Migraine


「ありがとう」

声ならぬ声が、響く。
水面を伝わる小波のように、静かに、しかし確かに、それは聞こえてきた。
世界を包む、少年の声。

「なんとか、私にも出来たよ」
「うん」
「彼女はもう、きっと大丈夫」
「うん」
「だからほら、大丈夫、もっとこっちへ」

小さく頷く声は聞こえても、彼自身はまだずっと遠くに佇んだままだった。
彼の心が、彼女を壊すのではないかと言う恐怖が、未だに近寄る事を拒んでいるのだ。
本当は、近づきたくてたまらない癖に、触れたくてしかたない癖に、きっと大丈夫だと思っている癖に。
それでも、もしかしたら駄目かもしれない と言う可能性に、身動き出来ないでいるのだ。
無茶苦茶な事をやらかす癖に、怖がりで、痛がりで、臆病な、それは本当に私とそっくりな心の有様だった。
でも、だからこそ。
私は手を差し伸べた。

「大丈夫。彼女はもう、あなたとは違う。勿論、私とも」

碇シンジの真ん中は、私の過去を共有して、また少し違う形を得たのだ。
私とも、彼とも違う、新しい形。
彼ももう解っている。
彼女はもう、彼の欠けた隙間に嵌らなくなったのだと。
そこを埋める事が出来る物はもうなくなってしまったのだと。
求める意味を失った寂しさと安堵感。
私の手を取ろうとせず、離れた場所にいたままでも、ここでは全部伝わってくる。

「心配、かけたね」

同じように彼を感じているもう一人の私が、自分自身の分身に静かな視線を投げかけた。
以前と同じ色の異なる双眸、けれど以前そこにあった底無しの暗闇は、幾分薄れている。

「本当にごめん。でも、僕は大丈夫、大丈夫になったから。君もこっちにおいでよ」

そう言って彼女も手を差し出し、彼に伸ばした私の手と重ねる。
同じ形の掌同士が触れ合い、お互いにヒトの熱を伝える。
彼を誘う視線に、私もまっすぐな視線を重ねる。

そして、漸く彼の視線も、そこに重なった。
彼の体がゆっくりと近付き、彼の手が恐る恐る伸ばされる。
臆病にふるえるその手と、私と”私”の手が、近づいていく。

指先が触れ合うまで、ほんの数センチ。
その場所で、躊躇い、留まる彼の指。
最後の最後まで、私と、私達と同じ、怖がりで痛がりの心。

でも、だからこそ、愛しい。
だからこそ、嬉しい。
だから、こそ。

すっと、私の、そして彼女の指が、ほんの少しだけ、伸びる。
残っていた最後の空白が埋まる。

「あ……」

三つの指先が一点で合わさり。
三つの肌が一度に触れ合い。
三つの熱がひとつに溶け合って。

三人の"碇シンジ"がひとつに交わった。
そうして、"碇シンジ"の心は、遂にお互いを知った。
混ざる事の無い、独立した三つの心として、お互いを見つけ出した。

第拾六話:君は、独りじゃない

The Starry Rift


彼は泣いてた。
まるで幼子か何かのように、私達に縋り付いて、顔をぐちゃぐちゃにして泣いてた。
願いのかなった喜び、安堵、または恐怖からの開放、そんな感情が鉾びた心の隙間から溢れ出し、押し広げたその結果だった。

彼の初めの願い。
自分を埋めてくれる存在を取り込むこと。
そんなものを押しのけてひたすら願った物。
ただ、彼女に生きて欲しい、それだけの願い。
初めの願いがもはや叶う事がなくなるのだとしても、今の彼にとってそんな事は重要では無いのだ。
そう、既に彼女が彼自身と同質でなくなってしまったとしても。

「ごめん、手間取らせちゃった。やっと落ち着いた」
「いいよ、もっと泣いてたって。ふふ、男の子の泣き顔なんてはじめて見たかも」
「茶化さないでよ、恥ずかしいんだから。それに、あんまりゆっくりしてもいられないよ」
「……うん、ここ、出なくちゃ、ね」

彼と彼女の言葉に、我に返る。
そうだ、もう一人の私の存在が失われずに済んだからと言って、今の状況、リリスの内側に取り込まれたままであると言う事実は変わっていないのだった。
そして、もうひとつの問題も。

「そうだ、綾波さんは、どこ?この人を助ける為にここに取り込んだんでしょ?それなら」
「多分、綾波にも無理だ、ここから抜け出すのは」
「そんな、なんで」

小さく首を横に振る彼に詰め寄る。

「綾波も必死だったんだと思う。あとの事なんて考える余裕はなかったか、それともそれでいいと思ったのかはわからないけど……、彼女はリリスの心の欠片だから」
「それはどういう意味?」
「欠けたリリスの魂を埋めて、綾波の魂はこの世界その物と混じり合ったんだ。彼女自身の意識は、もう」
「存在しないって言いたいの?そんなの、そんな事って」

そんな事があって良いわけが無かった。
綾波さんが、彼女の存在が消えるなんて。
この人を助ける為に、綾波さんがいなくなるなんて。

私の憤りが伝わったのか、抱かれたままだった彼女が起き上がろうと身じろぎした。
彼女もまた、そんな事無いはずだと、強く思っているのが伝わってくる。

「僕は、こうしてもどってこれた。君とも触れ合える様になった。それはきっと、僕と君が別々になったから、なってしまったから。それならきっと、綾波さんも」
「そうだ、そうだよ。彼女が元々何だったかなんて関係ない。綾波さんは、綾波さんとして生きてたんだ。ここで止まったままだった存在とは、違う」

唐突に訪れたそんな理解。
綾波さんは、既に綾波さんであって、リリスとは違う。違うはず。
例え元がリリスの欠片であったとしても、成長し、変化したピースは元の場所にはもう嵌らないはずだった。

「綾波さん、聞こえるでしょ!」

必ず届いている、そう信じて、彼女に呼びかける。

「一緒に出よう!ここから、みんなのいる世界へ!」

必死に声を張り上げ、心の底から叫んだ。
この真っ白な世界そのものに、綾波さんが同化している筈の世界に、呼びかけた。
私だけでなく、腕の中にいる"私"も、
世界の内側を包み、否定的な事を言った彼さえも、その外側に呼びかけていた。

答えは無かった。
呼びかけた声が消えた後の静寂だけがあった。

「なんで、どうして?」

その静かさに耐えきれなくなって言葉が零れた。
その音も、直ぐに溶けて消える。
代わりに押し寄せるのは悲しみの小波。
瞳が涙を湛えて、喉は今にも悲鳴をあげそうだった。

それを必死に飲み込んで、もう一度綾波さんの名を叫ぼうとした、その時。
小さな、波を感じた。
私達が作った物じゃない、他の何かの波。
ざわめきのような雑多でデタラメな波。
それが徐々にぶつかり、かたまり、寄せ合って、やがて世界に響くうねりとなっていく。
そしてまた、無意味だった波が、音階を持ったものと変わり、明確な音となり、声となっていった。

「私、呼ばれた?」

それらの音の中に自分の名と同じ形の物を聞き取った気がした。
同じ名前の他の二人が困惑気味の表情でこちらを見返す。

「あ、ほら、また聞こえた。これ、父さんの声?」
「……あ、僕も呼ばれた……?この声は、ミサトさん、かな?」
「僕にはわからない。けど、世界が震えてる。こんな……、信じられないけど、外側からの働き掛けに揺さぶられてるんだ」

水面に落ちた小石が波紋を作るように、外から呼び声が何も無い空間に穴を開けて、そこからゆらゆらと感情の波が生まれ伝わる。
いま、また聞こえた。
間違いない、この声は父さん。
あのしかめ面じゃ出そうも無い、熱く、震えた叫び。
頑なに真っ直ぐと進もうとする波は葛城さん。
私達を信じて、そして自分にも何かできると言い聞かせる声だ。
冷静に状況を分析しつつ、具体的手段を探し続けているのは赤木さんだろう。
とても怖い癖に真っ直ぐこっちを見据え続けてる視線、そこにある焦燥と無力感、同い年の男の子の声。
ずっと遠くからの、無事を祈るような声まで聞こえる。
それだけじゃない。
私の名を呼ばない、私の名も知らない人の、それでも救い出そうと戦う声ですら、私達に届いていた。

「なんだ、これ、こんな事、リリスが人の心に揺さぶられてるって?」

気付けば周囲を包んでいた均質の空間は、窪み、捻れ、膨らみ、デコボコな形をもったデタラメな世界へと変貌していた。
外の皆の声が、視線が、想いが、平穏と停滞で形作られた世界を見事に掻き乱しているのだ。
それが何を意味しているのか。
そう考える間もなく、彼が叫んだ。

「気を付けて!大きいのがくる!」
「大きいって一体……」

聞き終わる前に、それは来た。
乱れた世界を更に掻き混ぜる強烈な衝撃。
その苛烈さは、最早デコボコと言うよりグチャグチャと言った方が正しい有様に風景をごた混ぜにした。
上と下が意味を失い、大も小も一緒くたになって、何もかもハチャメチャで。
膨らみが弾けるたびに絵の具が飛び散るように様々な色がぶちまけられ、それが捻れて別の色を輝かせる。
次々と訪れる暴力的な変化。
既に白地だったはずのキャンパスの何処にも元の面影は残っていない。
そこはもう、嵐の様な感情の渦巻く混沌の世界だった。

「これ、アスカ?アスカが呼んでるの?」
「アスカって、もしかして、この衝撃が?」
「うん。きっと、まだ戦ってる。私達の為に、まだ頑張ってるんだ」

もう一人の私の言葉で、漸く判った。
その悲痛な叫び。
折れそうな心を押さえつける痛み。
絶望を振り払う様に振り絞る怒り。
余りに波が大き過ぎて衝撃としか見えなかったそれらが、私にも感じられたのだ。
そうしてまた聞いた。
揉みくちゃにされていまにも消えそうな、掠れた、縋る様にか細い声を。
私達を探す、アスカの声を。

「こっち!私達は、ここにいるよ!」

不意に喉をついて出た言葉だった。
何か考えたわけじゃない、唐突にそうすべきだと心が直感したのかもしれなかった。
本当なら届くはずが無いのに、綾波さんにすら届かなかったのに、それでも、精一杯叫んでいたのだ。

けれどその瞬間、ピンと糸を張る様に何かに繋がった、そう感じた。
外側の空間から、こちらを捕える視線の確かな引力と言うべき物。
その感じる先の、無限遠の向こう側から、壁に向けてぶつけられる力が、こちらを向いて突き進んでいく。

「何かくる!すごい力だ、気を付けて!」
「うん、わかってる、アスカだ!」
「なんだって!?アスカなのか、これ?でも、この波動は……」

その言葉で、彼にはアスカの声が聞こえていないのだとわかった。
ただ、ここを破壊する力だけを直接感じ取っている様だった。
ふと彼の方を振り向いたが、彼にはそんな事を気にする余裕は無いようで、緊張と焦燥の浮かんだ表情の中で力の迫り来る一点を凝視していた。

彼の不安に引き摺られて、その視線の先を追う様にまた振り向いた。
まだ起き上がれない腕の中の私もそちらを見上げ、三人の視線がその場所に焦点を結んだ。

その場所で、何かが裏返った。
突然そこだけが色を食らい、ぽっかりと小さな穴を開けたのだ。
黒い粒の様だったそれは、しかし突然膨らみ、もう一度裏返った。
真っ黒なまま穴が出っ張りに変わり、更に突き出して針の様に尖っていく。

「槍だ、しかも、この力、オリジナルなのか?」
「綾波さんが宇宙まで投げちゃったやつのこと?」
「うん。でも、共鳴もなしになんで戻って……」

彼が言い終える前に、さらに槍が伸びた。
無限遠の彼方から、ほんのすぐ目の前、手を伸ばせば届きそうに思えるところまで尖った切っ先が一気に迫った。
その様に、流石に顔を強張らせて、私を抱く腕に力がこもる。
恐怖と驚きでヒュっと息を小さく吸い込む。
けど、次の瞬間にも、一秒、二秒、三秒、それからたっぷり息を吸って吐く間、槍の切っ先は一ミリたりとも動く事なくその場で停止していた。
その尖った先端で、私達がここにいる事を確かめている様に見えた。
槍だけじゃない、私達も動かなかった、いや、動けなかった。
そのせいで、周囲の荒れ模様とは裏腹に、この場所だけ何もかもが止まってしまっていた。

当然、そんな時間は長く続かない。
慎重に、もう二度ほど呼吸を繰り返した時だった。

槍が、はらりと解けた。
一つに纏まっていた穂先が二つに割れ、胴体の中心付近までがたわんで捻れた切れ目を生じさせた。
絡み合った柔らかな紐が解ける様にして滑らかに分離した槍は、初めに見た時の、もしくはあの白い量産型エヴァが獲物にしていた時の、二又の奇怪な姿を露わにしていた。
しかしそこで終わらなかった。

「まだ解けていく!」
「二重螺旋構造が消失してるんだ。こんなの、僕だって知らない!」

二重鎖が更にたわみ、四つの紐の端になってはらはらと揺れながら、槍は既に槍と呼べない何かに変わっていた。
解けきった所で今度は逆に捻じ曲がり、積み重なり、別の何かを形作っていく。
現れた巨大で有機的な構造物。
それは正しく人の指で、人の手で、人の腕だった。

「弐号機の腕、なのか?」
「ううん 、アスカだよ、きっと」

言葉と共にイメージが重なる。
外側から突っ込んだ腕で、なんとか私達を掴み出そうとしてるアスカの姿。
大きく見えても、その手は年相応の華奢な女の子のものだ。
きめやかで繊細な色白の肌色で形作られた、しなやかで細い右手の指。
それが、私達に差し伸べられていた。

ゴクリと唾を呑み込んだ。
私達が見つけられなかったものが外からやって来てくれた。
この手を掴めば、帰れる、そんな実感。
けれど。
まだ、だめだ。

「綾波さん!判るでしょ!アスカが来てくれたの、ここから出られるの!だからおねがい、あなたも!」

聞こえている筈なのだ。
ただの器でしかないリリスが、ただの外からの声くらいでこんなに揺らぐはず無いのだから。
揺らいだのはリリスじゃなく、心の欠片だ。
ヒトとしての形と少女の感情を持った、ひとかけら。
この広大な世界に対してとてもちっぽけに思えるそれは、しかし均質な中では恐ろしく大きな揺らぎの素になっているのだ。
綾波さんに届いた声が彼女の記憶と感情を刺激してこんなハチャメチャな光景を作り出した、私はそう思う。

せっかくアスカが手を伸ばしてくれたのだ。
ここから出る道を作ってくれたのだ。
なら、せめて私が綾波さんに手を伸ばさなきゃならない。
私が彼女に道を示してあげなきゃならない。
必ず、一緒に帰るんだ。
綾波さんも、もう一人の私も、彼も。

「仕方ない、もう少しだけやってみるか」

私の想いが伝わったのか、彼がそう呟いた。
隣に視線を流すと、彼が静かに深呼吸しているのが見えた。
目を瞑ったままのその顔が驚くほど自分に似ていると今更ながら実感する。

「もう一度、全部飲み込む。その間に、君が綾波を見つけて」
「取り込む間に?どうやって?」
「風景を良く見て、彼女を感じるんだ。ほら、もう始めるから」

そう言うと間もなく、周囲がたわんだ。
ぐにゃりと捻れ、弾けたもの。
彼が初めに取り込んでいたここの"全て"が吐き出されて開放されたものらしかった。
本来ここを満たしていた、混ざりきり淀んだ記憶と感情。
灰汁の様な薄い何かが再び元の器に戻っていく。
けれどもその器自体が形を変え極彩色の光を垂れ流す中で、その過去の残滓もまた同じ色に染まり、触媒に触れて激しく反応する様にその時々の輝きを蘇らせていった。

篝火に花火の素をぶち込んだ様な狂乱。
目眩を覚える。

それを、彼は再び飲み込んだ。
今まさに暴れ狂い、蘇った生の感情のごった煮を、その器ごと食らっていったのだ。
それは正しく壮絶と呼ぶべき光景だった。
飲み込まれた感情が悶える様に一瞬弾けて閃光を放つ、幾万、幾億の光芒。
あまりの激しさに世界が以前とは違う白色で染め上げられた。
飲み込まれた器はベコベコと音を立てて平され、初めの形に無理やり整えられていく。
けれど一度曲がった物が完全に戻る事はなく、いたるところで派手な衝撃とともに亀裂を走らせて、そこを埋める様に新たな壁が生まれて歪にせり上がって来る。
ビッグバン、創造の始まり、グランドゼロ・インパクト。
そんな言葉が浮かび、すぐ圧倒的な光景に吹き飛ばされていった。

そんな物を飲み干そうとしている彼の顔が、体が、苦悶に歪む。
当然だ、今まさに爆発している火薬庫を強引に埋め立てている様な物なのだから。
飲み込まれてなお彼の中で暴れる過去の残滓がこちらまで伝わってくる。
それでも全てを押さえ込もうと、彼は体を丸め、口を押さえつつも、更に取り込む空間を広げていく。

もう、無理しないでと言いそうになって、やめた。
彼は言った、私が綾波を見つけるのだと。
彼の苦痛をただの徒労に終わらせる訳にはいかない。
見つけるんだ、掻き混ぜられて、一気に均されつつあるこの中から。
過去の記憶や入れ物ではない、今ここに行きている筈の綾波さんの心を、魂を。
全てを飲み込んでいくその淵に、飲み込まれない存在を。

記憶の宇宙の中を私の心と感覚が発散して知覚していく。
ここを丸ごと飲み込む彼には及ぶべくも無いが、自分自身を巨大な何かに変えて全身でくまなく感覚していく。
もう一人の私もまた、弱りきり不安定な筈の心を必死に広げて綾波さんを探しているのがわかる。
そうして、お互いを覗き合い、とても近しく、けれど同じでない二つの心が共鳴し、鋭敏な探知機のように世界を捉え始めていた。

彼女の感覚。
私の感覚。
重なる所、ずれた所、全く違う所。
僅かなゆらぎの中でそれを感じ取ったのは、殆ど同時だったろう。

砕け、ヒビ割れた世界の壁のヒトカケラ。
彼女の視線が確かにそれを捉え、私の腕がその先に一気に伸びた。
アスカが現れた所とは丁度反対側、私達を挟んで伸ばした線の先。
崩れ壊れて欠け落ちた中で、それだけが壊れなかった欠片を私の左手がしっかりと握り締めていた。

「綾波さん、起きて!」
「やっと見つけたよ。ほら、一緒に帰ろう?」

私達の声に触れて身じろぎしたように欠片が震えた。
固く尖っていた断面が丸みを帯びて、つかんだ場所から緩やかに熱が伝わってくる。
そしてその下で、ドクン、ドクンと、脈を打つのもの。
何時の間にか細長く伸びていたそれ。
一気に引き寄せた。

欠片の向こう側が、ずるりとめくれ。
一塊の白いヒトガタが吐き出された。

殆ど色素と言う物が抜けた透けそうな白い肌、同じく色を失い、僅かに残る薄青を反射する髪、同い年の少女特有の華奢でしなやかな手足。
私の左手はその右手の手首をがっちりと掴んでいた。

もう、絶対に離すつもりは無かった。
例え彼女が嫌だと言っても、この手を離したりなどしない。
みんな一緒にここから出る、ここから帰る。
今の私の正直な気持ちと決意。

「嫌って言っても、連れて帰るからね」
「言わないわ、そんな事。助けてくれて、ありがとう。……それと」
「うん。ゴメンね、随分長いこと寂しい思いをさせちゃって。やっと、また、会えた」

静かに開いた紅の瞳が私を見て、彼女の視線と交差した。
見る見るうちに涙が溜まる。
泣き顔とも笑顔とも取れるぐしゃぐしゃになった表情。
私に右手を握られたまま、その私ごと綾波さんが彼女に抱きついた。
喜びに弾ける裸の心が触れ合い、安堵感とともに包まれる。

「会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかった」
「うん、僕も、ずっと会いたかった。ゴメン、僕のせいで綾波さんまで危険な事させちゃった」

綾波さんは首を横に振ると、後はもう声にならない嗚咽を上げてただ泣き続けた。

そうだ、そうなのだ。
綾波さんは本当に随分と長いことこの人に会うことが適わなかったのだ。
私がこちら側へ引き戻されたあの時から、こうして会うことはついぞ無かったのだ。
図らずも私は"私"と綾波さんとの繋がりを、"私"の記憶を通して知ってしまった。
ただの友情と言うには歪で、しかし余りにも強固な絆。
本人達は自覚していなかったろうが、互いに互いと依存し切ることでようやく二人はヒトとしてこの世で生きられたのだ。
そんな二人の余りにも長い断絶。
それを埋め合わせるには、やはり長く濃厚な時間が必要だった。

でも。

「感動の再開は後にしよう。まずここから出るんだ、みんなで」

止まりそうにない二人を、私が止めた。
まったく、損な役回りだ。
前の断絶だって私が原因みたいな扱いなのに。

「うん、ゴメン、確かに今はそれが一番大事。アスカだってそう長く道を開けていられない」
「……ええ、そうね。……それに、中心にいた私が、抜け出してしまったもの。ここも長くは、持たないわ」

私の言葉に我に返った二人は、意外に冷静に状況を判断していた。
振り返れば、そこに伸ばされたアスカの手はまだ差し出されたままだ。
けれど時折何かに押し流されそうに揺らぎ、遠のいて、また元の場所になんとかたどり着く、そんな事を繰り返しながらの事だった。
更に今もまた、大きな波に押し流されそうに腕が押し上げられていく。

あっと思う間も無かった。
もう、ほうっておく事などできない、そんな直感。
押し流される直前に私の右手がその手を掴んでいた。
右手と右手が、初めは握手をする様に、ついでお互いの手首をがっちりと掴む。
痛いほど握り締めた掌と、握り締められた手首から受け取った実感。
もう離れない、離さない。
そんな意思。
同じ思いを、新たに掴んだ手にもこめて。

左手には綾波さん。
右手にはアスカを。
胸の中にはもう一人の私が綾波さんに挟まれ抱きつかれた格好で。
私は、最後の1人に声をかけた。

「さあ、行こう」

すぐそばでくるしそうな顔をして佇んだままの彼に、もう一人の私自身に。
それに応えて、苦味を飲み込むようにしながら一歩、彼がこちらへ近づく。
すいと男の子にしては繊細と思える右手が私の肩に伸ばされる。
細くしかし力強い指先が私の肌に触れた。

「後は、よろしく。さあ、出よう」
「わかった。やってみる」

苦しそうな中で、彼が微笑んだ。
男の子なのにもう一人の私とそっくりな。
つまりはきっと、私ともそっくりな微笑み。

それを受けて、私はアスカと繋がっている右側の手を軽く引き寄せた。

「ありがと、アスカ、もういいよ。私達をここから出して!」

合図代わりとばかりに、叫びながら強く力を込め、更にもう一度引っ張った。
すると。

「うっわ」

逆に向こうから、猛烈な勢いで引っ張られた。
腕からと言うよりも体ごと引き寄せられる様な力を受けて、全員が外へと向けて引っ張り出されていく。
猛烈な加速度で周りの空間を置き去りにして、距離感の掴めなかった無限遠のにあったはずの壁が近づいて来る。
そうして、次第にその"点"が見えてきた。
腕の伸びて来ているその場所、外へと繋がる暗い穴。
全てが淡い光の放射に包まれている世界の境界に開いた出口。
そこだけ異様なほど落ちこんでいる様に見える黒点に、吸い込まれていく。

小さな点でしか無かったそれがやがて五円玉の穴ほどになり、野球の玉からすぐにサッカーボールを超える大きさになり、更に近づくと、それはもう私達を飲み込むに十分な底の見えない大穴となった。
ふと、高速リニア線でトンネルに突入する時のことを思い出す。
展望車になっている先頭車両の正面、全速で山に突っ込んでいくように見えて、手すりにしがみ付いた記憶。
けど、あの時と違い、私達を引く力は、私達をトンネルに引きずりこむ直前に加速を緩めた。
ようやく捕まえた手の中のものを壊さない様に、ぶつけない様にそっと箱の中から取り出す。
慎重に、恐る恐る引き抜く、そういった雰囲気だ。
目前まで迫っていながら今までとは打って変わりジリジリと近づいてくる深淵。
底無しの井戸を覗きこみ、今まさにそこへ飛び降りようとしているよう。
思わず体が強張った。

「大丈夫、これならきっと帰れるよ」

私が緊張しているのに気付いたのだろう。
肩越しに掛けられた少年の声。
それに応えて軽く頷く。
そのまま息を吐き出して大きく深呼吸。
こちらと向こうの境界線へと消えているアスカの腕の先を睨む。
じわじわと、しかし確実に近づく漆黒の彼方へ。
もう目の前にある筈だけど、今だに距離感が判然としない出口は。
直径で凡そ5メートル程はある様に思えた。
もうすぐ私達はあの底無しの淵を潜り抜ける。
その心構えに深く息を吐き出した。

その時、突然周囲が真っ暗になった。

「え?」

恐怖に駆られるより先に呆気に取られた。
構える前の一瞬の空隙。
その最中に、気付けばもう穴の向こうに突っ込んでいた。

何の事はない、私の目測が大きく外れていたと言う事。
遠近感の判らなかったその穴は、実際には私達がぎりぎりに通れる程度の大きさしか無かったのだ。
なのに余りにもあっさりとそこを越えてしまった。
衝撃や抵抗がある訳でもない。
呆気なく、ただ越えてしまった。
その結果生まれた、余りに致命的な意識の空白。

「だめ、まって!」
「なに?」
「彼が、彼が!」

胸に抱かれたままだった彼女が叫び、もがいた。
そしてようやく感じた、何かがすっぽ抜けたような感覚。
確かにあった筈の存在感が、人肌の熱が、失われている!

潜り抜けたばかりの出口に振り返る。
既に小さくなりつつある、光の小窓。
そこに映る少年の影。

「ごめん、僕の方から約束破らせちゃったね。ずっと一緒に居てくれるって」

殆ど輪郭だけの少年の視線が私を見て、次に彼女と視線を絡ませそう言った。

「いいから、いいから早く!今ならまだ間に合うから!」
「無理だよ。僕は所詮形而上の存在でしか無い。現実には存在出来ないんだ」
「そんな、そんなの、やっても無いのにわからないよ!」
「もしかしたら、そうかもしれないね。でも、やっぱり駄目だ」

彼女の叫びを、彼は受け流した。
もうとっくに覚悟はできていたと言うように。
彼女がそう言うのもわかっていたと言うように。

「僕はここに残る。綾波もいなくなったから、誰かが支えてやらないとね」
「わたしの代わりに?どうして?」

綾波さんの小さな、悲しい呟きが耳に届いた。
ではあの時、綾波さんを助け出した時点で彼にはもう分かっていたのだ。
こうなると、こうすると、覚悟していたのだ。
綾波さんの代わりにここを支え続け、こそしてここに残り続けるのだと。

「彼女には君が必要だ。僕よりもね。僕は、僕が幸せならそれでいい、そう思えたんだ」

そう言う彼に、彼女は私と綾波さんの間で必死に手を伸ばす。
けど、まだ心の世界である筈なのに、その手は届かず 、彼の姿はどんどん小さくなっていく。
やがて小さな針の穴程の光しか見えなくなった時。
遂に腕の中のわたしが叫んだ。
弱々しいその姿からは想像出来ない大きさで。

「約束!必ず、守るから!絶対、絶対もう一度、君と!」

切実な響きが届いたかどうか、もうわからなかった。
それを最後に、ただ一つの星の光が失われた。
彼をあそこに残したまま。

誰ももう、喋らなかった。
何もわからない闇の中を私達はひたすら進み続け。
突然に、視界が全て白で埋まった。

私達は、外へと戻っていた。