Migraine -trunk-


04:チェロ


「あれ、これって」

彼女が物置の隅に置かれたそれに気がついたのは偶然だった。
自分以外誰もまだ帰らない静かなマンションの一室で、しかし何かすることがあるわけでもなく。
敢えていうなら手持ち無沙汰だったから、まだ全てを知っている訳ではないこの場所を少し探索しておこうと言う気になったのかも知れない。
あらたな住処となった葛城ミサトの暮らす部屋、その一角に有る収納スペースは人一人が何とか仮の宿とできる程度に広いようだったが、外に見える範囲であっても散らかりがちなこの住居にあって物を押し込める場所が片付いているはずも無い。
だからシンジがそこに入って奥に立てかけてあったそれに気がついたのは、僅かな違和感と記憶の手伝いがあったとしても偶然と言うべきものだった。

緩やかな曲線で構成されたケースは中に収納する物をひと回り大きくしたような形状であって、シンジにとってはそれなりに慣れ親しんだ物だった。

「こんなに埃が積もってるなんて……最後のレッスン、ついこないだだったはずなのに」

もう随分と使われていないと思われるそれが、つい先日使ったばかりのはずの彼女の物と同じであるなどというのは少々薄気味悪く思われた。
だが、置き去りにされた時間の経過の下にあった硬質な表面も、少し掛りの甘くなった留め具も、彼女の知る物と同じであって、その事がこれが彼女のものだという考えが単なる勘違いなどではないのだと教えていた。

彼女の感覚としては前に使ってからそう時間の経っていないものが何ヶ月も放置されて時を重ねている、それはシンジだけが世界から取り残されていたことを静かに語っていたが、実感としての彼女の時間は未だ一年ほどずれたままだった。
怖々と触れていた指先に意を決して力を込める。
軽い抵抗をすぎると、留め具は自ら弾けるように音を立ててケースの拘束を解く。
その中には、彼女の予想通りの楽器が鎮座していた。
分数チェロと呼ばれる、3/4サイズの大人が使うものより一回り小さく作られたチェロだった。

5歳の時、先生の勧めで習い始めたそれは、彼女の数少ない特技の一つと言っていい。
ミニチュアのような小さなチェロを初めてもらったときは、しばらく嬉しくて放そうとしなかった。
尤も、他に与えられた物もあまり無かった。
高価なこの楽器だけが、成長とともに新しいサイズの物に買い替えられていった。
同じ年頃の子などいない教室で、惰性のまま習い続けていた彼女と同じく、日常を変えないために与え続けられたものだった。

外側の状態に対して、チェロそれ自体は正しく保護されていたのだろうか、それほどの劣化もなく、すこし調整すれば問題無いようだった。
一度ケースを閉め直すと、シンジはケースごとチェロを物置の奥から引っ張り出す。
たまにがたがたと周りの物にぶつけながらも、彼女はそれをリビングまで持ってくることに成功した。

もう一度ケースを開き、今度は中身を取り出す。
壁際に空になったケースを立て掛け、適当に椅子を拝借する。
順に弦を張り直し、調子を確かめ、音叉を鳴らして、調律。
何度か繰り返しているうち、ようやく音が合った。

軽く深呼吸をして、一度体勢を整え、一拍。
彼女の腕が、静かに弓を差し入れた。
調律の時とは違う、旋律を伴った音が流れ出した。
静かな落ち着いた調べだ。
無伴奏チェロ組曲第1番の前奏曲。
個性こそ感じさせないが、大きく外れることもなく忠実に原曲を再現していく様は、彼女がそれなりの腕前を持っているのだと教えていた。
だが、時折おぼつかなくなるのは何か思うことでもあるのだろうか。
一心不乱と言うよりは、慣れ親しんだ曲をただ体の動くままに紡いでいるようで、事実その表情は曲の調子とは無関係に彼女の表情は移り変わっていた。
伏せられた瞳、その瞼が閉じられるたび何を思っているのか。
頭を左右に降るようにする前に、何を考えたのか。
決して明るいものでは無いだろう感情を秘めたまま、曲は静かな空間を満たし続ける。

彼女は知らない。
その音を玄関の扉の向こうで聴く者がいる事を。
その扉を開けることができずにいる少女がいる事を。

彼女は知らない。
遠い場所で、盗聴システムを通じて同じ曲に耳を傾ける者がいる事を。
その女性の心もまた、過去と今との折合いがつけきれずにいる事を。

世界が、まだ優しい冷たさに満たされているのだと。
彼女はまだ知らず、チェロの音色は奏者の知らぬ聴衆に届けられる。


途切れる事のなかった旋律は、弦のはじける音と共に、止んだ。