があいつ等を止められたら。
もっと早く、戦いが終わるかも知れない。
私を守るために持ち上げられ次々と壊されていく建物も、被害を減らせるかも知れない。
そんな考えが、唐突に湧き上がってきた。

それは絆と言うものを知ってしまったからこその心の動きだった。
自分も何かみんなにできる事は無いのか。
自分が役に立つ事は何か無いのか。
ただ与えられるだけでなく、こちらからも繋がりたいと、そう思った。

また一つ、ねじ切れそうな程に体を捻って不恰好に逃げ延びた、その時。
偶然に、相手の懐に潜り込む形となっていた。
目の前に、がら空きの腹部。

不意にすいっと腕が伸びた。
ナイフが、柔らかな物の中へ、沈んだ。

「え、当たった?」

自分でも予想外の結果だった。
けど、それよりもっと予想外だったのは自分の行動そのものだった。
考えるより早く、気がついた時にはもう、プログナイフは敵のエヴァに突き刺さっていたのだ。
そうしてかん高い干渉音が途絶える。
プログレッシブナイフの超高振動機構が限界を迎えたのだった。

ーー何故、私はこんな。

混乱する自分への混乱した疑問。
そこに割り込んだ叫び。

『いかん、シンジ、逃げろ!』
「えっ!」
「だめ、間に合わない!」

深々と刺さったナイフは、致命傷には程遠かったのだ。
私はもちろん、綾波さんも少し、反応が遅れた。
おそらくは私の動揺のせいで。

しっかりと刺さったプログナイフを力任せに引き抜いて、慌てて一歩下がる。
一瞬、巨大な物質が眼下を通った。
なんとか助かった、そう思った時。
強烈な熱を感じた。

「え、あれ?痛、い……」

焼き付くような熱さとなって上ってきた痛覚に思わず左手を当てる。
自分の手から伝わった感覚に違和感があった。
確かにそこに触れているのに、何かすかすかな、何も無いような。
見下ろした初号機の左の脇腹。
掌のしたの空間が、ごっそりと抉られていた。

体の中で何かがずるりと落ち込み、強烈な吐き気が襲う。
失われた肉に支えられていた内臓が外へ溢れ出しそうになり、押さえる左手に生暖かさを伝えてきた。
両足の力が抜け、うずくまる。
下を向いた視界に、一歩進んだ敵の足が入ってきた。

「痛い、痛いよ」
「碇さん、逃げて、早く!」
『シンジ!』

みんなの叫び声も、身体を支配する痛みから私を解放してはくれなかった。
ただなんとか顔を上に向けて。
大きく振り上げられた凶刃を確認して。
これで終わりかと、そう思った。
死の恐怖が突き抜け、口から迸った。

「いやあああああああああ!」

人生最後の叫び声かな、などとどうでも良い事が頭を過ぎって。
綾波さんは私程痛くないと良いのだけど、と今更な心配事をして。
父さんともう少し話をしたかったなとスピーカー越しの声に謝って。

終わりの一撃が届くまでの数瞬で、感情を飽和させて、綾波さんにぴったりと身を寄せて、その時を待った。
けれど。

「まだだ!まだ負けられないんだ!」

エントリープラグ内に響いた新たな声が、私達を救った。



不意に、自分の身体が動いた。
いや、動いたのは初号機の方で、私の体がそれにつられたのだ。

真っ向から迫った肉厚の刃を、左右から両の掌で押さえつける。
いわゆる真剣白羽取の形で、初号機は攻撃を辛うじて受け止めていた。

「右へ!避けて!」
「あなたは!」

すぐ近くから、男の子の声が聞こえていた。
あり得ない事だった。
でも確かに、誰かがいるのだと感じる。
それを確認する暇は無かったけれど。

「急いで、そんなにもたない!」
「う、うん」

急かされ、膝立ちのまま、右側へジリジリと進む。
傷口が開いて、蓋を失った贓物が流れ落ち、ぶら下がる。
襲いくる吐き気。
飲み込んで、足を地面につけて、蹴る。
同時に腕が刃を払いのけ、その先端は地面まで深々と突き刺さった。

「はぁ、助かった、の?」
「気を抜いちゃダメだ。上!」

理解する前に体が前に出る。
意識の流れに操られるように、するりと動作がつながり。
右手が相手の左肘を弾き、左手は逆の手首をがっしりと捕まえていた。
次の攻撃が振り下ろされる前に、初号機がその出鼻を挫き、押さえ込んでいた。

「凄い、よくこんな事が出来る……」
「僕はイメージしただけだよ。動いたのは、動かしたのは君達だよ」
「え、でも」
「僕は、まともに体を動かす方法なんてわからないから」

僅かな膠着の中、私はようやく声のする後部座席に視線を向ける事ができた。
暫く空になっていた筈の其処に、果たして少年が座っていた。
線の細い、小柄な同い年位の男の子が、歯を食いしばるようにしながら真剣な眼差しを向けていた。

「あなたは……』

碇、シンジ。

何処か自分に似た輪郭を持つ彼に、以前会った事があるのだと思い出した。
あの時、彼と私ともう一人の私と、この初号機の中で。
あの時、彼は私をそこに私を閉じ込めようとした。
あの時、私はその何も無い世界に、生々しい彼の欲求に、私は恐怖した。

だけど今、彼からは狂気めいたものは感じられなくて。
そこにいるのは、私達と同じ戦おうという前向きな心を持つ少年だった。

「助けて、くれるの?」
「そのつもりだけど、君が思うほど役には立てないよ」
「そんな事」
「記憶はある。イメージも出来る。でも、さっきも言っただろ、僕にはまともに動かせないから。生まれてから一度も、肉体を持った事がないからね」
「どういう事?」
「使い方が分からないんだ。この体もLCLが擬似的に僕の心の形をとっているだけだよ。現実世界では、僕はまだ赤ん坊以下なんだ」

少し悔しそうな響き。
彼は、あの人の残りだと言っていたのを思い出した。
ではこの少年は、この初号機の内側で生まれ、その時からただ一人で時を過ごして来たのだ。
体の動かし方が分からないという彼に、小さく心が沈んだ。

「それでも、何も出来ない訳じゃない。傷も痛みも、僕が引き受ける。だから、だから君達は、戦って、勝ってくれ。あの人の為にも」

そう言われて、先ほどまでの気持ち悪い吐き気のする感覚がマシになっている事に気がついた。
飛び出した腑は時折のたうってずり落ちそうになっている。
普通ならば味わう事のない苦痛のほとんどを彼が引き受けてくれているのだと。
そう分かって、私は歯を食いしばった。
やるべき事、やらなきゃいけない事、この戦いに勝って、生き延びる事。

「……あの人は、どうしてるの?」
「彼女は……今、座にいる。初号機の魂の座に。僕の代わりに」
「碇さんは、生きているのね?」

綾波さんが遂に声に出した問い掛け。
私達は今深く繋がっていて、だから彼女の心が否応無しにもう一人の私へと向かっているのは分かっていて、そうしてその質問は私の内側にもあったものだった。
私からいろんな物を持っていった、けれどずっと私を守ってくれていた、こことは違う場所の私じゃない私。
私よりずっと強くて、ずっと積極的で、ずっと優しくて、誰からも好かれているような、そんな羨ましい人だと妬んだ事もあった。
その内側に穿たれた余りにも深くて大きな虚無の穴を知って、恐怖した事もあった。
自分がそこに生きているという事さえ諦観の中に埋もれて、壊れかかった自分に価値を見出そうとせずに、私の身代わりとして、戦って、擦り切れて。

「……大丈夫、彼女は消えてないよ。だけど、これ以上傷付かせたくはない」
「うん。私もそう思う。だからこれで終わりにして、その後、もう一度あの人にあって」

そう、今度は拒絶せず、抱きとめてあげたい。謝りたい。
そして勿論、感謝の言葉も。

その為に、再び視線を前に定める。
相手の手首を掴んでいた左手に力を込める。
更に右手も相手の左肩を掴んで押し込んでやる。
体の内がねじれて、後ろから小さなうめき声が聞こえるけど、振り返えらず我慢して。
一息に捻りあげる。
力の流れに沿って、相手の態勢が崩れて、投げ飛ばされる。
巨大な体が一瞬宙に浮き、背中から強かに地面に叩きつけられた。

それは私の知っている動きで、私に出来ない動きで、綾波さんも、碇シンジも再現出来ない、未熟なままの筈だった動きだった。
苦手だった対人訓練、私一人ではない、三人分の記憶が補完しあった結果だった。

「ねえ!私達、やれるよね?」
「やれるさ。いや、やるんだ」
「ええ、私達はやれる。そう信じてる」

一人では出来ない事も、二人なら、三人なら、やれるのだから。
そして私達は、三人だけでは無いのだから。

投げ飛ばされた一体が転がる様にして距離をとる。
その間にこちらは態勢を整え、次の攻撃に備えて体を低く構える。

警告音。
初号機のセンサーが上空にいくつかの点を捉えた事を知らせている。
それらは音速を超えて飛翔する多数のミサイル。
黒い粒のような群れがこちらへ向かっているのが見えた。

『至近弾に注意しろ。あれの目標は敵の量産型にセットされているはずだが』
「支援、なの?……ありがとう、父さん」
『礼などいらん。やったのは私ではない、MAGIだ』

程なく、空から無数のミサイルが周囲に降り注いだ。
私には一つたりとも向かう事なく、ただ白いエヴァたちの頭上のみに。

『本来ここを攻撃する為の特製弾頭だ。奴らとてATフィールド無しでは耐えられまい』

戦略自衛隊のミサイル基地から発射されたらしいその攻撃は、非常な正確さで敵のエヴァを捉えていたけど、地殻破壊を目的とする特殊ミサイルでもATフィールドを砕く事は適わない様だった。
それでも、高密度の爆発から身を守る必要がある程度には強力であって、お陰で私達への攻撃は中断された。

そして。
その雨のなかから、ミサイルとは別の物が落下してくる。
巨大な、赤の体躯。
その足が、落下の勢いにまかせATフィールドを踏み抜き、粉砕した。
咄嗟に交差した腕ごとエヴァの頭を、そして胴体すら押し潰し、引き裂いて。

『うおおおおおおおおっ!』

地面が揺れる。
加速度をそのままに、弐号機の両足が大地まで突き抜けたのだった。
真っ二つに引き裂かれた白い躯体が、体液で染まりながら左右にだらりと崩れる。
踏み抜かれた足の下で、赤く輝く球体がひび割れて、弾けた。

『お待たせ』
「アスカ!」
『大丈夫、でもないわね。ふん、十倍にして返してやるから安心して』

そう言うと彼女は初号機を背に庇う様にして残る二体に相対する。
立ち上がった弐号機の手には、敵のエヴァの持つ武器と同じ物が握られていた。
おそらくは奪い取ったのであろうそれを腰だめに構え、奴らに突きつけた。

だけどもう私も、ただ守られて安心しているだけでいるつもりは無かった。
弐号機の影から、右側へ抜け出す。
そうして隣り合う形で、私もまた敵のエヴァと睨み合った。

『何よあんた、戦うつもり?』
「うん。もう、逃げるのはたくさんだから。私も、パイロットだから」
『そう、……ならそっち、任せるわよ』
「うん、分かった。やってみる」
『無理しちゃって、もう。負けるんじゃないわよ、バカシンジ』

アスカはあっさりと了承してくれた。
彼女のいう通り、無理してるのかも知れない。
けど、彼女のいう通り、負けられない。
そして、何も出来ずに終わるのは嫌だった。

ーーバカシンジ、か。

考えて見れば、私は彼女にまともに名前を呼ばれた事が無いのじゃないか。
戦いの中で、アスカの事を知って、共感もして、だけど未だに私達は碌に会話もしていないのだ。
心の中が判る不思議な体験、けれど現実にはお互いに何も話していないに等しくて、彼女を身近に感じるのもただの錯覚かも知れないのだった。

それでも、彼女の先ほどの私の呼び方は、ただ馬鹿にしたばかりでは無いように思う。
ただの他人と言った遠い関係では決して含まれる事のない気さくなものが含まれているのだと、そう私は感じていた。

ざすり、と、弐号機が踏み出した足の運びが聞こえた。
私も地面に落ちたプログレッシブナイフを拾う。
ボロボロで、機能するのかも怪しいそれを握り直し、相対する敵を睨む。

ーー絶対、負けないから!

強い決意が沸き上がり、それは恐らく他の二人にも伝わった。
そして同時に、大地を蹴る。
それは多分、私が初めて自分から敵に向かっていった一歩。
何かが、確実に、私の中で変わり始めていた。



『残弾惜しむな、撃ち尽くせ!』
『リニアカタパルト8番を降ろします。策敵班、塹壕代わりに使ってください』
『戦自から支援連絡、偵察衛星の使用許可も出ました』

通信回線から聞こえる声が俄かに騒がしくなった。
半分死に体だった要塞都市の機能が復活し、通信網も回復したらしい。
残った敵はあと二体。
始めの頃に比べて明らかに動きは良くなっていて、油断していい相手じゃ無いけれど。

先に仕掛けた弐号機が手にした敵の武器を横凪に振り回す。
巨大な金属の塊同士がぶつかり、盛大な火花を上げる。
敵の機体が勢いに負けてたたらを踏んだ。
一緒に弾かれた瓦礫が後方観測を行っていた部隊に降り注いだけど、その前に光の「壁」が立ちはだかり、それが人間に届く事は無かった。

『アスカ、焦らないで。こっちも考えなさい』
「分かってるわよ。しぶといわね、こいつら』

既に量産型エヴァには数の利は無くなっている。
都市機能を復活させたこの要塞都市自体を用いた妨害、地上部隊の再支援、カヲル君の手助けもあり、彼等の行動は著しく制限されはじめていた。

「よし、今だ!」
「うん!」

地上部隊の霍乱攻撃とMAGIによる格納ビルの射出による行動妨害。
それらにより生じた隙を見逃さず、一撃を加える。
振り下ろしたナイフの切っ先が、量産型エヴァの表面を削った。
浅い、けどまだいける。
そのまま今度は、ナイフを突き出す。
真っ直ぐに胸の中心を狙ったその一撃を、奴は大きく仰け反り、背面に転がって逃げ延びた。

後、もう少しだ。
そうだ、後もう少し。
逃がさない。

一歩分の跳躍。
空気の層を切り裂きながら、プログレッシブナイフを突き下ろす。
キンッ、と甲高い音がした。
あの幅広の双剣の腹に、受け止められた。
急ぎすぎた、こちらの狙いを読まれていたのだ。

もう少し冷静にならないと。
息をつき、精神を落ち着かせながら下がろうとして。

「えっ?」

右の手が、失せた。
指の付け根から先が、痛みもなく、ただ、消えたのだ。
喪失感のみを残して。
握っていた筈のプログナイフが、支えを失って、落ちた。

「しまった、槍!ここにきて使うなんて」
「ロンギヌスの、鎗?」

先ほどまで切っ先を受け止めていたはずの剣が、細長い螺旋を描いていた。
今も不気味に蠢動しているそれに触れていた部分が、消滅したのだと、ようやく理解して。

「う、わ」

右手の先の指の感覚が、すっぽりと抜け落ちている。
元々なにも無かったと言う位に、私の手はそこにまだある筈なのに、なにも感じない。
怪我を負うのではなく、消し去られる。
得体のしれない感覚への恐怖が、湧き上がってきた。

「大丈夫!まだ逃げちゃだめだ。確かに危険だけど、あれにはエヴァを消しされる程の力は無いから」

そんな私を、彼が叱咤する。
そうだ、彼は知ってるんだ。この戦いを、あの武器を。
ならきっと、大丈夫。大丈夫なんだ。

『なによあれ!どうやってる訳?!』

なんとか退避した私の耳に、アスカの怒鳴り声が響いた。
ちらりとみると、向こうも武器の形が変わっている。
弐号機は無事のようだけど、彼女の機体が持っている敵から奪ったものは元の形のままだ。
それが気にいらないらしい。

『ああもう、あの方が使いやすそうじゃない。これ、クソ重いってのに』
「……アスカは、大丈夫そうだね。あの調子なら」
「うん、動ける間はね。でも時間がたっぷりある訳じゃない」

ミサトさんの捨て身の緊急充電である程度回復したものの、元々エヴァの内蔵電源の容量は少なかった。
今はこちらに有利でも、長引けば、形勢はまた逆転するだろう。
せめてこいつ位は、私達が倒さないと。

だけど、どうやって?
唯一の武器も、手放してしまった。

体を捩る。
奇妙なほど長く伸びた槍の穂先が通り過ぎて、空気を裂いた衝撃音が後ろから続いた。
あの槍はいかにも強力で、下手に動けばこちらがやられてしまう。
このままでは、何もできない。

だけど、諦める事はもうしない。
急に勢い付いて狂ったように攻め立ててくる攻撃を躱し続ける。
どんなに無様な姿勢になっても、相手から目を逸らさず、勝つための方法を探して。

何度目かの猛攻を凌いだその時。
無線機に、歓声が聞こえてきた。

『よっしゃ、獲った!』

向こうで戦っていた量産型エヴァの両腕が切り落とされ、握り締めた腕が付いたままの槍が地面に転がっていた。
更に踏み込んだ弐号機が、回る。
一回、二回、三回、まだ止まらない。
一度回転する度に、二度の剣戟が目の前の物体を切り裂いて。
粉砕機と化した弐号機の動きが止まった時、相手のエヴァは原形を留めていなかった。

その様子に、私も、相対する敵のエヴァすらも、一瞬動きを止めてしまった。
お互いに曝け出した致命的な状態。
けど、奴は一人で、私はそうじゃない。

相手の周囲に残っていた全てのビル群が撃ち出された。
隙間だらけだけど、檻を思わせるそれは、相手の動きに僅かに制限をかける。
そして作り出した死角に、更なるリニアの稼動音が響いた。

『シンジ、レイ、受け取れ!』

エヴァの輸送用カタパルトが運んできた大型のトラック、その運転席に座る父さんの姿を、私の目ははっきりと捉えていた。
その貨物台に、手を伸ばす。
初号機用の新しいプログレッシブナイフを握り締める。
同時に、身を隠してくれていたビルが、砕けて、槍の先端が迫ってきた。

降り注ぐ破片を、ATフィールドをなんとか展開して押し留めて。
その壁をあっさり貫いた槍の向こうに向かって、左手を突き出す。

「くっうう」

頭部装甲の左側面が、砕け散った。
けど、痛みを感じたと言う事は、少なくとも、消されてはいないのだろう。
そして、確かに感じた、手応え。
ビルの残骸を挟んで、真っ直ぐに伸ばした腕の先。
白い表面装甲を貫いて、プログナイフが相手の中心に突き刺さっていた。

自分達の呼吸音がやけに大きく聞こえる。
敵の動きは止まっている。
身体中の力を動員して、更に一押し。
ナイフを握った手に硬いものが砕けた音が伝わって。
量産型エヴァが、ゆっくりと後ろに倒れていく。

左手をナイフから放すと、支える物の無くなった白い巨体は、背中から大地に倒れ込んだ。
槍を握っていた手も力を失い、地面に転がったそれは、するりと元の大剣へと戻った。
半分に壊れたビルの向こう側で、量産型エヴァは、大の字になり、動かなくなった。

戦場に、静寂が戻った。



「終わった、の?」

敵のエヴァは、全てが機能停止していた。
無惨に破壊された白の躯体と、巨大な双剣の姿に戻ったロンギヌスの槍が、転がっている。
周囲の建物はその殆どが原形を留めてすらいなくて、辺り一面が瓦礫の山で埋め尽くされていた。
急に静かになったと感じる。
私達が戦闘で作り出していた破壊音が、エヴァの地鳴りを起こす足音が、全て止まったせいだ。

どんっと、そこに最後の地響きが起つ。
弐号機が手にしていた奴らの武器を、地面に突き立てたのだった。

『そうよ、あたし達が、勝ったのよ!』
「勝った……」
『ええ、お疲れさま、シンちゃん』
「ミサトさん……」

静寂が、唐突に終った。
あちらからも、こちらからも、人々の叫び声が聞こえる。
言葉でも、声ですらない叫びが、喜びの叫びが、辺り一面に広がっていく。

その声が、私にようやく実感をもたらした。

ーー終ったんだ。やっと、終ったんだ。

「綾波さん、私達……」
「ええ、終ったのね。これで」
「これで、未来は変わった。僕らの知る終わりとは違う、希望のある未来に」

綾波さんと手を取り合い、握り締めて、一人呟く彼に視線を向ける。
そうだ、彼等の世界、白と赤と黒の、原色のみで彩られた様な終末は、これで無くなったのだ。
だから、彼等にとって、そして私達にとっても、これは終わりなんかじゃなく、新しい始まりなんだと思う。
終ったのは戦いだけで、終っていない事は、まだまだたくさんあった。
例えばそう、彼女を、ここから救い出す事だとか。

『シンジ、レイ』
「父さん?」
『良くやった。やってくれたな』

ああ、でも今は、今だけはこの喜びに身を委ねていたい。
それ位は許してくれると思うから。
だって、父さんが褒めてくれたのだから。
私を見てくれているのだから。
アスカ辺りには笑われるかも知れないけど、きっと私がずっと欲しかった物はこれだったから。

涙が出そうなほどの感情の余韻に浸り、それから、返信の為にアクティブ回線を切り替えようとして。
そこに別の回線が割り込んだ。

『逃げて!』

緊急回線のランプ。
アスカの叫びが、束の間の安らぎを、砕いた。



「え?」

背中から軽い衝撃が走り、その直後、後ろから前へと何かが突き抜けた様に感じた。
ふと見下ろせば、初号機の腹部から、二本の金属の切先が突き出していた。

何が起きたのか、把握する暇もなかった。
直後に強烈な神経負荷がわたしの脳を揺さぶり、プラグを襲った独特の加速感が全身を包んだ。

「うっ、強制排出シーケンス!?これ、なんで」

そう訊ねた先の少年の陽炎は、既になかった。
インテリア内の計器類が異常事態のアラートを発して、飛来する何かの像を最後に映像回線が切断する。
爆砕ボルトが弾ける衝撃と共に何か大きな存在から遠ざけられていく。
既に私達は、初号機の中にいなかった。

「ああっ!碇さんが!」

隣の綾波さんから聞こえた悲痛な声。
自由落下を始めたエントリープラグが、突然、ぐんと減速した。
減速用のパラシュートが展開したのだろうか、だけどその落下速度がもどかしく感じる。
逆噴射ロケットの噴射。
一瞬上昇したかという錯覚と同時に、背中側で地面と衝突した感覚がシートに伝わった。
リニアシートが搭乗位置まで下がって行く。
全体の傾きが垂直から水平へと倒れて行く。

ロケット噴射による加速制御と衝撃保護機構が中の私達を守るべく確実に動作して、ゆっくりと倒れたエントリープラグが横たわった時の衝撃は僅かな物だった。
だけどそれはつまりそれだけ時間をかけていると言うこと。
綾波さんの焦りが、神経接続なしでもはっきりと伝わってくる。
自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。

アラートがレッドからオレンジへ。
側面ハッチが圧搾解除して、自動開放された。

外へ、出なければ。
思いだけが空回りして、体はよろめき、立ち上がることもままならない。
そして初めて、自分が震えている事に気付いた。
戦いによる極度の疲労だけでなく、恐怖が全身を捕らえて離さなかった。

そんな私の手を握り締める手。
私と同じように震える手が、私を支える。
私も震える手で、彼女を支える。
二人でお互いに支えあって、何とかインテリアシートを抜け出す。
二人の足が非常脱出口に踏み出され、そのままもつれるように外へと倒れ出た。

「あう……、綾波さん、大丈夫?」

強かに打った肩の痛みに顔をしかめつつ、未だ抱きしめたままの彼女の体を揺らす。
だけど力無く崩れたまま、綾波さんは何の反応も返さなかった。

「綾波、さん……?」

全ての表情が抜け落ちたかのような彼女の顔、その中で紅い瞳だけがただ一点を見つめて震えていた。
その視線の先を私の瞳が辿る。
数百メートル先の、その場所を。
先ほど投げ出された紫の巨人を。
そして、私もまた、自分の中から何かが抜け落ちたのを感じた。

エヴァンゲリオン初号機の背中から、一本の長く鋭い物が突き出していた。
そしてその頭を、二股の槍が貫いていた。
ロンギヌスの槍。
心の壁を砕くもの。
存在を無に還すもの。

ーーいや、嘘。

あの時に見た、宇宙にいた使徒が一撃で消滅した、あの武器が、痛みすら感じさせず、ただ消し去るあの槍が、初号機を串刺しにしている。

私は知っていた。
あそこに誰がいるのかを。
私によく似た少年と、私によく似た少女を。
あの人達が、まだあそこにいる事を。
初号機と、深くつながっている事を。

知っていることが繋がって、目の前の光景が繋がって、唐突に私は理解した。
心の内が神経を伝って。
全身が粟立ち。
私の頭は事実を拒絶した。

時が止まったかのように、全ての感覚が失せた様に思えた。

「シ、ン、ジ……」

掠れるほどの小さな自分の呟きだけが、恐ろしく大きく響いた。
初めて呼んだその名前が、再び時を動かした。
私だけでなく、止まっているように思えた全ての時間を。
あまりに残酷な、現実を。

初号機を、新たな槍が四方から飛来し、貫いた。
体中を串刺しにされて、初号機が崩折れてゆく。
彼女の、彼の命が、失われてゆく。

「ひっ、い、嫌ああああああああ!」

同じ絶叫が隣から聞こえて、それを最後に、私は意識を手放した。