Migraine


第拾六話:君は、独りじゃない

Childhood's End


気がつくと、ドロリとした白い靄に包まれていた。
それどころか、私自身すらその白い物と一緒になっているようで。
自分と世界の境界が分からない、自分と他人の区別が存在しない、不思議な感覚に飲み込まれていた。
上も下も、右も左もない、時間の流れも感じない、法則その物が失われた様な、平坦な場所。
辛うじて私は私だと認識出来ているのが信じられないほどの発散した終息の世界。

ーー私とは、なんだったっけ。

自分と言う存在に違和感を覚えて、小さな疑問が泡のように弾けた。
取るに足らない、小さな、この場所に対して本当に小さな疑問。
波紋とも言えない小さな揺らぎ、そんな物が世界に与えた影響はしかし劇的だった。

生暖かい霧と思えた何かに触れる指が目の前にあった。
その手を認識する瞳があった。
肌に触れる掌の感触が、同時に肩の皮膚を通じて熱を伝えてもいる。
視線を下ろせば、年相応と言うにも控え目な主張しかしていない体の曲線が見える。
見渡す限り白い距離感のない空間で、私は辛うじて私を認識していく。

そうだ、私は、碇シンジ。
それが私だ、私の名前、私を表す言葉だ。
そう認識してから、急に恐怖が襲ってきた。
今の今まで、私は私でなくなりそうだったのだと、自分も他人もなくなりそうだったのだと、そう気が付いたから。

何故それが怖いのだろう。
私は、他人の中に埋没して生きていたはずなのに、自分という個を消し去ろうと人生を浪費していたはずなのに。

「ううん、私は、知ってる。何もないってどういう事か」

そこは全部が終わった後の場所だった。
そう、今の戦いが全部終わって、そうして訪れた、何もなくなった世界。
ヒトなどひとりもいない、命ある物の尽くが消えてしまった世界。
そんな場所にただひとり残される、絶対の孤独。
ヒトの本能が拒絶する、なんの望みも残っていない、永遠の終わりの終わり。
そこがただの夢の中で、現実から私一人が逃げ込むだけなら、ただ私がいなくなるのと変わらないかも知れない。
けれど、そこが紛れもない現実で、私以外の皆がいなくなると言うのは、逃げ出した場所すら無くなるという事。

私の逃げ出した場所。
先生の所。
母さんのお墓。
エヴァ。
葛城さん。
アスカ。
綾波レイ。
父さん。
碇シンジ。

逃げた場所、嫌だった場所、苦手だった場所、怖かった場所、そんな場所も、全部消えてしまう、戻れなくなってしまう。

血の匂いのする唇の感触を残して、爆音の中に消えてしまった自分を騙すのが苦手だった人。
苛烈な怒りを秘めたまま、けれど動く事も出来ずに贄とされてしまったエヴァのパイロット。
失った自分の残滓にしたがって、崩れていく自分を、過去の自分のために差し出した少女の似姿。
叶わない望みを望みとして、贖罪として受け入れ、消えていった不器用な人。
そして何も出来ないまま、気がつけば世界のすべてを内側に抱えて、誰もいなくなった世界に放り出されたひとりの少年。

終わりの記憶、そう、全ての終わりの瞬間を私は知っていた。
いや、そうじゃない。
全てを知っているのは、碇シンジだ。
私と同じ名前のもう一人の少女、或いは少年。

「私は知らない。こんなの知らないし、きっと、こんな事にはなってない」

そうだ、私はこんな記憶は知らないけど、知っている事もある。
アスカはあんな風に負ける訳がない事くらい、私は知っている。
葛城さんは一人で戦っている訳じゃない事も、私は知っている。
綾波さんは綾波さんだと、私は知っている。
父さんが、一緒に戦ってくれているのも、私は知っているんだ。
そうして私達はまだ、あの世界に辿り着いてはいないはずだった。

けれど、それならここはどこだろう。
最後の記憶を手繰り寄せる。

覚えているのは、白い、とても大きな手。

そう、そうだ、私は、私達は、あの人に助けられて、初号機から押し出されて。
多数の槍が、初号機を、もうひとりの私を乗せたままの機体を貫くのを唖然と見ていたのだ。
隣にいた綾波さんも何も反応しなくなって、世界の全てが止まったように感じて。
けれど、身体中穴だらけになった初号機がゆっくりと倒れて行って、そこに気味の悪いかすれた笑い声が響いて。
精神を泡立たせる卑下た笑いを発する物体、原型も分からないほど焼けただれた芋虫のような量産型エヴァを見つけた直後に、綾波さんの絶叫が響き渡ったのだった。

悲嘆と絶望をそのまま音にしたその叫びは半ば廃墟とかした都市中に届きそうで、永遠に終わらないように感じたけど、その始まりと同じ用に唐突に終わって。
それきり、綾波さんは動かなくなった。
声と一緒に自分の中身まで吐き出したように。

抱きとめた彼女の顔を覗き込むようにして呼びかけたけれど、綾波さんはここではないどこかを見つめたまま、彼女は戻ってこなかった。
エヴァの中では、ついさっきまでは、彼女の心は私のすぐ隣よりもっと近いところにあったのに。

何も分からない。
彼女がまだ意識を保っているのかさえ、分からない。
急に感じた孤独感に体が震える。
少しでも強く綾波さんの体温を感じるように、強く強く抱きしめて、縋り付いて。
そうして、周りの状況に気を配る事も出来なかったのだ。

だから、辺りが急激にくらくなってしまって、湧き上がった悪寒に振り向いた時にはもう、それは直ぐそこに迫っていた。
白くてぶよぶよとした、捻じ曲がった巨木のような何か。
そんな物が4本、いや、さらにもう一本、地面から生えて来る。

軟体生物のように表面を震わせる気色悪い5つの柱。
私と綾波さんに覆いかぶさるように伸びて、広がって。
身じろぎする暇もなかったはずなのに、視界が白で染まっていく様を、私はまるでスローモーションの映像を見るようにゆっくりと感じていた。
不恰好なそれらが根本で全部繋がって、実は恐ろしく巨大な手の指だったと認識した時、私達は共々に。巨大な壁その物といった掌に包まれていた。
どうしようもなく、あっけに取られたまま、私達はその掌に握りつぶされていって。
けれど、痛みもなく、するりと白い肉の内側に飲み込まれて、全部真っ白になって。

そこで、記憶が途切れていた。

「そうだ、私は、私達は、あの手に……」
「思い出したかい?」
「誰?」

疑問が反響して、世界を光が駆け巡り、私の所に戻ってくる。
目の前で一つに固まって、人の形を作り出す。
答えが、具体的な形を持って返ってきた。

「碇、シンジ」

その名前を口にした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
彼の姿に、少女の幻影が混じる。
私自身の姿が混じる。
名前、同じ名前が記憶を刺激して混乱をもたらしたのだった。

「僕は君の、そう、君の別の可能性さ。全部じゃ無いけれどね」

少年の声を認識して、ようやく奇妙な捩れた光景が収まっていく。
私が私に、彼が彼に、別々の形を持った存在に戻っていく。

「今のは何?」
「ここは認識の世界だから。君の想像次第でどんな事だって起こる。気を付けて」
「じゃあ、あなたも私の想像?」
「君の認識する僕は君の想像かも知れない。でも、僕がここにいる。君とこうして話している僕の言葉はただの空想の産物じゃない」

ここは安息の場所なのだと、彼は言った。
生まれた記憶、生を受けた魂、それらが最後にたどり着く場所。
新たな再生を待つ場所。
始まりの場所。

「ここからヒトは始まった。そして、今も生まれ続けている。知性と生命の揺り籠みたいな所なんだ。綾波もその事を知ってた。だからこうしたんだ。綾波レイと言う存在を犠牲にしてでも、ね」
「それってもしかして、これを、綾波さんが?」
「うん、彼女はリリスの一部、偶然に生まれでた心の欠片なんだから」
「でも、どうして」

疑問を口にしたけれど、考えるまでもなく、私は気付いていた。
何のためにこんな事をしたのか。する必要があったのか。

「あの人の、ため?」
「……それしか、ないじゃないか。僕も、君達だって、初号機を、彼女を守り切れなかった。だから……」

だから、綾波さんは生と死が限りなく近いこの場所を作り出したのだ。
記憶と魂が停滞しているここなら、あの人が消えてしまわずに済むはずだから。

「じゃあつまり、あなたがここにいると言う事は……、あの人もここに、いるのね?」

綾波さんはその為にあれを呼び覚まして、飲み込まれたのだ。
エヴァと彼も共々にあの人を取り込んだのに違いなかった。
この距離感のない、全てがどろどろに混じって白く澱んだこの世界の何処かに、もう一人の私がいるはずなのだ。

「……いるよ、確かに彼女はここにいる。だけど、……遅すぎた」
「まさか」
「死んではいないよ。少なくとも、魂は辛うじて残ってる。けれど、意識と呼べるような物はもうほとんど残ってない。僕達みたいに形を保つことがもう出来ないんだ」
「そんな……」

綾波さんが何もかも捨ててでも助けようとしたと言うのに、これだけのことをして、助けようとしたのに。
それでもまだ足りないだなど。

「ねえ、あなたなら知ってるんでしょう。あの人を助ける方法を知ってるんでしょう。助けられるんでしょう」
「……ごめん。僕には、出来ない」
「嘘よ、全部知ってるんでしょう。あなたなら……」
「僕は!僕じゃあの人に近づくことも出来ないんだ!」

絶望を滲ませた叫びが、私の言葉を、希望を遮る。

「……彼女がここに溶けて消えてしまう前に、自分の形を取り戻させれば、きっと助けられると思う。何とかして元の形を思い出させればいいはずなんだ」
「何とかしてって、どうすれば?」
「僕は元々、彼女だった物から生まれた。だから、僕自身をあげるつもりだったんだ。僕は昔のあの人の全部を持ってるはずだから。だから、それであの人が助かるなら、僕の全部、何もかもあげてしまったっていいって、そう思ってた」
「でも、それじゃ今度はあなたが消えてしまうんじゃ」
「それでも良かったんだ。それでも、一人よりはずっといい。……でも駄目だった」

何かが、足りなかったのだろうか。
それとも、あの人は既に、彼と違ってしまっていたのか。
静かに首を振った彼の答えは、そんな想像とは真逆の物だった。

「僕の持ってる物はあまりに大き過ぎるんだ。ボロボロの魂じゃ受け止めることなんてとても出来ないほど、大き過ぎるんだ」
「あなたが触れられないのは、そのせい?」
「それだけじゃない。僕は、あの人に近すぎたんだ。僕が彼女に触れれば、あの人はきっと僕の全部を受け取ってしまう。そう分かったから、僕には、僕にはどうすることも出来なかった」

今のあの人は萎んだ風船。
それもあちこち磨り減って傷だらけなのだ。
昔と同じように膨らませれば、あっさりと破裂してしまうに違いなかった。

「それじゃあ、あの人は助からないっていうの?綾波さんがこんな無茶したって言うのに」
「……手は、あるよ」
「でも、あなたは」
「そう、僕じゃ、無理だ」

感情を押し殺そうとして低く響いた言葉に、ハッと気がついた。
彼の言わんとする事が。

「もしかして、私なら出来る、の?」
「絶対、なんて言えないけど。どちらかというと分が悪い賭けだと思う。でも君だってあの人を形作ってる物の一部な筈なんだ。だから、可能性はある。君になら、彼女を、碇シンジを救いだせる可能性が」

そういうと彼は、体を半分引いて、私に後ろ側を見せるように開けてみせた。

どくんと一つ、心臓が高鳴る。
なんで今まで気が付かなかったのか。
彼が今まで私の視線を遮るように立っていたまさにその向こう側に、あの人がいたのだ。
いや、いたと言うのは正しくないかも知れない。
だってあの人はもう、ヒトとしての形すら取れずに、ただ漂う靄のような不確かな存在でしかなかったから。
それでもそれが彼女であると分かったのは、私が今まで出会ってきたあの人がいつもこういう、精神的な世界の中だけだったからかも知れない。
私がこの人をこの人として認識している対象と言うのは、正しくその心のあり様その物のみだったのだから。

「やっぱりすぐわかるんだね。ちょっと、妬けるな」
「そんな。でも、今までちっとも分からなかったのに。あなたが何かしてたの?」

彼はあの人に近づくこともできない筈ではなかっただろうか。
それならどうして、隠しておくなどと言うことが出来たのだろうか。

「あの人に近寄れなくたって、だれも近づけないように割り込むくらい出来るよ」
「それって、あの人を隠すんじゃなく、私を閉じ込めていたってこと?」
「君だけじゃない、他全部、だよ」

彼の言葉の意味が徐々に具体的なイメージになって実感として感じるにつれ、その途方もないスケールに眩暈がした。
この空間に漂っている様々な思惟、その全てを、ただ彼女に近づけさせない為だけに飲み込んだというのか。
それは唯のヒトでは到底なし得ない所業だ。
ここは私達だけじゃなく、いろんな人のいろんな記憶や感情も淀み固まった人の魂の墓場なのだ。
その全てを自らの内側に取り込み、留めて、なお平然と自分を保つなど。

「生まれた時から似たような物だったから、僕にとっては造作もないことなんだけどね」
「それって、あなたが持っているものは、ここと同じような物だって?」
「そう言うこと。さ、早く行って」

彼に促されて。
その形を成さない塊へ向けて体一つ分だけ彼よりも前に出た。

すると、突然視界が少し明るくなったように感じた。
ずっと感じ続けていた、どろどろとした液体の中につかっている様な重さから、全身が解放されている。

ーーきっと彼が飲み込んでいた領域から抜け出したんだ。

そう思って振り返り、アッと声をあげた。
さっきまですぐそこにあったはずの彼の姿は、遥か彼方の小さな人影と化していた。
灰色の靄の向こう側に、わずかに手を掲げているのがようやく分かる程度の遠方。

「いつの間にあんなに遠くに。……ううん、それだけ距離を離そうとしてるんだ」

彼女を助けたい、見守りたい、けれど近寄れない、触れられない。
そんな葛藤がこの距離を作っているのだろう。
ここでは心の有り様が、そのまま現実になる。

私は彼女に近づこうとして。
彼はできるだけ離れて。
けれど見失わない場所へ行こうとした。

その結果がこんなふうに”見えて”いるのだと考えれば、なんとなく納得出来る。
だけど。

「それでも少し、遠すぎるよ。ほんと、口ぶりの割に怖がりなんだから。私とおんなじ、か」

彼と彼女の間に広がる空間には、一点の曇りもない。
ただただ、白いとしか言いようのない均質で静かな世界が広がっていた。
彼女以外のすべてのものは彼が取り込んでしまったのだ。
ほんの小さな記憶の欠片すら彼女に触れることはない、いわば真空と同じ、記憶と魂の空白地帯。
何もない、あまりに空虚な世界に寒気を覚える。
耳鳴りがして、しくしくとした頭痛が襲う。

ーーこれは、ここは。だめ。こんなの、耐えられない。

私じゃない、あの人が、耐えられるわけがない。
こんな、誰もいない場所だなんて。
それくらいは、彼だってわかっているはずなのに、何故?
そう思いながら、形の定まらない、なんとか人型の塊とみえるだけの彼女に急いで近づいた。
せめて、私一人分だけでも彼女の側にいてあげられるようにと。
淡い光を湛える塊に触れようとして。

この世界と彼女との境界ぎりぎりで伸ばした手が止まった。
なぜ、彼が彼女をこんな孤独な世界に閉じ込めたのか、理解できてしまったから。

「もう、ほとんど、残ってない……」

そこにあったのは、軽く触れただけでも壊れてしまいそうな、本当に薄い境目だった。
それもそこかしこがほつれて、穴が開いた、ボロボロの心の壁。
彼は、不用意に何かにぶつかって誰かに壊されてしまうより、ゆっくりと彼女自身が壊れていくことを選んだ、いや、それしか選べなかったのだ。
彼にとっては私をここに入れることすら相当の苦痛だったに違いない。
きっと私が少しでも下手なことをすれば、たちまち彼女の存在は崩れてしまうだろうから。
失敗して壊してしまうくらいなら、壊れていくのを見守ったほうがいくらかましだろうから。

それでも彼は、私に託してくれた。
それがどれほど辛い決断だったか。

「……逃げちゃ、駄目だ」

本当に、私なんかに出来るのだろうか。
ずっと感じていたそんな不安を押し込める。
もう、逃げない。
私に出来ると言うなら、そう信じて、進むだけ。

深く深く深呼吸して。
今度こそ、彼女に触れる。
柔らかく、優しく抱きかかえる様に。

「消えちゃ駄目だよ。綾波さんも、アスカも、ミサトさんも、父さんだって、みんな待ってるんだから」

誰も望んでいないんだ。
"碇シンジ"が消えてしまう事なんて。
もちろん、私だって望んでいないんだ。

「一人で戻れないなら、私を見て。一人じゃ足りないなら、私をあげるから。だから、消えないで、戻ってきて」

祈る様な願いとともに、彼女と私の身体を重ねる。
二人を隔てている壁が震えて、溶けていく。
私と彼女の境界が消えて、混じり合っていく。

どちらのものだろうか、どくんと一つ心臓がなって。
真っ白な世界が、反転した。