或いは何処にでも有り得た物語


「ふう、疲れたあ」

そう言いつつ息をついて、玄関をくぐった。
その疲れは別に嫌なものじゃ無く、大いに騒いで遊んだ結果の事だったから、言葉の割に僕の表情は緩んでいたと思う。
こっちに来て出来た知り合いは、気の良い連中ばかりだった。
それまでは、他人なんて煩わしいだけだと思っていたのに。
今は違う。
一人でいるよりも、出来れば彼等と一緒にいたいと思う。

尤も、彼らは僕の抱えている秘密を知らないのだけれど。
知ってしまえばきっと今の関係が壊れてしまうだろうから、僕は自分の体のことを話すつもりは無かった。
親しい人にも話せない秘密、それが少し、寂しい。

赤みがかったダウンライトに照らされた玄関を抜ける。
まだ明かりをつける前のリビングから、気忙しく留守電の新着メッセージを知らせる光が点滅していた。

ーーあ、ミサトさん、今日も泊りかな。

そう思いながら再生ボタンを押す。
案の定だった。

唐突に、周囲がとても静かだと感じた。



今夜は僕一人の食事になる。
それでも、二人分のおかずを作って、片方は冷蔵庫にしまっておく。
もう片方だけを並べた妙に広く感じる食卓。
こう言う時は、直ぐに夕食を食べ終えてしまう。
いつもなら最後の一口などすっかり冷め切ってしまっているのに。

自分の分だけの洗い物をさっと終わらせて、テレビを見る気分にもならず、自分の部屋に戻って。
机に向かい宿題も終わって、それでもまだ時計の針はまだ八時過ぎをさしていた。
もうやるべき事も特に思いつかなくて、僕は制服のままベッドに体を放り出した。

どうしてだろう、昼間はあれほど楽しかった筈なのに。
そんな事が全部抜け落ちてしまったのように、心に空洞が空いているような。
今、僕が一人だからだろうか。
おかしいな。
昔はいつも、一人だったのに、それが普通だと思っていたのに。
なのに何故、こんな気持ちになるのだろう。

自分の汗の匂いにふと気が付いて、自分がまだ体を洗わず、着替えてすらいないのだと思い出す。
だめだ、頭が回っていないみたいだ。
気を回すだけの余力も残っていないらしい。
それとも無意識に避けていたのだろうか。
自分の体の変化を嫌でも感じる事を。

それでもやはり、不快感が先に立つ。
もう動くのも億劫だったけど、なんとか体をベッドから引き剥がし、起き上がる。
軽く首を振り、立ち上がろうとして。
塵でも入ったか、しくりと右目に痛みが走る。

――あ、まずいかも。

そう思った時には遅かった。
もしくはそう思ったから連想してしまったのかもしれないけど。
こんな夜の、心の隙間に、過去の幻想が割り込んでくる。
締め出そうとしても止められず、ずたずたに切り刻み、僕の中を支配する。

あり得ないはずの体の痛みと、収まる事のない心の痛み。
蹲り、目を閉じて、耳を塞いで、それでも消える事のない悪夢。
僕には何かの弾みにそれが終わる事を願って、耐える事しかできない。

次の日、僕は学校を休んだ。

ミサトさんはまだ、帰らない。



ただ、怖かった。

フラッシュバックした記憶の体験はもちろん怖かった。
今まさに体験しているかのような脳の奥が刳られる感触も。
生身のまま押し潰される激痛も。
貫かれて掻き回された内臓がずぶずぶと溜まる感覚も。
痛覚も触覚も麻痺するほどの、死ぬ事のない死の体験。
それが怖くない訳がない。

けど、本当に怖いのは、その後だ。
この感覚の後にやってくる、悪夢。
変わってしまった、その後の世界。
そこでは僕はエヴァそのものになっていて。
ただ、後ろにあるものを必死になって庇っている。
襲ってくる何かを僕の両手が引き千切り、脅威は去って。
そこで、僕は振り向く。
だけどそこには何もない。
そこに守ろうとしたものがあったはずなのに。
全部、無くなっているんだ。
そう、全部壊れてしまっているんだ。
僕の足下で、僕が、全部。
壊して、しまう。



「ミサトさん」
「何?」
「怒らないんですか?」
「怒って欲しいの?」
「……わかりません」

本当にわからなかった。
ミサトさんにどうして欲しかったのか。

結局、昨日の夕飯が、今日の彼女の夕飯になった。
僕は何も食べなかった。
食べられる気がしなかったから。
ミサトさんの分だけお皿を並べた食卓で、温め直しただけの料理が消費されていくのを黙って見守る。
彼女は何故僕が学校に行かなかったのか、知っているのだろうか。
知っているのかも知れない。
彼女からは、いつものあっけらかんとした陽気さも、作戦中に見せる厳しさも感じられない。
さばさばとした性格の彼女には珍しく、どうすれば良いのか決めかねているような、そんな感じがした。

こう言う事が起きたのは、今回が初めてじゃないから。
前の時、精神疾患の一種だとリツコさんが説明していた。
そしてミサトさんはそう言った事に詳しい訳じゃない。
大人だって、何でもわかる訳じゃない。
きっと、明日には病院に連れて行かれるのだろう。
それまでこんな微妙な空気の中で過ごすのだろうか。

そんな事を考えて沈んでいたところだった。
玄関のチャイムが鳴った。

「あ、出てきます」

咄嗟に立ち上がり、食事中のミサトさんを止めて玄関まで。
扉を開けようと、ロック解除ボタンを押そうとして。
身体が一瞬緊張する。
この向こう側が、本当は何も無いのじゃないかという馬鹿げた考え。
そう、馬鹿げた考えだ。
なのに手が、震える。
スイッチの表面に触れたまま、動けない。

もう一度、チャイムが鳴った。

大丈夫、大丈夫だと、心の中で唱えながら。
身体ごとスイッチを押し込んだ。
圧搾空気が解放される音が、恐ろしく大きく聞こえた。

「ひっ!」
「おう、どうしたんや、碇?」

小さく悲鳴を上げて肩を縮こませた僕に、間の抜けた声がかけられた。

「鈴、原……?」
「ん、だれやおもうたんや。まあケンスケもおるけどな」
「どうして」
「今日休んどったからな、ほれ、プリント」
「あ、……ありがとう」

戸惑いながら、数枚の配布物を受け取る。

「ま、プリントは口実で、どうしたのか心配になったんだけどな。連絡も無かったみたいだし」

特にこいつが、とトウジを指差ながら、ケンスケがいつもの口調で話す。
トウジは僕にプリントを渡した手を、そのまま頭に持って行ってぼりぼりとやった。
照れ隠し、だろうか。
そうであれば、実にトウジらしいと言えるのだけど。

「ごめん」
「なに謝ってんの。碇、酷い顔だぜ?大丈夫か?」
「そうや、体は大切にせないかんで。おまえはわいらの英雄なんやからな。倒れられたら困るやないけ」
「女子の家に一人で行けないヘタレが何を調子こいてんの」

彼等が何時もの、洞木さん辺りに言わせれば三流漫才な会話を展開し始めて。
だけど彼等は気づいているだろうか。
その様子に、僕がどれだけ救われたのか。

「うん、ごめんね、大丈夫。ありがとう」

僕の日常が、そこにあった。
確かに存在しているんだと、向こうから教えにきてくれた。
怖くて、確かめる事ができなかった僕の世界は、まだそこにあると、わかった。
それだけで、僕の心にかかっていた暗い雲が消えて、出口の無いように見えた密室から、僕は出る事が出来たのだ。
だから。

「本当に、ありがとう」

僕には、この言葉しかでてこなかったんだ。

よく覚えていないけど、僕は泣いてたんだと思う。
二人の妙に焦った表情だけは、なぜだかはっきりと、思い出せるから。