或いは何処にでも有り得た物語


「碇、ワイを殴れ!」

そんな事を叫んだのはジャージを着た大柄の少年。
鈴原トウジと言っただろうか。
関西弁で、いかにも熱血漢と言った彼がわざわざ訪ねてきて、開口一番がこれだった。

「い、いやだよ、そんなこと」
「そういわんと、一発かましてくれ。そうでないとワイは自分が許せんのや」

詫びを入れる、とでも言うのか、こういうやり方しかできない奴なのだろう。
確かに彼には殴られたし、戦闘中にもひどい目にあった。
それでも彼を殴ろうなんて気にはならない。
自分にも責任はあるのだろうから。

「いくら気が立っとったから言うても女子に手え上げるとは、一生の恥や!」

……でもなんでだろうか。
なぜか今は彼を一発くらいひっぱたいてもいい気分になっていた。
それは未だに僕が男だった事に対する未練みたいなものを引きずってるってことなのかもしれない。

そもそも彼が学校で僕を殴り飛ばした時、僕はまだ男子の制服を着ていたのだ。
僕が女だって事はあっさりと周知の事実になっていたのだけれど、現実的な問題としてすぐに女子制服が用意できなかったし、制服とはいえスカートをはくというのにも抵抗があった。
だけど彼は僕が転校してきてから、はじめて登校したようで、僕の事は何も知らないままで。
そして運悪くその日僕はエヴァのパイロットだと皆に知られてしまったのだった。

はじめてエヴァに乗ったときの戦いに巻き込まれて、彼の妹は大怪我をしたという。
その怒りを、戦闘を行ったネルフに、エヴァに、そのパイロットに向けるのは、まともな感情だと思えた。
だけど僕だって乗りたくて乗った訳じゃなかった。
こんな体になったのもあの戦いが原因だった。
だから僕は彼に謝る気にはならなくて、代わりに殴られる事にした。
それで気が済むというなら、それでいいじゃないか。
痛いのは僕だけだ。
その事に罪悪感を感じるというなら始めから殴らなければいいのに、そういう判断の前に行動してしまうタイプらしい。
自分のやった事が恥ずかしくて、だから素直に謝れずに、自分も同じだけの罰を受けてしまおうという、馬鹿なプライドと意固地さが見て取れて、彼の事を少しかわいいと感じてしまった。

「じゃ、一発だけね」

これで許してやる、なんて意味ではない。
実のところ、自分にとってはもうとっくにすぎた話で、許すも許さないもないのだけど。
彼なりのけじめという奴に付き合って、それで全部終わりにしてあげよう。

握りこぶしを作って、大きく振りかぶって。

でも、ちょっとした悪戯心。

振り抜く前に一度止まった拳は、けれどもっと後ろまで伸ばされて。
まっすぐでなく、弧を描くように彼の頬に向かった手のひらは、いつの間にか広げられていて。

パァンと、乾いた音が響くと、後にはきれいな紅葉の用な手形が残っていた。

「な、殴るんちゃうんかい!」
「女の子なら、平手打ちでしょ?」

予定と違う衝撃に涙目になりながら抗議する彼に、しれっと一言。
少し手のひらがひりつくけれど、存外にすかっとした気分だった。

――こういうのも、悪くないかな。

紅葉を貼付けたままそれ以上何も言えず表情だけコロコロ変えている彼と、それをちゃかしている相田くん。
隠れるよう、目立たぬよう生きてきた僕にとって、それはとてもまぶしい光景。

――そんな彼らがいるここなら。

そして。
視線を、後ろで苦笑している一人の女性に向ける。
僕のことを、家族と言ってくれたミサトさん。

――この人が、一緒なら。

僕は、もう少しここ、第3新東京市で、生きていけるかもしれない。