或いは何処にでも有り得た物語


暑い、ただただ暑い。
一年中ぎらつく太陽が照りつけているとはいえ、今日は格別の暑さだった。
空には白い雲のかけらも、薄い霞もすらもない、何処までも続く一面の青。
爛々と輝く太陽に焼かれたアスファルトは靴の裏が溶け出しそうな程に熱く。
微風すら吹かず街路樹の葉っぱもうなだれて、ただむんとした熱気が登ってくるのを感じるのみ。
今日は授業が午前中で終わってその帰りではあるのだけれど。
時刻は午後一時、つまり最も暑くなる時間帯で、いっそ空調の効いた教室で授業を受けている方がましでは無いかと思える。
それ程の熱気だった。

額から流れ落ちる汗を手の甲で拭う。
健康ではあるらしいけど決して頑丈ではない身な今の自分には、少々酷な気温。
行く先を見れば空気が揺らぎ、陽炎となって光を歪めている。

そんな見ているだけで意識が朦朧とする眩しすぎる世界の中に、白い人影があった。
綾波レイだ。
体の要素から黒色という物を取り去ったと言うべき彼女は、苛烈な陽光に白く染まって、淡く輝いているように見えた。
肌の下が透けて見えそうな程の白人よりも白い肌。
黒髪の残り香か、蒼色にも見える薄色の髪の毛。
彼女自身の寡黙さも相まって静かな冷たさを感じさせる容姿の綾波が、こんな晴天の下にいると言うのが何か不思議に思えて、見つめてしまう。

僕自身とさして変わらない速さの足取り。
一歩進む度、短めの髪の毛が軽く揺れている。
足音は聞こえてこない。
彼女自身と同じくらいに静かな歩み。
彼女を見ていると、時間から取り残された様な感覚に陥る。
五月蝿くがなる蝉の声すら静まった様に耳に入らなくなり、場違いな存在に引き込まれてしまう。
そうしている内に、ふと気がつくと彼女は消えてしまうのだ。
何時もならば。

だけど、今日は。
規則的な歩みが乱れて、綾波の体が大きく揺れた。
そしてそのまま、倒れていく。
彼女だけを捉えた視界の中、ゆっくりと、スローモーションでも見ているかの様に、崩れ落ちていく。
どさりと、地面にぶつかる音が聞こえて。
僕は静止した世界から一気に現実に引き戻された。

「綾波!」

照りつける日射しの下で、彼女に駆け寄る。
思ったよりも遠くにいた彼女に近寄ると、随分辛そうな呼吸が聞こえてくる。
倒れたままの彼女の横に辿り付きその顔を覗き込むと、そこにあったのは先程までの後姿とは裏腹の苦しそうに歪んだ表情。
いつもの白い肌が内側から熱を持ち、赤く染まっている。

「うわ、酷い熱!」

額に軽く手をあてがうと、見た目以上に酷く熱くなっていた。
綾波の口から小さく呻き声が漏れたけど、それで彼女が意識を取り戻す事は無くて、苦しげな表情もそのままだった。
日射病、あるいは熱射病だろうか、ともかくこの炎天下に放っておく訳にはいかない。

「とりあえず日影に、いかないと」

このあたりは計画開発区域で、整然と整備された街道の脇には無機質なコンクリードの壁が並んでいて、残念ながら軒下と呼べる様な部分は何処にもなかった。
それでも建物に高さが有るのが救いと言えるだろうか、北側にはそれなりに影となる部分が広がっている。

「よいっしょ、っと」

なんとか彼女を担ぎ上げ、背負う。
今の自分と比べると上背は少し高い位の少女の体重に、体中の筋肉が悲鳴を上げた。
元より力仕事は得意ではない。
そこから更に筋力が落ちているのだから、寧ろよく持ち上げられたと言うべきかもしれない。
火事場の馬鹿力とはこういうのをいうのだろうか、などと思いながら、必死に歩を進める。
一歩歩く度、背中に彼女の体が強く押し付けられて、その度に彼女の体温が強く伝わる。
普段は人形の様に見える綾波は、しかし確かにヒトの熱を帯びていると感じさせ、そして耳にかかる熱く荒い呼吸は僕の歩みを急がせた。

「あと、ん、すこし、よし、つい、たっ」

ようやく日影、と言っても照り返しで薄灰色ではあったけれど、その下に辿りついて、思わず息が抜ける。そのままへたり込みそうになるのを我慢して、彼女をそっと温いアスファルトに下ろして寝かす。
枕がわりに鞄を頭の下に置いて、彼女が楽であろう体勢に整えて。
もう一度息をつくと、今度こそ脱力して座り込んだ。

「はぁ、ふぅ、そ、うだ、連絡。誰かに、電話」

ネルフ支給の携帯端末、最も手早く繋がるミサトさんへの短縮ボタンを押す。
そうして呼び出し音を聞きながら、周囲を見渡した。
冷たい飲み物、自動販売機などは近くに無かっただろうか。
そう考えたのだけど、残念ながら見える範囲には無い様だった。
けれど、普段の記憶と照らし合わせて、隣接する商業区画の交差点に有ったのを思い出す。
そこまでなら、すぐだ。
まだ繋がらない端末を耳に当てたまま立ち上がる。

綾波も心配だけど、少しの間なら大丈夫だろう。
そう思いながら、今来た道を戻り始める。
建物の影から、また太陽の光の下へ。

その時ふと、異変を感じた。
さっきまでの焼ける様な暑さを感じない。
光はさっきよりもっと強くなっている様にすら見えるのに。
おかしいと感じた、その瞬間、突然歩く先の地面が無くなった。
いや、そう感じただけで、本当に無くなったのは僕の足の感覚の方だ。
重力と言うものが消え去った様に自分の体勢がわからなくなる。
視界の中の建物がぐるぐると時計回りに回転して、瞬きをした後には影も形もなくなり、ただ空だけが見えていた。
左肩の鈍い痛みで、自分が地面にぶつかったのだと分かったけど、なんの現実感もない。
まるで無茶苦茶に振り回されながら空に浮いているよう。
そうして、感覚が徐々に希薄になっていく。
一面真っ青に見えた空が、白く染まっていく。
頭に響き渡っていた携帯端末の電子音も、他人のものの様に聞こえていた荒い呼吸も、いつの間にか遠くなっている。
意識が、消えて行く。
綾波もさっきこんな風に感じたのだろうか。

ミサトさんの声が、聞こえた気がした。
返事をしようとカラカラに乾いた唇を開いて、音にならない空気を吐き出して。
全てが、真っ白になった。



目が覚めた時、そこにはミサトさんの顔があった。

「あれ、僕は……」
「よかった、気がついたみたいね」

意識はまだ混濁していた。
独特の消毒されたシーツの香りと、妙に青白い蛍光灯の光が、ここが病院のベッドだと教えている。

「もう、結構危なかったのよ。あの電話が無かったら間に合わなかったかも知れないんだから」
「そっか、僕、暑さにやられて……」

記憶は曖昧だけど、綾波が倒れる瞬間だけは妙に鮮明に覚えていた。
あの炎天下で、結局僕も暑さにやられてしまったのだろう。

「ごめんなさい」
「なあに謝ってるの?」
「だって、僕のせいで迷惑掛けちゃったし……」
「仕方ないわ、今年一番の暑さだったらしいしね。それに、レイを介抱してくれたのでしょう?」
「多分、そうだと思いますけど、でも……」
「自分が倒れてちゃ意味ないって?ふふっ、そんな事ないわ。おかげでレイは酷い事にならずに済んだんだから」
「じゃあ、綾波は大丈夫だったんだ」
「あなた程酷くないってだけだけどね。でもあの子はアルビノだから」

日焼けした時の黒い肌と言うのは太陽の出す有害な波長が体内に入り込まないように働く一種の防御構造であって、綾波の冷たげに見える白い肌はその実様々な光を容易に通してしまうのだと言う。
あの時の彼女の熱を思い出す。
肌で感じた体温が、何か超然的に思える彼女もまた自分と同じように生命を持った一人の少女なのだと教えてくれた。
ヒトの吐息、ヒトの匂い、ヒトの温もり。

そんな事をぼんやりと考えていると、入り口の扉が開く音がした。

「あ、レイ。検査は終わり?」
「はい……碇さん、気がついたんですか」
「ええ、ついさっきね」

良かった、元気そうだ。
彼女を見てすぐに思ったのはそんな事だった。
あの時は赤みがかって見えた肌もいつもの白さを取り戻していて。
ふらつく事もなく立ったままこちらを見つめている。
ただ、珍しいのは明らかにそれと判る程に安堵の表情が浮かんでいる事だろうか。
二人してお互いに気遣って相手を見たのだと思うと、何か可笑しくなった。

「あの、碇さん」

真っ直ぐにこちらを見つめたまま、綾波が口を開いた。
少し上擦った彼女の声と言うのは初めて聞いたかも知れない。
戸惑うような彼女が、少しの間の後、再び言葉を繋いだ。

「あの、碇さん、……助けてくれて、ありがとう」

僕はすぐに返事をする事が出来なかった。
何を言おうとしているのか、予想出来なかった訳では無いのだけれど。
それでも彼女からそう言った言葉が聞かれると言うのは驚きだったのだ。

返答をしない僕をそのまま見つめ続ける綾波の瞼が二度三度と瞬いた。
それを見てふっと気分が軽くなる。
また二人して今度は緊張していたらしい。
こみ上げた笑いを押しとどめて、ようやく僕の唇も動くようになった。

「どう、いたしましてっ」

乾いてかすれた、酷い声だった。
それでも、それを聞いた彼女の表情と言ったら、僕はきっとわすれることが出来ないだろう。
一瞬大きく丸く開いた瞳の中の朱色の虹彩。
元に戻るにつれて、その光は前よりはるかに柔らかなものへと変わっていった。
瞳の輝きだけではない、その顔を形作る全ての部分が劇的に変化して、調和して、一つの新たな表情となった。
柔らかくて温かい、安らいだ笑顔。
見ているこちらも温かになる、ホッとした表情。

綾波の優しさに包まれたように感じて、全身の筋肉が解れていく。
弛緩した体は心地良い眠気に襲われて、僕の意識はそれに抵抗出来なくなった。
静かに閉じた瞼の裏には、彼女の笑顔がいつまでも残っていた。