或いは何処にでも有り得た物語


右足の先が湯船の底に触れたのを確認して、薄目を開けながらゆっくりと逆の足も中に入れる。

「っ痛う」

訓練で強かにぶつけたふくろはぎの擦り傷が湯に触れて、じんと滲みる。
連日の訓練の中にはエヴァとのシンクロテストだけではなく、パイロットとしての最低限の体力と技術を身につけるためのものもあった。
可も無く不可も無く、と言ったところの運動能力を有していた筈の僕の体は、しかし女の子となってからはどう頑張っても真ん中より下といった程度に落ち込んでいた。
リツコさんに言わせればそれは単に男女の差と言う訳では無く、僕自身がこの体を使うことに慣れていないからなんだとか。

――当たり前だ。まだほんの一月、14年の月日とは百倍以上も違うんだから。

ようやくこれが、自分の体だと理解出来るようになってきたところでしか無いのだ。
こうやって風呂に入るのも未だにいくらか勇気を出さねばならない。
女の子の体で裸になること。
女の子の体を間近で見ること。
女の子の体に触れること。
それら全ての行為が、自分自身に返ってくる、倒錯した感覚。
健全かつ純粋な男子中学生には、少々刺激的に過ぎるものだった。

そしてまた、怖くもあった。
自分がそういった、知り得る筈の無かった感覚に慣れていくのが。
段々僕が僕で無くなっていくような、自分がいなくなってしまう様な気がするから。
状況に従って流されてしまえばきっと楽になるのだろうと思う。
これまでだって隠れる様に、目立たない様に、ただ周囲に溶け込むことでなんとかやり過ごして来たのだから。
でもそれでも、僕は僕の14年をあきらめられる程悟ってはいなかった。
戻れる望みがあるのかさえわからない状態で、この体を受け入れずにいるのは僕の精一杯の抵抗だったのかも知れない。

「……ふう」

肩まで湯船に浸かり、少しして、お湯の温度に体が馴染んできて。
ようやく一息ついた。

その時。
にわかに脱衣所の方が騒がしくなる。

「ん?ペンペン?ちょっと待っててね」

温泉ペンギンなどと言う珍妙な鳥の仲間、この家のもう一人の同居人は、その種別の通りお風呂を何より好む。
初めて見たのもこのお風呂で、あの時僕はこれまで一度も見たことのない生き物との遭遇でパニックになってしまった。
裸のまま飛び出して、ミサトさんにからかわれて。
今でも事あるごとにあの時の事はネタにされている。

――あの頃はまだこの体になってすぐの頃だった。

我を忘れる程に驚いたのだから、驚かれた彼にはいたく不満だっただろう。
しかし今では彼の好きな魚の種類だとか、お気に入りのニュースチャンネルなどというものまでわかってしまった。
鳥類とは思えない素晴らしい知能を持つ彼は、僕達が何を言っているのかも理解しているようで、語りかければ同意したり、つまらなさそうに欠伸をしたり、はたまた差し入れがわりにか冷蔵庫からおつまみを引っ張り出してきてくれたりと、実に人間くさい対応をしてくれる。

ヒトに言えない秘密を抱えてしまった僕にとって、彼は格好の話相手になっていた。
実際のところ、別に彼が本当に内容を理解していなくても良かった。
心に澱む鬱屈した物に、相槌をうち、誰かにもらす事も無く、ただ聞いてくれる、そう言った相手を必要としていたのだ。

――もう少し体が温まったら、中に入れてあげよう。

そう思って、少し体を伸ばした瞬間だった。
あり得ない事に、風呂場への入り口が勢い良く開け広げられた。

「ふっふー、残念、ペンペンはまだ起き掛けの一杯を堪能中よ」
「み、ミサトさんっ!?」

油断していた。
このヒトは普通の物差しで測れば色々と非常識なのだと、今更ながらに思い、そして振り向くと同時に視界に飛び込んだタオルすら巻いていない堂々とした裸体に目が眩んだ。

「な、何してるんですか!僕は、男ですよ!」
「正真正銘のかわいい女の子がお風呂でそんな事言っても説得力ないわよ?」
「そう言う問題じゃ無いでしょう!出てってください!」

確かに傍から見れば僕はどう見ても女の子だ。
しかしミサトさんは僕の秘密を知るそう多く無い人々の一人であって、ならばこの状況は明らかに恣意的なものだった。

「もしかしなくても、からかってますか?」
「やあねえ、今は女同士だし、勃つもんも無いんだから良いじゃ無いのよ」
「勃……っ、そう言う問題じゃ」
「一緒に入れてね〜」

下世話な言い方に抗議を終える前に、ミサトさんの体が湯舟に割り込んできた。
慌てて身を捩ると、彼女は僕の背中側から一気に足を突っ込み、そのまま体まで沈めていく。
二人分の体積と動きに押し出されて、お湯が盛大に溢れていってしまう。
気付けば僕は、ミサトさんに抱えられるような体勢となっていた。
いや、ような、では無い。
彼女はそのまま、本当に僕を抱きしめてきた。

「ちょ、ちょっと、何してるんですか、やめてくださいよ」

彼女から返事は無くて、代わりにもっと強く抱きしめられた。
僕の背中がミサトさんの体温を直に感じる。
彼女のふくよかな胸が柔らかく押しつけられているのが判る。
そして、僕の細い肩もまた、彼女の掌の温もりを感じていた。
首筋にも柔らかいものが当たるのを感じる。
かすかに感じるミサトさんの吐息から、それが頬であろうと思った。

ーーああ、あたたかいな。

生まれてこの方、女性はおろか、そもそも他人とこんな距離でお風呂に入った経験など無い訳で、体中の筋肉がカチコチに固まる程緊張していた僕。
その体が、徐々に解放されていく。
ミサトさんの温かさに、柔らかさに、力強さに、安心感が広がっていく。
お風呂のお湯よりなお心地良い人肌の熱に、心が融かされて行く。
こんなふうに抱きしめられるのが心地良い事なのだと、初めて知った。
優しさが伝わってくる後ろからの抱擁に、母性というのがどんな物なのか、おぼろげながらに感じていた。

ついに僕の全てが弛緩して、体の支えをミサトさんに委ねる。
すると見計らったかのように、彼女は更に強く、僕を抱きしめた。
華奢な体がその少々荒っぽい抱き方に抗議の声を上げた。

「あう」
「あ、ごめんなさい。痛かったわよね」
「あ、いえ……」

そのままで、と続けそうになって、僕は口をつぐんだ。
この暖かさに身を任せていたいと、そう思っている自分がいると判る。
こんなのはいけない、そう思おうとしても、抵抗する気にはならなかった。
もうずっと昔に得られるはずが無いと諦めてしまっていた物が、そこにあるような気がして、この温もりで心の奥底までほぐれていくような気がして。
このまま、こうして抱かれていたい。
そう自分からいう事はできないから、ただ沈黙を守る。

どのくらいそうしていただろうか。
体はすっかり温まり、心の内も心地よさで包まれた頃。
ミサトさんが、ぽつりといった。

「ごめんなさいね」
「え?」

耳の横、すぐそばで小さくささやかれた言葉。
掠れるほど微かな声は、普段の能天気さすら感じる明るさとは無縁のものだった。

「擦り傷だらけで、痛いでしょう。訓練といっては私達はあなたを傷つけてばかり」
「……そんなこと……」
「どうして私じゃ駄目なのかって、今だって自問してる。こんな小さなあなたにつらい事を押し付けて、あなたとエヴァに縋って生き延びて。本当は私達があなたのような子供達を守るべき立場なのに。代わりがいないから、エヴァでしか使徒を倒せないから、なんて言って、いざ戦うとなったら何も助けてあげられない」
「……優しいんですね、ミサトさんは。でも、いいんです。戦わないと人類が滅亡だなんて、仕方ないじゃないですか」

そう、この人はきっと優しい人なんだと思う。
僕のことなんかで真剣に悩んでくれているのだから。
嫌だろうとなんだろうと、僕はエヴァに乗るしか無いというのに、そんな事で悩んでくれているのだから。

「それに、僕は、決めましたから。絶対逃げないって」

そう言う僕を、彼女はぎゅっと強く抱きしめ直した。
首筋に触れたミサトさんの頬から、ひやりとした水滴が、僕の皮膚を伝って流れ落ちるのを感じた。
お互いにそれ以上言葉を継げないまま、時間だけが過ぎていった。



ミサトさんは先に湯船から上がっていった。
彼女の分、ずいぶんとかさの減ってしまったお湯の中で、僕はしばらく膝を抱いたままで考えていた。
どうしてミサトさんは僕を引き取ったのだろう。
彼女にとって僕の存在はつらいだけで、なんの利益もないだろうに。
いつ別れがくるかも判らない相手に、心を許す事など僕にはできそうにない。
別れがつらくなるだけだから。

でも、だからといってこの温もりを捨ててしまえるだろうか。
知ってしまった優しさを無視できるだろうか。

「……ひどいや、ミサトさん」

できる訳が無かった。
今まで感じた事も無かった温かさに、抗う事など。

素直に認めるのは癪だけれど、つまり僕は、ミサトさんを家族だと感じ始めていた。
先生のところとは違う、近しい人と感じ始めていたのだ。

「でも、まだ聞けなかった。聞けないよね」

今までの人生の中で、一番強引に、一番近くに食い込んできた彼女。
そんな人にも、僕はまだ踏み込んでいく事はできていなかった。
何度か目になる彼女の裸。
見る度に目につく胸に走る大きな傷跡。
それがどれほど気になっても、直接聞くだけの勇気を持てずにいる。

そんなことでも気軽に聞けるようになるまでに、あとどれだけかかるだろう。
後何ヶ月、後何年、彼女と一緒にいれば、そんな事を聞いても大丈夫だと思えるようになるのだろう。
あとどれだけ、一緒にいられるだろう。

冷たくなり始めたお湯の中で。
小さく身震いして、ようやく僕も立ち上がる決心をした。