或いは何処にでも有り得た物語


旧式の大型バスが耳障りなブレーキの音を響かせて停車した。
赤信号の交差点。
左手は大きく開けていて、その方角に向かって荒野の中を真っ直ぐに道が続いていた。

どの方向にも他の車はない。

車内には、僕以外に誰も乗っていない。
視線を少し傾けるとミラー越しに気怠そうな運転手の顔が見えた。
不意にその疲れた瞳と目があって、慌ててまた窓の外に目をやった。

本当に何もない荒野だった。
セカンドインパクトの爪痕。
未だに植生すらまともに回復出来ないほどの痛手を被った、廃棄された土地だ。
地平まで続く平地を捨てられるほど、人口が減ってしまったのだと言う。

窓枠を揺らしていたエンジンの振動が一際大きくなり、またゆっくりと走り始めた。
外は遂に建物すら疎らになり、目に映るのは荒れた大地ばかり。
そんな状況が5分程続いただろうか。
何もなかった荒地の中に、整然と並んだ人工物が見え始めた。
一定の間隔で立てられた、細長い黒い石の列。

「墓地だ」

小さく呟いた筈の声が、車内に響いたように思えた。
この捨てられた場所の端まで続く、墓標の連なり。
おびただしい数の死者の記録だった。
15年前、ここに埋められた半数の命が失われ、更にその半分が続く3年でここに並んだらしい。
その日々を生き延びた人々は皆、口数少なくただこう言った。
地獄だったと。

地獄。
この言葉だけで、彼等の間では認識を共有出来る。
この言葉だけで、僕たちはセカンドインパクトを思い起こす。
けれど、僕は知らなかった。
そこが、どんな物だったのか、14歳である僕は、体験したことなどないからだ。
地獄の始まりの翌年に生まれて、物心ついた時には、混乱は収まりつつあった。
崩れ掛けた建物があちこちで取り壊され、多くのビルが新築のコンクリート臭を漂わせている、そんな街中が僕らの日常で、例えば年中汗ばむ様な暑さと同じ、それが当たり前だった。
古い物と言うのは大抵の場合壊れた物だったし、新しい物と言うのは大雑把に言えば無味乾燥な物ばかりだった。
自分達の少し先の目標になる世代は極端に人数が少なくて、だから僕らは何も知らないまま、その少し先の世代の年齢に到達し続けていた。
大人達が言うところの疲弊した停滞の時代以外など"その後"世代の僕は知らなかった。

バス停を一つ通り過ぎた。
あまりの広さに3箇所にある共同墓地の停車場の、最も新しい物だ。
降りる場所で、大体その人の訪ねる人がいつ亡くなったかが判る。
いちばん向こうが西暦2000年。
こっち側は2015年だ。
中央停車場の案内が出たのを確認して、おりるのボタンに手を伸ばした。
2人しかいない車内に、無骨な電子音が鳴り響いた。
着くまでにはまだ大分かかるのだけど。

15年と言う月日で作られた、死の記録にしては大きすぎる代物。
今も広がり続ける、衰退の象徴。

「それでも、作らずにいられない、か」

その言葉は加持さんの言い分だった。
身内の死と言うのは最も身近な大きな不幸で、多かれ少なかれ自分自身に影響を及ぼす。
墓標と言うのは、その人が存在した事を示すための物で、存在した事実を確認するための物だと。
確認する事の意味は人それぞれだけど、少なくとも悪い物じゃない、彼はそう言った。
だってその時より先にいないと、振り返る事なんて出来ないのだからと。
飄々とした普段の雰囲気ではなく、諭すのとも違った声色が印象的だった。
あれはもしかしたら自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
彼にももしかしたら、振り返り続ける相手がいるのかもしれない。
父さんの様に。

永遠に会えなくなった人に想いを馳せる。
今のところ、僕にはそう言った相手はいなかった。
母さんだって、具体的にどんな人だったかなんて覚えていないし、心から友人と呼べる様な人間も、幼馴染の様な長い付き合いの知人もいなかったからだ。

人々は、僕自身も含めて、いつか此処に並ぶ事になる。

失う事が悲しい事だと言うのは知っていた。
そして今は失う事など日常のすぐ横にある事も知っていた。
他人に近づきすぎず、他人に紛れる様な生き方をしてきたのは、そう言った思いもあったのだと、気がついた。
きっとこう言った考え方をする人は、僕たちの世代では少なくないのだと思う。
関わりを持つ事を嫌う、諦めの世代。
ミサトさんのような大人達からすれば、そう見えるのだ。
僕達と同じ位の歳の頃に、セカンドインパクトに遭遇し、今の社会を支えている彼等、多数の死と世界の激変と言う消しされない負の十字架を背負い続けている人達。

彼等の貪欲で、しかし暗い色をした情熱が今の世界を創りつつある中で、僕達が逆向きの感情に支配されていると言うのも、今の大人達に対する反動じゃ無いのか。
そんな事をミサトさんに漏らした事がある。

「それなら仕方ないわね、まあ、君らを見て育った子らに期待しときましょ。諦める事にだって疲れる時がくるわ」

彼女からは、前向きなのかどうか、そんな答えが返ってきた。
がさつで大雑把、豪快で前向きで強い女性。
この人の事を男勝りと言う形容が似合う人だと、そう思っていたけど、長く一緒に暮らしているうちに、本当はそう言う人ではなく、そのように在ろうとしている人なのではないかと思いはじめていた。
意識してそうしているかなんて判らないし、そう打ち明けられた訳でもないけど。
飲みすぎた後のふとした瞬間や、一人であの父親の形見だと言う十字架のペンダントに触れている時、そこにいるのは普段と全くの別人のように感じるから。
セカンドインパクトが無ければ、彼女は今とは全く違っていたのかも知れなかった。

一本道の途中で、バスが減速を始めていた。
もう直ぐに目的地に着くのだろう。
相変わらず一面に墓標が立ち並ぶ変化のない光景だけれど、運転手には何かしらの違いがあるのかも知れない。
僕には、分からないけれど。

これから僕は、父さんと会う事になる。
年に一度、父さんは必ず此処にきているらしい。
母さんの命日に、欠かす事なく。

この日は、僕にとっては数少ない父さんと必ず会える日だった。
普段、会いに来る事もなく、見かけたとしても何か威圧的な雰囲気で近寄れなかった父さんと、唯一話の出来る時。
それだけが楽しみで、この日を心待ちにしていた頃もあった。

エヴァのパイロットになって、物理的には父さんの近くで暮らすようになって、それでも僕達の間で会話などほとんどなかった。
普段の父さんはやっぱり威圧的で、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている人だった。
もしかしたら僕がこんな風になってしまったからなのかも知れない、と言うのは希望的な考えで、きっと僕が男のままであってもあんな調子だろう。
父さんが談笑している姿など見る事はなかったのだから。

いや、一度だけ、綾波と楽しげに話しているのは見た事がある。
あの時、僕は綾波に何かよく分からないもやもやとした物を感じていた。
エヴァのパイロットとして何とかやってきた今、あの時の感情はきっと嫉妬であったのだとわかった。
どれほど嫌われているとしても、僕は父さんを憎みきれなかったのだ。
ただ唯一の肉親であって、父親であるこの人に、褒めてもらいたかった。
僕の事を、見てもらいたかった、認めてもらいたかった。
嫌っていた筈だったのに、そんな思いが心の奥底でずっとくすぶっていたのだ。

そう気付いたから、僕は今日、ここにきた。
以前逃げ出したこの場所と、父さんと、もう一度向き合うために。
あの人との間にある大きな溝を、少しでも埋めるために。

また、あの掠れる様な音のするブレーキが踏まれて、バスが減速していく。
他と変わらない素っ気ないバス停が、直ぐそこに迫っていた。

すこし、緊張した。
父さんは今の僕を認めてくれるだろうか。
今の僕の言葉に耳を傾けてくれるだろうか。
逃げ出さない、そう決めていても、腰が重くなる。
もしかしたら、一言もなしに拒絶されるかも知れないのだ。
僕が、以前の僕と違っているせいで、僕自身と向き合ってすらもらえないかも知れないのだ。

でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。
ここは母さんの眠る場所だから、父さんが少しだけ優しくなる場所だから。
そう思ってから、ふと浮かんだ考えに自己嫌悪に陥る。

――今の僕は、母さんに似ているだろうか。

顔など覚えていないから分からないけれど、つまり僕は、そうであれば父さんが優しくしてくれるかもと、そう考え付いたのだった。
父さんからは逃げずにすむ、望んでいただろう状況。
けれど、それは父さんを騙しているだけだ。
本当の僕じゃない。

程なくバスは完全に停車する。
最後にガタリと大きく揺れて、急かす様なブザー音とともに狭い出口が開いた。
心の準備などまだ出来ていない。
けれど、体は自然と反応して、立ち上がってしまった。
戸惑いのまま、歩を進める。
それでも、あっと言う間にタラップまで辿り付いてしまう。

ふう、っと息を付いて、ガラガラとなる料金回収の口に硬貨を投げ込んで、踏み出す勢いを絞り出して。
頭一つ分だけ下に降りた時、不意に声がかけられた。

「きいつけていきや、嬢ちゃん」
「え、あ、はい」

慌てて振り向きお辞儀をして、そのままバスを降りてしまった。
さっきまでの躊躇いが何だったのかと言うくらい呆気なく。
すぐに扉がしまって、ノロノロと加速して、バスは行ってしまった。

「……思ってたよりも、若い人だったんだ」

バックミラー越しの瞳からは年老いた男性だとばかり思っていたが、その声と、振り向いた時に見えた顔は、加持さんよりも若いくらいだった。
世界が疲れている、さっきまで考えていた事のせいで、そんな言葉が出てきた。
僕もあんな無気力さを漂わせていたのだろうか。
生きる事なんてどうでもいい、そんな表情を。

昔は本当にそう思っていた。
今はどうだろう。
そんな事考える余裕なんて無い程、必死だった。
何に?
そう、毎日を生きるために。
何もかもが違う日常、ただどたばたと過ぎて行くだけの、必死な毎日。

突然、笑いがこみ上げてきた。
きっと僕は今、死んでしまってもいいなんて思っていないのだから。

――けれど。

踵を返して、飾り気のない墓地の入り口へ向かいながら、思う。
もし僕がこの世からいなくなったとしたら、父さんは僕の事を訪ねて来てくれるだろうか。
こんな風に、母さんと同じ様に。
立ち止まって、少しだけ考えて。

「それ位は、期待してもいい、かな」

そう言ってから、僕は再び歩き始めた。