或いは何処にでも有り得た物語


「冬月」

ぼそりと言った言葉は、周囲の喧騒に紛れ混んだ。

「なんだ?何かまた面倒事かね」
「いや、今日のスケジュールを聞きたくてな。委員会があったように思うのだが」
「フランス代表が政変でそれどころでないと延期になっただろう。何を寝ぼけている」
「そうか、そうだったな。代わりになにか入れていなかったか」
「……あのな、碇。おれはお前の秘書になった覚えはないのだがな。MAGIに聞けばいいだろう」

電話越しに聞こえた盛大なため息を、碇ゲンドウは取り繕った仏頂面のままでやり過ごした。
ネルフではその手の仕事に秘書を雇う、といったことはしない。
一般的に秘書が行うような業務は、MAGIという世界最高の情報システムが"人間的な"対応を含め考慮し、管理を行っているからだ。
いくらともに行動することが多い人物とはいえ、副司令という立場の人間にするような質問でないことくらいは彼にも十分に分かっていた。
だが。
ネルフの司令といえども、現実逃避したくなる事はある。

「何故、私はこんな場所にいる?」

極小さく呟いた一言もまた、ほんの数センチ進んだだけで周囲の賑わいに掻き消されてしまい、彼の隣で陳列棚を見つめる少女、綾波レイの耳までは届かなかった。
この第3新東京市にあって最も人の集まる繁華街の中央にあるデパートでは、普段の会議室のような声では言葉を発した事すら気付かれない。
とはいえ、そんな一言を漏らしてしまう事自体が、今のゲンドウの困惑ぶりをよく表していると言えた。

「レイ」

今度は聞こえるようにと強めに呼びかけたと言うのに、声を掛けられた当人は、振り向く事も返事をする事も無く、食い入る様に並べられた品々に視線を注いでいる。
その様子にゲンドウは深く溜息をつくと、さらに強い口調で呼びかけた。

「レイ、好きにしろとは言ったがな……」
「はい、何でしょうか、司令」
「流石に、こういった物はどうかと思うのだが」

ようやく返事はしたが、相変わらずこちらを見ようとする素振りすら見せないその様子に呆れつつ、彼女の見つめる物体を視界に収めた。
そこには様々な動物、恐竜、アニメのキャラクターらしい物、実在の人物まで、ありとあらゆる種類のぬいぐるみが飾られていた。
どこからどう漏れたのか、中にはこれまで倒してきた使徒がデフォルメされた物まである始末だ。
こう言う物に興味を持つあたり、この子も女の子なのだな、とは思うのだが、"これ"の行く末がどうなるか考えると、こう言わざるを得なかった。

「そう、ですか……」
「別に買うなとは言わんがな、シンジへのプレゼントだろう。何故ここから選ぼうと?」
「……わかりません。こういう事は、した事が無いので」

珍しく語尾を濁し、俯いてしまったレイに対し、ゲンドウはゆっくりと近づき、小さな肩にそっと手をおいた。
この少女は凡そ真っ当な成長をしてきたとは言い難く、個人的な買い物などという機会も殆ど与えられてこなかった。
ヒトとの触れ合いを禁じられ、ヒトの中にいながら孤独である事を運命づけられた彼女が、プレゼントなどした事がー或いはされた事がーあるはずもない。
物を贈るということ、そこに親愛の情を込めるということ。
そういった事を教えられてこなかった筈の彼女は、しかしここ数ヶ月で劇的とも言える変化を見せつつあった。
学校と言う生活環境の変化、エヴァのパイロットとしての本格的な実戦の始まり、そしてチルドレン同士の、とりわけ碇シンジとの接触が大きな影響を与えているのは間違いないとゲンドウは考えていたが、今まで見せた事のなかった行動、意見、感情といった物がこうも容易く出てくる物なのか、結論を出せずにもいた。

いや、もしかしたら自分の愛したヒトの形をなぞる存在に対して、彼自身道具として以上の感情をいだいているのかも知れなかった。
碇ユイの残り香、分け与えられた肉の一部。
自らの娘の如き存在。
例えそれがヒトとは違う物だとしても、シンパシーを感じずにいられる筈も無い。
抗いがたい愛情、そしてまたそれが偽物で有ると言う責任感を喪失した諦めが、彼をして綾波レイの親たる態度を取らせる。
取らせてしまう。

そうしておいて、本当の我が子に対しては親としての責任など欠片も果たせずにいると言う事実に苛まれ、もがき、恐れて、結局目を背ける。
誰にも見せない内側で、ゲンドウはこの10年の間葛藤と共にあった。
それは今も変わる事なく、絶望と諦観の微妙なバランスの中で彼の選択にも微妙な揺らぎをもたらしていた。

「まあ、いい。何であれ、お前自身が選んだ物なら」

次に生まれた小さな溜息と共に、ゲンドウはそっと、肩においたままだった手を撫でる様に動かした。
ヒトの物と何も変わらない、小さくか弱い、年相応の少女の肩。
ゲンドウの一言で、強張っていたそこから少し力の抜けるのが彼には伝わっていた。
自分を否定されつづけ、自分を否定しつづけてきたレイが、自分で選んだプレゼント。
それを否定すれば、恐らく彼女はあっさりと受け入れただろう。
いつもの事だと、自分はそういう存在なのだと、そう考えて、ゲンドウの言う事は正しいのだと、そう言い聞かせて。
そのほうが彼の"計画"の上でもなにかと有利である筈だった。
なのに、そう出来なかったのは、何故か。
自らの行動に困惑しつつも、不思議と自らへの苛立ちが湧かないのは何故か。
答えの見えない問い掛けにゲンドウは暫し思案した。

「……碇司令?」

押し黙った彼を怪訝に見上げるレイの視線と、何を捉えるでもなかったゲンドウの視線が、不意に交わる。
彼を見つめる紅く透き通った瞳の中の、彼自身。
途端、理解した。

「そうか、これは、ここは。ユイ、お前との」

自分は以前もこの場所へ来た事があった。
始めて愛し、初めて温もりを分け合った、自分の全て、世界の全てよりなお尊い最愛の妻、碇ユイと連れ立って。
まだ小さな赤ん坊だったシンジを腕に抱いた彼女と、ようやく復興してきた世界で、シンボルの様に現れたデパート。
あの頃とは行き交う人々の数も入っている店舗自体もガラリと変わっていたが、ゲンドウは確かに覚えていた。
中央の吹き抜けの傍のエレベータで、少し暗がりのできてしまった小さな店舗。
そうだ、確かにあれは、ここだった。
彼は取り繕うのも忘れ、過去を掘り出し、現在に重ねていた。

「レイ。それでいいのか?」

彼女が手にとっているのは、猿なのか熊なのか、元がよく分からないほどデフォルメされたピンクのまだら模様。

「わかりません。でも。何故か、気になって」
「気になる、と言うのは理由があるものだ。最も、理屈に左右される物でもないがな。その時、その場所、その人にしか分からない直感的な洞察がそうさせるのだそうだ」

何を言っているのかと言うように、レイは瞬きを一つ、二つ。
人形ではない、それはヒトの感情がそうさせる。

「今は分からないかもしれない。もしかしたら将来にも分からないかも知れん。だがそれでもお前がそれを選んだ事にはきっと意味がある。だから、不安にならなくていい」
「……分かりました。碇司令、これにしようと思います」

少し考え込んでいたレイだったが、ともかく買っても良いのだと納得したのだろう、そのファンシーな縫いぐるみをもう一度ゲンドウに見せると、両手で抱きかかえてレジへと軽やかに駈けていく。
その背にまた、碇ユイの幻影が重なって、懐かしくも喜ばしい感覚にゲンドウはほうっと息を吐き出した。
小さく跳ねるように揺れる身体が立ち止まって会計を待つ姿を、彼は追いつづけていた。

「ふん。たとえ教わらなくともヒトは育つ、か」

感性と呼ばれるものが確かに彼女の中で育っているのだと言う、有るべきで無い、恐怖すべき状況。
しかしそうあって欲しいと願う姿。
そこに重なる、最愛の人の幻燈。
自分の欲望と、個人的願望の天秤がゲンドウの中で釣り合う事なく揺れ動き、ついにひと時、彼は目蓋を閉じ、光と虚像を追い出す。
またその姿が目に入らないよう、伏し目がちに目を開くと、今度そこに映ったのは、無造作に投げ込まれたがらくたばかりのワゴン。
土産物屋にも置いていないようなチャチな作りの木彫の置物、あっという間にブームを過ぎ去った健康用品、動くのかも怪しい携帯ゲーム、そんな方向性もなにもない雑多な品揃え。
その中の一つが気になり、ゲンドウはおもむろに手を伸ばす。
30cm程度の円形のそれを、彼はまじまじと見つめた。

「今日はやけにお前と縁のある日のようだな、ユイ」
「碇司令、それは何ですか?」

買い物を済ませたレイが、中身と同じくファンシーな包みを大事そうに抱えながら、隣から覗き込んでいた。

「星図早見盤という。星空の地図のようなものだ。最もこれは、セカンドインパクト以前の頃のものだがな」

彼女が生まれる何年も前の、今とは違う北極星を中心とした日本の夜空の案内図。
これと同じ星々を見る事はもう、日本では出来なくなった。
まさしく使い道の無いガラクタだった。

けれども、失われた情景は、懐かしさとともに彼の中に確かに残っていた。
彼女と通った、大学の天文台。
研究の合間に、テラスから二人で眺めた夜空。
同じ師の元で学んでいたとは言え、形而上生物学は向ける視線が異なれば180度別の学問になる。
碇ユイの知的好奇心はその頃宇宙の彼方にあり、それまで空を見上げた事もなかったゲンドウに、星々と神話を嬉嬉として語りつづけたものだった。
そう、丁度手にとった物と似た円盤と睨み合い、柄杓を辿って空の中心を見つけて、彼女の語る次の星座を探しながら、彼は確実にユイに惹かれていったのだ。
まだ、世界が壊れるなど想像のなかでも陳腐でしか無かった、若かりし頃の記憶。

「今日はずいぶんと感傷的になる日だな、まったく……」

ゆっくり静かに、ゲンドウは早見盤をもとの場所に戻すと、ふいとその場から背を向ける。
これ以上感情に溺れまい、流されまいと言うように。

「さて、もういいだろう。レイ、戻るぞ」
「これは、良いのですか?」
「役に立たない物など、不要だ」

そう言ったゲンドウは、既に歩き始めていた。
大人の男の広い歩幅に、レイは小走りで追いつき、並ぶ。
そうして横から見上げるようにした彼女の視線にも答えず、歩き続けるゲンドウ。
早くこの場から立ち去りたい、そう言った雰囲気。
だが、それでも、レイは彼に感謝の言葉をかけた。

「今日は、ありがとうございました」
「ふん……」

歩調は緩めぬまま、彼は小さく頷いた。
デパートの出口は、もうすぐだった。



「冬月」

ぼそりといった言葉だが、空調の音すら聞こえない静まり返った司令室ではよく響いた。
聞こえていないはずはなかったが、机の端で円盤をいじる初老の男性は完全に無視を決め込んでいる。

「冬月、いい加減にしてくれないか」
「おお碇、すまんな、懐かしくてつい夢中になってしまった」

そう言いつつもいじるのをやめない。
彼の手の中にあるのは、明らかにあの時の星座早見盤だった。

「あの頃はユイ君ではなくお前がこれを必死に回しているのに苦笑したものだが……」
「冬月先生、あなたと一緒に行った記憶はないのですがね?」
「おっと失礼、口が滑ったようだ」

クククッ、と悪戯を成功させたといった光を瞳に浮かべつつ冬月は笑った。

「しかし珍しいな、碇、お前がこんなものを買ってくるとは。ユイ君の思い出にほだされでもしたかね」
「私ではない。シンジからな。……父の日のプレゼントだそうだ」
「ほう?酒やネクタイではなくこんなガラクタをか。言っておくが、俺はなにも助言などしておらんからな」
「ああ、わかっている」

此間のことを思い出し、ゲンドウはあの時と同じく、深い溜息をついた。
何がどう伝わったのかはわからない。
だがまず間違いなく、レイがこれのことをシンジに伝えて、そうしていま、これはここにある。
今までそんな日の存在すら忘れていた、父の日という些細な行事。
綺麗にラッピングされた早見盤を悩んだ挙句に司令室の前に置き去りにして小走りに消えていくシンジの姿を、MAGIは漏らすことなく記録していた。

「まったく、子供というのは時として我々の想像を軽々と超えてくれる」
「でなければエヴァになど乗れんよ。そういったものは大人からは失われる、子供らの特権だからな」

そう言いながらもゲンドウは思う。
もしかしたら、レイがシンジに与えたであろう助言こそが、最高のプレゼントとなったのではないだろうかと。
偶然に重なった偶然が、思いもしない贈り物を創りだしてしまったのではないだろうかと。

「まあ、いい。これも全ては偶然にすぎない」

そう呟いて。
ゲンドウは、手の内に隠した小さな紙切れの存在を感じながら、静かに目を閉じた。