或いは何処にでも有り得た物語


ーーああ、夢か。

直ぐにそうわかった。
何故って、僕は僕自身の姿を俯瞰していたから。
その僕は今の僕ではなかったから。
そして駄目押しに、そこに父さんがいたのだから。

無駄に広いダイニングで、むやみに大きな机の対面で、黙々と夕食を共に消化していく、動きの少ない夢。
並んでいる料理には見覚えがある。
何日か前の夕飯に作った自信作。
それを頬張る父さんの表情がいつも通りの仏頂面なのは、きっと僕がそれ以外の顔を想像できないからだろう。
それでも夢の中の自分は、『今日もいつも通り美味しそうに食べている』、こう思うのだ。
あり得ない、酷い夢だ。
叶う筈の無い夢。
残酷な現実の映し鏡。

家族の団欒などというものを演じる自分達に向けて、自嘲ともつかぬ感情を浮かばせた。
すると、唐突に照明が眩しくなり、世界を薄闇に染め上げていく。
覚醒への予兆。
まだ、起きたくない、そんな思いと裏腹に、夢の世界の幕は閉じて。
僕の視界は、無機質な蛍光灯の光を認識した。



「……嫌な夢」

鮮明な記憶に、小さくつぶやく。
目覚めたのに、まだ妙な浮遊感の中にいる。
一度目を閉じて、ゆっくりと開き直す。
現実感を伴わない現実に折り合いを付けつつ、身体を起こそうとした。

その途端、世界が引っ繰り返った。

「うえ、う、げほっ」

強烈な目眩と吐き気に、身体が勝手にえづく。
少しだけ浮かび上がった上半身を布団に沈めると、それだけで頭の中でガンガンと何かが響いた。
鼻の奥でツンとした胃液の匂いが充満する。
喉が痛くなるまで咳込んで、涙を滲ませて、そこでやっと少し落ち着いた。

最悪だ。
これ以上に最悪な寝覚めっていうのも中々無いんじゃと思う位の最悪。
この調子じゃ学校にはいけない……、そこまで考えてから、ようやく自分が自分の部屋にいない事に気がついた。
この光、この感触、この空気は、明らかにあの病院の物だった。
何故?という疑問はしかし、目眩と同じくぐるぐるとループしてばかりで思考にならない。
代わりにと言うべきだろうか、病室のドアが開く音が聞こえて、そこでループも一時停止となった。
硬質な床材と反発するヒールの音。
そんな物すら脳に直撃する様な痛みを叩きつけてくる。
両の手で左右から頭を押し潰す様にして抑えこみ、内側から打ち寄せる鈍痛の波を和らげようと奮闘してみるが、その波と同じ調子で脈打つこめかみの感触を掌に伝えるだけに終わった。

「まだ、大丈夫じゃなさそうね」
「赤木さん……」
「ああ、喋らなくていいわ。痛み止め頼んで置いたから、少し待ってちょうだい」

少し浮き上がっていた僕の頭に、赤木さんの手がそっと触れ、後頭部から包み込むような肌の感覚が生まれた。
自分で押さえ込んでいても止まなかった痛覚が、少し和らいだ、そう思う。
首の力が抜けて、僕の頭の重さを彼女の手が支える。
ゆっくり、本当にゆっくりと、僕の頭が枕に沈む。
ずいぶんと時間をかけて全部の重さがベッドに行き渡ると、頭の下敷きになっていた彼女の手が髪をひとなでするようにして隙間から抜け出した。

人肌の熱が離れる。
少しの喪失感と共に、また頭痛がぶり返した。

その時思わず顔を顰めたのに気付かれたらしい。
赤木さんの手の熱が、今度は額から伝わる。
その間も僕に向けられた瞳は落ち着いた、しかし優しげなものだった。
あの厳しい赤木さんが、などという驚きの感情を持つことはなかった。
何故って、僕は知ってたから。
この人が訓練中に時折見せる気配りや嫌味を言いつつもミサトさんに手を貸してしまうことなんかを。
実は大の猫好きだというのは近しい人なら誰もが感付いているだろう。
猫好きで世話焼きの天才科学者。
言葉にすると、何か滑稽だな、などと思いながら。
その手の温かさに誘われるように、僕は微睡みの中へ沈んでいった。



圧搾空気の解放する音。
夢、ではない。病室の入り口が開いた音だ。
そう気付いて、意識が覚醒した。
近づく足音にゆっくりと瞼を開く。
案の定、上から覗き込んだ顔は赤木さんだった。

「随分顔色は良くなったわね。どう、気分は?」
「少し気怠いですけど、大丈夫みたいです」
「そう。良かったわ。でも無理しちゃダメよ。半分は薬の効果だから」
「はい」

素直に頷く。
それで視界がひっくり返ることもないので、大分安定したようだった。
たおやかで女性的な手が、額にひたと触れてから、僕の頭を撫でる。
その心地よいくすぐったさに、目が覚める前にも彼女が撫でてくれたのを思い出す。
けれど考える余裕ができたせいだろうか、今度は少し恥ずかしさも芽生える。
真正面から赤木さんを見つめていられなくなって、柔らかく撫でられながらも顔を横に逸らした。

「……あ」

期せずして、視界に入ったのは、花。
黄色を基調として小綺麗にアレンジメントされた切り花が、やはりこじんまりとした花瓶に生けられていた。
青白い滅菌灯の光の中にあって微かに感じ取れる程度の薄い芳香が、無機質な病室の雰囲気を和らげているようだった。

「お花、ありがとうございます。少し落ち着く感じがします」

まだ頭を撫でられながらだったので、視線は花瓶に向けたまま、そう口にした。

「あら、私じゃないわ、それ」
「え、でも……」

意外な返事に、恥ずかしさも忘れ降り仰ぐと、赤木さんも思案げな表情。
ここはネルフの専属病院だから、お見舞いに来られる人だって限られるのだ。

「アスカも綾波も学校だろうし、じゃあ、ミサトさん?」
「……どうかしらね」

そのままでの顔で赤木さんが呟く。
ミサトさんじゃ、ないのだろうか。
でも他に誰が……。

「そんなに深刻になる事でもないわ。それよりあなたはもう少し安静にしていないと」
「あ、はい、わかってます」

最後に髪を整えるようにしてから、彼女の手が離れていった。
起きてお礼を言おうかとも思ったけれど、きっとそういうことを望む人では無いから、素直に体を休めて見せた。
凛とした表情が優しげに綻ぶ。

「また来るわ。寝られるなら寝ておきなさい」
「わかりました」
「ふふ、それじゃ。また後で」

最後に飾られた花を一瞥して、赤木さんが病室から出て行くのを、横になりながら目で追いかける。
圧搾空気の抜ける音。
夢の中でも聞いた音。

壁越しに遠ざかるヒールの音を聴きながら、視線を自動ドアから隣の棚へと戻す。
最後に見ていた夢は、どんなものだっただろうか。
あれは、夢だったのだろうか。
朧げに浮かぶシルエット。
硬く、武骨で、でも腫物に触るように恐々と触れる掌。
静かに離れていく背中。

「父さん?」

そんな、まさか。
この記憶は、きっと僕の願望。
夢という形でたまたま頭の片隅に居座った、幻想だ。

頭を一振り、ふた振り。
浮かんだ情景を振り払い、深々と枕に沈みこむ。
それでも、赤木さんより大きな手の残り香だけは、いつまでも消えなかった。