金槌


「わ、ちょっと、馬鹿、しがみつかないで!」
「無理無理無理無理!!」

そんな会話が繰り広げられる、ここはネルフの職員用プールである。
しがみつかれているのは惣流・アスカ・ラングレー。
赤みがかった金髪、整った顔に14歳という年齢に似合わぬ大人びた体型をストライプの入ったツーピースの水着が強調しているが、現状は美しさや可憐さとはかけ離れているようである。
そしてしがみついているのは碇シンジである。
地味な紺色のスクール水着を身に着けた、黒髪の華奢な少女であった。こちらはアスカより更に余裕の無い雰囲気で、必死の形相で抱きついているのだった。


何故こんな事態になったのか。
そもそもの発端は碇シンジがカナヅチであるとアスカに知れたことだった。

「仮にもパイロットが泳げないなんて、お話にならないわ!私がみっちり教えてあげようじゃないの」
「……別に泳げなくても……」
「だめよ、エヴァで水に落っこちたらどうすんのよ?」
「そもそもエヴァって浮かばないし、僕が溺れるわけじゃないし……」
「だー、もう、素直に教えられときなさい!」

などという会話があったとか。
ともかくも押しの強いアスカと流されやすいシンジでは、はじめから結果は明らかである。
かく言う事情によってプールを貸切にしてマンツーマンで教えていた、はずだったのだが。

「だめだめだめだめ、足つかないよ!」
「だから離しなさいって、こっちまで溺れるっ」
「あうっ……」

所詮はアスカも14歳の女の子でしかない。
泳げない人間を水中に叩き込み、そこに自ら入っていくことの危険性をまだわかっていなかったのであった。
まさしく溺れるものは藁をもつかむ、藁代わりにがっちりとつかまれたアスカは自らも身動きが取れず危うく二人ともども溺れるところであった。

「死、死ぬかと思ったわ……」

シンジが先に気を失ってしまったからこそ良かったようなものの、無計画もほどほどにといったところである。



「そうよ!そもそも溺れるからまずいのよ!」
「……今度はなに?」
「溺れなきゃ簡単に練習できるわ」
「それが出来れば泳げてるんじゃないかな?」
「ネルフにはいいものがあるじゃない」
「だから何?」

そんな会話をしながらついた部屋には赤木リツコのプレート。
ネルフ技術部トップに君臨する彼女の部屋に、アスカは無遠慮に押し入って、こう言い放った。

「リツコ、LCL槽貸してくれない?」
「あら、アスカ。あんなところで何をするつもり?」
「シンジの水泳の特訓よ!」
「リツコさん、アスカを止めてくれませんか?何言っても聞いてくれなくて……」
「あら、面白そうね」
「リツコさーん……?」

意外にも乗りが良いのかはたまた変なスイッチでも入っていたのか、目の下の隈を見る限り後者のようであるが、ともかくも彼女が暴走してしまうとそれを止められるものなどネルフには存在しなかろう。パイロット訓練と称してあっさりと許可を出させてしまったのであった。

LCL槽、それはその名の通りLCLで満たされたプールのようなものである。
エヴァに乗る時、これがエントリープラグを満たすのであるが、この液体は直接呼吸が出来るという優れものなのである。
つまりその中ならば溺れるということ事態が発生しないというわけだった。

「これなら心置きなく練習できるわね。あんたもエヴァで慣れてるでしょ?」
「別に泳げなくてもいいのに……」
「何か言った?」
「なんでもないです」

先に飛び込み泳いでいるアスカを見て、半ばヤケクソ気味にそう言う彼女。
心なしか暗い顔をしながらも溺れはしないという安心感からか、あっさりと飛び込み……あっさりと沈んでいった。

「あーすーかー、そーこーにつーいーちゃーったーんだけどー」

奇妙な残響を残しながら水中から声がしている。
泳ぎ方を知らない彼女にとっては、水面に上がる方法が思いつかないのである。
手足をばたばたさせているがまったく持って推力が発生していない。
そもそもシンジは一つ大きな間違いを犯していた。
彼女はいつもエヴァに乗っている時のように、LCLを思いっきり肺に取り込んでしまっていたのである。
もともとふくよかとはとてもいえない彼女の体、そこに肺の空気まで無くなれば、人間浮かんでいられるわけは無い。
「人間はそもそも浮かぶようには出来ていない」とは彼女の弁である。

「……筋金入りの金槌といったところね」
「なんか挫けそうになってきたわ……」

諦めと憐れみの視線が注ぐ中、もがきつづける碇シンジ。
彼女が泳ぎを体得するのはまだまだ先のようである。