或いは何処にでも有り得た物語


「私は上がらせてもらうぞ」
「ああ、くだらん決済まで付き合う必要はない」
「お前もそのくだらん決済なんぞで倒れたりせんでくれよ。そんな事で付け入られては堪らんからな」
「心配するな、私もすぐに休むさ」

退出する冬月にそう返すと、視線を目の前の稟議書の山に戻した。
どんな組織でも上の役割というのは責任を負う事だ、とは言え、ただ承認する為だけに多くの時間を割かねばならないというのは煩わしい事だった。
冬月が帰る前から並べていた分だけ判を押すと、ひとつ息を吐いて、椅子ーー一般職員よりは遥かにまともな奴だったが、流石にガタが来始めていたーーの背もたれに全体重をかけるようにして倒れこんだ。

「14年、か」

デスクワーク用の近眼鏡の隙間から目頭を抑えつつ、ふと、これまでの日々の長さを口にした。
このどうしようも無く行き詰まった世界にあれが生まれ落ちてしまってから、もうそれ程の時が経ってしまったのだ。
まだ目は閉じたまま、空いている右手で備え付けのコンソールを叩くと、部屋の照明が一層暗くなり、デスクの上でホロディスプレイが瞬き、瞼の上から照らす。

硬くなった目尻を解しながらゆっくりと目を開ける。
そこに踊る、淡い光を放つ人型はシンジだ。
補助モニタと化したデスク上面には7時56分と示されている。
いつも通りの朝の登校時間、いつも通りの交差点での一幕。

ひとつ、またコンソールを叩く。
一瞬で映像が切り替わり、今度は教室での授業風景が現れる。
うたた寝しそうになりこくんと船を漕ぐ瞬間が、ほぼ等身大の三次元映像として再現されていた。

「この調子で成績が落ちなければいいのだがな」

だがパイロットとしての訓練がどれだけ負担になっているかを考えるといた仕方ない所だと少し唇を歪めた。
少しだけ、凝り固まった顔の筋肉から疲れが抜けた気がした。

更にキーを叩く。
次は屋上、お昼時の時間だ。
先ほどより引いたアングルには、仲の良い友人達、そしてレイも一緒に映っている。
最近レパートリーが充実してきたシンジの弁当からお裾分けしてもらい、静かに咀嚼しているその顔に表情こそ無かったが、ネルフでの自ら消し去ったようなものでは無い。
その姿を見てはにかむシンジは何を考えているのやら。
ふっと小さくつぶやく鼻息が漏れた。
少し締まりの無くなった頬の筋肉を揉みながら、ゆっくりと息を吐き、体を起こすと、書類の束に手を延ばした。
何とか、もう少し位は作業できる気力がもどってきたようだ。
だがホロディスプレイはそのままにしておいた。
どうせ誰に見られるのでも無いのだから。
コマンドを打ち込み、適当に切り替えるようMAGIに指示を出すと、次々とシンジの日常が再生されていく。
この第3新東京市に張り巡らされた監視網と、監視者であるMAGIによって“記憶"された情報を、特定の条件で再現させる。
こんな事ができる特権の極めて私的な利用方法だ。
ただ、特に指定してシンジの情報を収集させているわけではないから、あくまでもMAGIの通常業務の中で記録された情報を見ているにすぎない。
更に言えば細かい条件を指定しているわけでもないから、ここに映し出されるのはMAGIの判断が多いに影響したコレクションという事になる。
却下する申請を分類し終えた辺りで画面が切り替わり、またそちらに意識を向ける。
訓練中のエントリープラグ内、パイロットモニタの映像だった。
三次元に構築し直されたその瞳が、真っ直ぐに私を射抜き、息がつまる。
わかっている、これはただ通信機に向けただけの視線だ。
だがそれでも、今この場で私を直視するシンジの視線でもあるのだ。

息を吸う事も吐く事も適わず、私はその眼差しを受け止め続けた。
此方を見据える視線がふいと途切れ、次の映像に切り替わるその時まで、目を逸らす事ができず。
現実に焦点が戻った時、ようやく自分が決裁印を握り潰さんばかりに強く握りしめていた事に気がついた。

「糞!」

苛立ちそのままに、目の前の書類に判を叩きつけた。
二度、三度、いささか潰れた印影で"却下"の文字が貼り付けられていく。
最後の一枚に一際強く叩きつけると、深く座り直して呼吸を戻そうと努力する。
もうこれ以上は仕事になりそうも無かった。

「……今日は、ここまでにしておくか」

再びぶり返した疲れに押し潰されつつ、システムを停止させる。
つけっ放しだったホロディスプレイも動作を停止し、光を失う。
完全に消えてしまう前、最後の映像。
寝室での安らかな寝顔が、薄闇の中、網膜から離れなかった。