或いは何処にでも有り得た物語


前方から一人の男性が近づいてくる。
見知らぬ人だ。
20代半ばだろうか、有り物のTシャツにジーンズと言う安上がりな装い。
足を投げ出すような、お世辞にも品性があるとは言えない歩き方。
髪の毛はくすんだ金髪とも取れる茶髪。
俗に言うチンピラとか言った種別の人間だろう。
長めに伸ばした前髪の下の気だるげな瞳と痩せぎすな顔に塗り込められたやる気のない表情とを確認して、不自然にならないよう努めながら視線を逸らす。

厄介ごとは御免だ。
ただの小柄で地味な中学生、気にも止めない存在を装ってすれ違う事にした。
向こうから彼がやってくるまで、約5メートル、4メートル、3メートル……。
突然、それまでどこを見るでもなかった彼の目が、僕を捉えた。
顔を、胸を、品定めするように、ついで足先から順に舐め回すように。
生理的な嫌悪感に思わず身が竦み、びくりと震えが体の外まで出てしまい。
そのまま不躾な視線と目を合わせてしまった。

「あん?」

男も立ち止まり、剣呑な声を洩らした。

あ、と、思った時にはもう遅かった。
硬質な足音をそれと認識した時には既に、男と僕の間に広い黒服の背中が立ち塞がっていた。
今頃向こう側の男は目を白黒とさせている所だろう。
それだけで済んでくれればいいのだけれど。
ここから先、少しでも妙な事をすれば。

「なんだ、てめえは!……おい、ちょ」

……あっという間に取り押さえられてしまうのだった。

はぁ、と大きな溜息が漏れるのを止められなかった。
これで何人目だろうか、この手の連中がこういう目に会うのは。
黒服をきた男性は、いわゆるSPと呼ばれるタイプの仕事をしている人であって、なんでもネルフの諜報部から派遣されているらしい。
エヴァのパイロットである僕は確かに重要人物であるのだろうけれど、この扱いはいまだに慣れない。
揉め事が揉め事になる前に揉め事によって揉み消すというべきその姿勢は余りに高圧的であって、まるで常に非日常の中で生きているような窮屈感がある。
いつだって、彼らがいないように見える時でも、僕はきっと監視されて、彼らの保護の下にいる。
その事実だけで気が滅入りそうだった。

はぁ、ともう一度溜息をついた。
その時だった。

「おいこらてめえ、離しやがれ!」

怒声と共に、押さえつけられていた男が目一杯に伸び上がって、目の前の黒服の男性に頭突きをくらわせた。
当たりどころが良かったのか悪かったのか、そのSPが押し倒されて、拘束が解ける。

「ったく、なんだってんだ、ガキ一人によ」

そうゴチて駆け去ろうとしたそのチンピラは状況を理解するのが遅すぎた。
逃げようとした方向の建物の影から一人、更に反対の通りからも一人、黒尽くめの人物が現れたのだった。
それを見て怯んだ瞬間、後ろからタックルをまともに食らって地面に押し倒され。
今度は3人がかりで完全に身動き取れなくされたのだった。

「全く、あの状況で抵抗するかな」

どう見ても厳めしい黒服サングラスに突っかかろうなど、どうなるか予想はつきそうな物だけれど。
そう思いつつ、がっちりと手錠をかけられていく様子を何とは無しに見ていて。

「あれ?」

ふと、初めに男を取り押さえていたSPに目が行った。
頭突きを受けた時に外れたのか、サングラスの外れた素顔。
その顔が妙に引っかかって。
記憶に焼き付いて、離れなかった。



日曜日の、遅い朝の終わりの時間。
毎週の如く、ぐるっと日用品に食料品を買い集めて、その帰り道。
スーパーからの抜け道の、住宅街の二つ目の角。
低めのブロック塀の向こう側。

「おはようございます」

頭を下げた向こう側には、せっせと庭仕事に励む男性の姿があった。

「おはよう」

答えて小さく会釈をしたその顔を見つめる。
やっぱり間違いない。
この人だ。

「……全然、気が付きませんでした」

見つめた視線を逸らさずに、姿勢を正す。
この時間、いつも見かける近所のおじさん。
30歳も半ばか、40近いかもしれない。
上にも横にも大きいその姿はよく目立ったけど、作業着姿になで肩の丸っこい印象とすこし皺の入った優しい目尻が人のよさを感じさせる容姿だった。
黒服にサングラスで固めた厳つい姿とは正反対で、だから今まで二人の人物が結びつく事もなかったのだけれど。

「……立ち話もなんだ、上がっていくといい」
「え、いえ、そんな」
「お前らも、構わんだろう?なに、機密を話したりはせんよ」

僕の体を通り越した先に向けられた言葉に振り返ると、路地の向こうの人影が見えた。
この距離で聞こえるような大きな声では無かったけれど、その人影は左手を上げた。
了解した、という事だろうか。
もう一度向き直ると、おじさんは一つ頷いて、右手で僕を促した。

「玄関はこっち側だ。開けてくるよ」
「あ、はい。すいません」

畏まった僕に小さく笑うと、彼はゆっくりと軒下へ歩いてった。
僕が玄関についてから扉が開くまで、そう時間はかからなかった。



「ジュースでもあれば良かったんだが、生憎切らしていてな」
「いえ、そんな、おかまいなく」
「はは、ずいぶん緊張しているな。そんな所に立っていないで、座るといい。荷物は……何かまずい物はあるかい?」
「あ、いえ、保存食ばかりだし、大丈夫です」

小さなちゃぶ台に座布団が敷かれ、コップには冷たく冷えていそうな烏龍茶が注がれている。
それ程広いリビングでは無かったけれど、余り物がおかれていないからだろうか、妙な広がりがある感じだった。
正面の右手に小さく纏まったシステムキッチンが陣取っていて、左手側は全面がガラスの扉になっている。
その向こうには彼がいつも手入れをしている庭が広がっていた。

「余り人もこないし、所詮男一人で暮らしているとどうしても殺風景になってしまってな」

絵がかけられている事もなければ、家具も必要最小限。テレビやハンガーセット以外の壁際はといえば、建てられた時そのままといった殺風景な壁紙が今だに新居の佇まいを残していた。
自分の住むマンションの一室とは大違い……、いや、自分が来る前は、ミサトさんのところもこうだったのだろうか?

「でも、きちんと掃除はしてるんでしょう?」
「ん?ああ、そうか、葛城一尉の凶行は有名だからな、色々大変だろう」

はっはっはっと表情を崩した笑い顔に、僕もつられて苦笑する。
朗らかな笑顔。
SPといった仕事とは結び付かない、人間的な笑顔だった。
でも、心の中で何かがしくりと刺さって、結局会話は続かなかった。

そもそも僕は何故ここへ来て、人の家に上がり込んでいるのだろう。
何をこの人から聞きたかったのだろう。
疑問は湧いても、言葉は出ない。
視線を向けられても、見返す事も出来ない。
動く事も出来ず、どうすればいいのかもわからないまま、時間だけがジリジリとすぎていく。

唐突にふぅっと吐き出された溜息にピクリと体を震わせてしまった。
それに気づいたのだろう、彼は苦笑しながら言った。

「すまないな、怖がらせるつもりは無かったんだが。まあ、緊張するなという方が無理か」

返事をする代わりに、何時の間にかカラカラになっていた喉がゴクリとなって、慌てて目の前のコップのストローに口を付けた。
何を言うでもなく、その様子を見ていた彼は、僕が落ち着くのを待ってゆっくりと立ち上がった。

「庭に、出てみるかい?」

そういいつつも彼はガラス戸の方へ歩いていって、留め金を外して。
僕を誘うように、その場所をゆっくりとスライドさせた。
閉め切られていた室内の空気が、柔らかく動き出す。
エアコンの冷たい空気と、常夏の湿った空気が混じり合う。
そこに混じる、夏草の香り。
太陽の光で白く飛んだ様に見える家の内と外の境界。
その向こうには軒下かデッキといった風の小さな張り出しがあって、膝ほどの高さを降りた所から庭に続いていた。
先程も眺めた筈の光景。
なのに、ガラス一枚無くなるだけで、これ程までも違って見えるなんて。

「綺麗だ……」

自然と声が漏れていた。
こじんまりとした、対して大きくも無い筈の土地はしかし、溢れんばかりの生の色彩で埋められていた。
壁際では背の高い細長い葉っぱと白いアクセントを持つツタの葉が競い合うように上へ横へと広がっている。
その手前から、これも負けじと背を伸ばすのは向日葵だ。
その足元にはシャンと伸びた色取り取りの花々が、赤煉瓦で仕切られた花壇のこちらまで出て来そうな勢い。
下をみればやはりどこも花々で埋め尽くされてる。
よく見ると白い砂利を引いた小道があって、その小さな小さな道程以外には足の踏み場もない有様で、けれど目を向ける場所が変わる度に、視界の中の色の基調が変化して、また新たな光景となって迫ってくる。
コンクリートとアスファルトの臭いを押しのける、圧倒的な緑と花の瑞々しい甘い香り。
外から見えていた物でも一瞬目を奪われる美しさだったけれど。
この庭の景色はこちら側のために作られているのだとわかった。

「どうだい、中々のもんだろう、って言いたい所だが、人様に見せられるもんかはちょっと自信が無いな」
「そんな!とっても綺麗です。まるで夢の中みたいに」
「はは、元々見せるために作ってたわけじゃ無いからね。でもそう言ってもらえると作った甲斐もあったかな。先日ようやく形になった所でね」

どっこらしょ、と縁側に座るおじさんの隣に僕も腰を下ろす。
本当に綺麗な庭だった。
肌を焼く日の光も忘れさせる可憐で力強い生命の色。
強い光を受けてなお一層深く溢れ出す湿った土と蜜の香り。
その傍らにこうして座っていると心が安らいでいく。

そうしてまた、僕らの間には会話がなくなっていた。
緊張でも戸惑いでも無く、感動による無言。
言葉で表せない感覚をきっと相手も同じように感じているという奇妙な共有感。

「庭いじりなど、何が楽しいんだって、昔は思っていた」

漸く興奮と恍惚から覚めて、でも半ば夢心地だった心に静かに響いて来た言葉。
ふとみれば、彼の視線は庭の真ん中の更にずっと奥を覗き見る様な遠い所に像を作っている虚ろな色をしていた。
張り詰めていたモノが抜け切ったというように表面には細かく深い皺が刻まれていて、初めの印象より更に老け込んだ様に見えた。
熊のようにずんぐりとした体も幾分小さくなった様に見えて、まるで突然に別人と入れ替わったという風に思えた。

「だけど私の妻が大好きでね。あいつの庭いじりに言われるままに付き合っていたんだ。
勿論今よりもっと素人のやる事だったからひどい出来栄えの事も多かったが、それでもあいつは何か出来上がる度に大喜びでな。
私はその笑顔を見るためにひたすら庭を掘り返してたよ」

過去を思い出す、静かで、柔らかで、寂しげな表情。
この家に女性の残り香は無かった。
ただ彼一人の生活の跡があるだけだった。

「あれからずっと私は庭を作り続けてる。何のためかなんて、もう考える事も無いってのに、今だにやめられんのさ。見せる相手もいないのに、見栄えのいい庭なんぞを考えて、自分じゃゆっくり眺める事もせず、下を向いて作業を続けて来たんだ」

遠くを見たままの瞳が、色とりどりの草花の上をなぞっていく。
この美しい庭を作り上げた本人には、この光景はどの様に映っているのだろうか。
もしその視線が過去の思い出しか映していないなら、それはとても哀しいことと思えた。

「僕は、見ました。このとても綺麗な庭を。あなたが見せてくれたんです。あなたが作ったこの庭を。こうやってこの庭を見るための場所に連れて来てくれたんです」
「……そうか、そうだな」
「理由なんてない、この庭は確かに綺麗なんです。感動できるんです。だから。
あなたも、何も考えずに眺めたっていいんだと思います」
「ああ。そうだな」

もどかしい、言いたいことが言えていない、そう思うけれど。
僕の思いは、多少でも伝わっただろうか。
その横顔から何とか読み取ろうと伺っていると、ぼすんと、頭の上に大きな手の平が乗せられた。
そのまま、わしわしと撫でられる。
力強く、硬く角張った、生き様をそのまま映した手の平。
心地よい柔らかさは無いけれど、心地よい優しさを感じる、安心出来る手の平だった。

「この歳になって君のような子供に諭されるとはなあ」
「あの、ごめんなさい」
「謝る事なんか無いさ。君の言葉、とても嬉しかった。
私は償いとして庭を作り続けて来たのかも知れない。だがな、きっと私もいつのまにか作る事自体に喜びを見つけてたんだ」

まだ頭に乗せられたままだった左手が、もう一度ゆっくりと頭の上で動いた。
横目がちにこちらをみたおじさんの瞳には遠い過去では無く、僕自身が映り込んでいた。
現実を捉えた視線が、彼の作った庭を改めて見回していく。

「君の言うとおりだ、この庭は美しい。妻もきっとそう言ってくれる、そう、思えるよ」

小さく呟くようで、でも不思議によく通る音。
暫くして、彼の手から小さな震えが伝わってきた。
声にも、表情にも出ていないけれど、ただ瞳だけが潤んでいて。
その静かな泣き顔に戸惑っていると、突然、ぎゅっと左肩から抱きしめられた。
どくんと一つおおきく心臓が高鳴って。
体と頭の全部を彼の左側に預けて、背中からぐるりと大きな腕と手で囲われて。
でも不思議と嫌悪感は無かった。
戸惑いと、暖かさ、安心感、そして彼の内側の震えを感じながら、太陽が真上から下りはじめる頃まで、そのまま僕は庭を眺めていた。



「もし娘が生まれていたら、こういう風に話すことが出来ただろうかな」

そう言ってから、彼は軽く首を振り、苦笑いをした。

「私のようなのが父親じゃあ、年頃の娘には煙たがられるだけか」
「そんなこと」
「いやいや、そんな物さ」

結局、昼ご飯までご馳走になってしまい。
満腹感にも助けられて、ずいぶんとリラックスした、食事の終わりのころ。
有り合わせを全部叩き込んだような豪快な炒飯の、見た目とは違う絶妙なバランスに舌鼓を打ちつつ、彼の言葉に耳を傾ける。
食事中に聞かされた話は、軽いものでも明るいものでも無かったけれど、話し聞かせてくれた声の中には、哀しみよりも思い出を懐かしむ色の方が強くて、おかげで僕も普段通りにいられたのだった。

「まあ、言っても詮無い事だがな。亡くしたものは帰ってこないんだから」
「セカンドインパクト、大人の人はみんな地獄だったって言うけれど」
「そうだな、この世の終わりと言うのはああ言うもんだと思ったよ。一瞬で何もかも流されて、気づいた時にはもう妻は手遅れだった。私自身も暫く生死の境を彷徨ってたよ」

突然の天災に、備える暇も無く襲ってきた大津波の中で、身重の奥さんを必死に庇い続けて、それでも守りきれなかった。
冷たくなった妻の肌の感触は、今でも消える事無く夢に出てくると言う。
恐らくは人生の終わりまで忘れることのない記憶。
それが、今の彼の生き方を決めたのだ。
一見すれば暴力沙汰など似合わない男を手荒なSPといったことに従事させ、完成することの無い庭を作らせ続けたのだ。

「あれから15年、自分も歳は食った。
今回の仕事に選ばれて警備対象と言われた君の年齢を聞いた時、実に複雑な気分になったよ」
「産まれていたら、お子さんと同い年だったから?」
「ああ、そうだ。絶対に護り抜かねばならないと思ったし、きっと向こうもそこを計算して私を選んだのだろうと想像も出来てな。全く、経験が増えるとこういう無駄な洞察だけは鋭くなる」
「でも、そう言う人に守ってもらっていたなら、少し安心出来ます。僕の警備なんて嫌々やっているものだと思ってたから」
「我々だって人間だからな、思う所のあるやつだっているだろう。だけど仕事に手を抜く奴らじゃ無いからな。君もあまりそう言う事を気にしすぎない方がいい、と言っても割り切れる性格でも無いか」
「わかるんですか?」
「大抵の事はバレバレさ。大人ってやつはな」

それじゃあ、僕の周りにいる大抵の大人達も、実は僕の事なんてお見通しなんだろうか。
あの父さんでさえも、僕の事を理解している?
そんな事、あるのだろうか。

あって欲しく無い、けれどそうあって欲しい。
そんな矛盾した感情が首をもたげかけた、その時だった。
よく通る短い電子音が3度、部屋の中に響いた。
僕の携帯端末が公衆電信を受け取った音だ。

「あ、ミサトさんだ。……今日はもうすぐ帰れるって」
「作戦部も大変だな。休日などあってないようなものか」
「……そうですね。お給料がいくら貰えても使う時間が無いって、たまに愚痴ってます」
「ふふ、なら久々に使わせてやらんとな?今日は帰って、気晴らしに付き合ってやればいい」

仕事中はサングラスの下に隠れていた、小さな瞳の片方でウインクして見せたその顔は、意外なほどお茶目にみえた。

「それじゃあ、すいません。長々とお邪魔しちゃったのに、ドタバタしちゃいますけど」
「君は少々他人に気を使いすぎだなあ。特に私は大人で、君はまだ子供だ。もっとわがままを言っても構わないくらいさ」
「でも、その方が嬉しいなんて事、無いでしょう?」
「そうでも無い。身勝手なもんだが、自分が頼られてるって実感というのかな、そう言うものに満足する事だってある。要するに甘えて欲しいって思ってる部分が刺激されるんだよ」
「よく、わかりません」
「そりゃそうだ、単純に歳を食わないとわからない事ってのはな。今はまだ言葉として覚えていてくれれば十分と言うものだよ。さ、あまり問答をしていると葛城一尉の帰りに間に合わなくなるぞ」
「あ、はい」

テーブルの端によけられていた小さな時計の針をみて、慌てて荷物を纏める。
おじさんは結局冷蔵庫に入れさせてもらった物を出してきてくれた。
本当は長居するつもりなんて全然無かったのに。
見ず知らずの筈だった人の家にお邪魔するなんて事自体、思っても見なかったのに。
なのに僕は今、寂しさを感じていた。
玄関まで歩いて行き、靴を履いて、開けてもらった扉をくぐって。
少し名残惜しくて、塀と家の壁の間から僅かに見える草花に目をやった。
薄暗くなった先にある柔らかな光の色。
僅かに香る植物の呼気。
そこに確かに生きている存在を感じ取れる。

「随分と気に入ってくれたようだなあ。ありがとう」
「そんな、こっちがお礼を言いたいところなのに。困ります」
「そう言うな。そうだ、済まないがちょっと待っててくれるか」

何だろう、そう思う間に彼は家の中にとって返して、何かを探しに行ったようだった。
少々ドタバタとする音が聴こえてきて、それから程無く、また玄関へと戻ってきた。
その手に、小さな紙袋があった。

「なんですか、それ?」
「おみやげ、じゃあ無いか。花の種と球根だ。説明書きもつけておいた。もし気が向いたら、育ててやってくれないか」
「いいんですか?」
「ああ、そいつはいつか君に育てて欲しいんだ、わしのわがままだが」
「ありがとうございます、きっと育てます」

なぜか少し俯いた顔を下から覗き込む様にしてお礼を言って。
一歩、玄関から遠ざかる。

「それじゃ、もう行きます。お邪魔しました」
「ああ、気をつけてな」
「大丈夫です、同僚の人が守ってくれてるんでしょ?」
「ふふ、そうだったな」

頷くようにしたあと、彼は僕を促し、僕もそれに従う。
ブロック塀の間を抜けて、家の境界を越えると、そこには何時ものように溶けそうな程熱くなったアスファルトが待ち構えていた。
昼下がりの、毎日続く見慣れた光景。
玄関から手を振るおじさんにこちらも手を振って、それから僕はゆっくりと家路を辿りはじめた。



次の日曜日。
僕はまた、あの庭のある家の前に立っていた。
いつもと違う、まだ買い物前の朝の時間。
いつもの庭に、まだおじさんの姿は無かった。
少しだけ躊躇った指が、小さな呼び鈴を押した。

あの時貰った花の種。
そこに添えられていた手紙、簡潔な育て方の説明と共に書かれた一節。

「……やっぱり、返さないと」

貰ったのは春に花をつける種類の種と球根。
冬の終わりに根を張って、春の始まりと共に芽吹く草花。
15年間、育てられないと諦めてきた物。
15年前、奥さんが来年の春の為にとっておいた物。
15年分の贖罪と祈りを受けてきた物。

そんな物を、なぜ僕に?
そんな資格なんて、ある筈も無いのに。

彼はまだ出てこない。
もう一度、呼び鈴を押した。
すると、家の中でドタドタと動く人の気配がした。

「はーい、今でますー」

扉の向こうのくぐもった声は、しかし明らかに女性の物だった。
あれ?と、首を傾げている間に、玄関が開いて、その声の主が現れた。
見た事のない女性だ。
20代半ばだろうか、若々しさに反して落ち着いた雰囲気の人。
呼び鈴を鳴らしていたのが子供だとわかったからだろうか、おやっという様にあちらも首を傾げた。

「あら、近所の子かしら。はじめまして、こちらへ引っ越してきました大野です。
何か御用かしら?」

何故?
引越し?
彼は何も言わなかったのに。
あたりを見話して、そこが間違いなくあの家だと確認して。
ほんの少し、状況を飲み込めはじめた。

「あの、ええと、前に住んでいた人は?」
「ごめんなさい、会社の用意した家な物だから、会ったことも無いの。
お友達がいたの?」
「そうじゃ、無いんですけど」

質問をしてからふと気付いた事実に愕然とした。
僕はまだ、彼の名前すら知らなかったのだ。
じゃあ僕は一体彼の何を知ったと言うのだろう。
そんな自分への問いかけに答える言葉が出てこない。
僕はまだ、彼の事を、何も知らない。
その事がとても悲しくなった。

そのまま下を向いた視線。
少し暗くなった湿った土の地面。
僅かに香る土と緑の匂い。

「あ……、庭だ」

強烈な既視感に、僕の目は過去の記憶を辿っていく。
塀と壁の隙間道、その先の開けた光、そして生きた植物の色。
あの庭は、まだそこにある。

心が高鳴った。
光の中に、影が現れたのだった。
ゆらりと、向こうの庭の中で揺れる、人の影。

当然、現れたのはおじさんじゃ無かった。
でも、わかっていても動揺を抑える事は出来なかった。
おじさんとは似ても似つかぬ小柄な男性。
その眼鏡の向こうの目が、玄関の女性とあって、それから僕の方へ向き直った。

「おや、お客さんかい?すいません、挨拶もせずに」

この二人は、きっと夫婦だ。
ひょいと会釈したこの男性からも、女性と同じ柔らかさを感じたから。

「あの」
「ん、なんだい?」
「まだ庭は、あるんですよね」
「ああ、引っ越してみて驚いていたところなんだ。前にいた人が残して行ったんだろう、とても綺麗で、ついつい魅入ってしまうよ」
「ええ、とて熱心につくっていたから……。見せて貰っていいですか?」

そう尋ねると、また視線が隣へうごいて。
程無く、快い返事が返ってきた。

小走りで隙間を抜けて、まだ上りきらない太陽に照らされた庭の前で立ち止まる。
その場所を織り成す艶やかな彩が、まだこの間と変わらず、そこにあった。
彼の創った庭が、確かにそこにあった。
どうして、どうして彼は、この庭を残して去る事が出来たのだろう。
これだけの物を創っておいてあっさり捨て去る事など、どうして出来るのだろう。
そんな思いを心の内に抱きつつ、それでも庭から目を離す事は出来なかった。

後ろから近づいてきた男性の気配。
それは付かず離れずといった距離で立ち止まって、庭に魅入っていた僕と同じに、暫く無言だった。
何分かの静かな時間を破ったのは、意外な言葉。

「あんまりにも見事な物だから、正直困っていてね」
「どう言う事ですか?」
「僕達は庭いじりなんてした事も無いからね。ずっとこのまま、なんて難しいって、そう考えるとね」

そうだ、それは当然の事だった。
この庭の主人はもういないのだから。
たとえその美しさに感動したとしても、これだけの物、保つだけであっても一苦労では済まないだろう。
そんな事をここへ来たばかりの人たちに望むなんて、無茶と言う物だろう。
一瞬喉からでかかった想いを飲み込んで、代わりに僕は俯いた。
この風景が失われるのだと思うと、無性に悲しくて。

そんな僕をみかねたのか、彼がまた声をかけて来た。

「僕はね、この庭を残しておけたらと思ってるんだ。何もかも手探りだけど、僕達2人で少しずつでも世話をしていきたいんだ」
「それは、でも、いいんですか?無理しなくても」
「心配しなくてもいいよ。あ、いや、庭をずっと守っていけるって意味じゃ無い。君は僕達の事を気にしてくれている様だからね。確かに庭作りなんてした事無かったけど、そう言うのが嫌いってわけじゃない、ただ機会が無かっただけなんだと思う。それにこれでも研究者の端くれだからね、地道な事には慣れてるんだ」

研究者、と言う言葉で、ふっと赤木さんの顔が思い浮かんだ。
もしかしたら2人はどこかで顔見知りかも知れない。
そんなどうでも良い人の縁を思い浮かべながら改めて男性を見れば、冷静さと無邪気さを同居させた様なその雰囲気は、確かに知識系の仕事に関わる人特有のものだ。
白衣を来て締め切った部屋で黙々と実験を続ける、ステロタイプな科学者像と、日の当たる庭での野良仕事、全くかみ合わない二つのイメージの意外な共通点に目をパチクリしていると、ややあってから彼は言葉を続けた。

「まあ、きちんと続けられるかって言うと分からないけど、だからさ、良かったらたまに僕が怠けていないか見に来てくれると助かるんだけどね」
「ええと、それって」
「せっかくこう言う妙な縁で知り合ったんだ、君みたいな子が訪ねてくるっていうのも悪い気はしないもんさ」
「僕みたいな、て、よくわかりません。けど、本当に?」
「勿論、名前を教えておいてくれれば、ね」
「あ、はい」

そう言われてから、僕はようやく彼らに自己紹介をした。
そうだ、おじさんは初めから僕の事を知っていたし、彼自身も名乗ろうとしなかったから、あえて聞くタイミングも無かったのだった。
ふと思い出される、彼の口にした"機密"という言葉。
もしかして、名前すらもそうだったのだろうか。
こうした別れになるのだという事も。
全部分かっていて、でも話す事が出来なかったのだろうか。

なら、それなら。
手にしたままの紙袋の中身、これはやっぱりただのプレゼントなんかじゃない。
僕は託されたんだ。
あの人の過去への想いを。
あの人の未来への願いを。
春にしか咲かない花が、再び咲くその時を。

そう思うと、小さな紙袋が急に重たくなった。
そこに込められた想いの重さ。
おじさんから渡されたその時から、軽い物では無いと分かってはいたのだけれど。
どこか距離をおこうとして、例えばこうして返そうとしていた今までと違って、受け入れた事でその重さを実感したのだった。

「必ず、また見に来ます。だから、大切にしてあげてください」
「うん、ありがとう。大切に育てていくよ」

そういった彼に大きく頭を下げて、僕はその家から出た。
いつもと逆順の道を辿る。
いつもと違う日常が戻ってくる。

手の持ったままの紙袋。
この中身は、今の日本で育てるのは難しい。
でも、それでも。
いつか、きっとおじさんがそうだった様に、これが育てられると信じて。
今は、僕に出来る事を。
燦爛と輝きはじめた夏の陽光を受けながら、僕はまた一つ、小さな決意を積み重ねた。